『学校でしなやかに生きるということ』(石川晋 フェミックス)
内容として一番唸ったのは、Facebookにも公開したという学級通信だった。
「大切なことは面倒くさい…集団的自衛権のこと」と題されたその中身にはしっかりした思想があり、主権者としての私達がけして忘れてはいけない姿勢が見える。
★結果として憲法が改正されてもされなくても、集団的自衛権の行使の幅が広がっても狭まっても構いません。面倒な手続きを丁寧に踏んだ結果なら、それでいいのです。面倒なことを省略してものごとを進めてしまおうとする態度が見え隠れすることに危機感を持っているのです。
憲法の条文に対する賛否以上に大切なのは、その過程であり、問題への向き合いであることは、法治国家としての礎でもある。
それは教育の場に直接当てはまることとも言えよう。
つまり「話し合いによる解決」「手続きを踏んだ決定」を繰り返し経験し、構成員の意思が反映(もしくは配慮)された筋道をつくる力をつけることは、学びとして必須なのである。
日常の教育活動に照らし合わせる前に、学校教育を取り巻く社会状況がそうなっているか、現場における職員会議、仕事の進め方はどうなのか、が大きく問われることは言うまでもない。
限定された地域で働いた者としては、大局的に評価することは避けるが、少なくとも自分の周りでは「効率至上主義」「横並び文化」が横行してきたことは否めない。
この著書の中で、私が最も重く受け止めた言葉は「自己検閲」だった。
日に日に(見えない)制度化を強めていく学校という現場の中で、自分がキャリアを変えながら歩んできた道は、正直にいえば、自己検閲を拡大させていった歴史だ。
危機感や反発する心は持っていたし、細やかな抵抗もいくつかはしてきたつもりだが、結局のところ強い流れに藁を差すような程度だったろう。
時々思い出したようにその息苦しさを吐露してみたり、何か別の観点に置き換えてどこかに正当性を見出そうとしたりしたことも、苦く込み上げてくる。
さて、著者の下地はずばり何だろうか…思い浮かぶことは「信頼」という二文字である。
引用した学級通信に書かれた文章を、一番底で支えている感情はそれだと思う。
その点については生徒に対しても、同僚に対しても一貫している。
きっと初任の頃の酷い学級崩壊の場であっても現在であっても、職場にあってもネットワークを通じた交流であっても違いがないだろう。
そしておそらく、それを貫く過程で失望したり、傍からみれば裏切られたりしたことも少なくないように思われる。
失礼を承知で書けば、傷つきつつもそれらを消化してしまった強さこそ、しなやかさの源となり、したたかさの動力となり得ているのではないか。それはまた、自分自身に向けての信頼と言ってもいいかもしれない。
だから、単純な「修業」論として以下の文章を読むことは難しいと思う。
★いまに至るまで話しつづけ、書きつづけ、読みつづけ、その結果として、起こる考え方や実践の変化を大切にして仕事をするということが、自分のルーティンになるまで繰り返してきた。
若い方々に、今の自分と照らし合わせて読んでほしい一冊だと思った。
内容として一番唸ったのは、Facebookにも公開したという学級通信だった。
「大切なことは面倒くさい…集団的自衛権のこと」と題されたその中身にはしっかりした思想があり、主権者としての私達がけして忘れてはいけない姿勢が見える。
★結果として憲法が改正されてもされなくても、集団的自衛権の行使の幅が広がっても狭まっても構いません。面倒な手続きを丁寧に踏んだ結果なら、それでいいのです。面倒なことを省略してものごとを進めてしまおうとする態度が見え隠れすることに危機感を持っているのです。
憲法の条文に対する賛否以上に大切なのは、その過程であり、問題への向き合いであることは、法治国家としての礎でもある。
それは教育の場に直接当てはまることとも言えよう。
つまり「話し合いによる解決」「手続きを踏んだ決定」を繰り返し経験し、構成員の意思が反映(もしくは配慮)された筋道をつくる力をつけることは、学びとして必須なのである。
日常の教育活動に照らし合わせる前に、学校教育を取り巻く社会状況がそうなっているか、現場における職員会議、仕事の進め方はどうなのか、が大きく問われることは言うまでもない。
限定された地域で働いた者としては、大局的に評価することは避けるが、少なくとも自分の周りでは「効率至上主義」「横並び文化」が横行してきたことは否めない。
この著書の中で、私が最も重く受け止めた言葉は「自己検閲」だった。
日に日に(見えない)制度化を強めていく学校という現場の中で、自分がキャリアを変えながら歩んできた道は、正直にいえば、自己検閲を拡大させていった歴史だ。
危機感や反発する心は持っていたし、細やかな抵抗もいくつかはしてきたつもりだが、結局のところ強い流れに藁を差すような程度だったろう。
時々思い出したようにその息苦しさを吐露してみたり、何か別の観点に置き換えてどこかに正当性を見出そうとしたりしたことも、苦く込み上げてくる。
さて、著者の下地はずばり何だろうか…思い浮かぶことは「信頼」という二文字である。
引用した学級通信に書かれた文章を、一番底で支えている感情はそれだと思う。
その点については生徒に対しても、同僚に対しても一貫している。
きっと初任の頃の酷い学級崩壊の場であっても現在であっても、職場にあってもネットワークを通じた交流であっても違いがないだろう。
そしておそらく、それを貫く過程で失望したり、傍からみれば裏切られたりしたことも少なくないように思われる。
失礼を承知で書けば、傷つきつつもそれらを消化してしまった強さこそ、しなやかさの源となり、したたかさの動力となり得ているのではないか。それはまた、自分自身に向けての信頼と言ってもいいかもしれない。
だから、単純な「修業」論として以下の文章を読むことは難しいと思う。
★いまに至るまで話しつづけ、書きつづけ、読みつづけ、その結果として、起こる考え方や実践の変化を大切にして仕事をするということが、自分のルーティンになるまで繰り返してきた。
若い方々に、今の自分と照らし合わせて読んでほしい一冊だと思った。
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