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出逢いたかった日本人

2012年12月10日 | 雑記帳
 年に一、二度見るぐらいでは、とてもとても歌舞伎ファンとは言えないが、ちょっとは興味ある分野だ。

 初めて見たのが教員になった年の研修旅行で、花道近くで市川海老蔵(今の団十郎)を見たことを今でも覚えている。
 その後あまり縁はなかったが、四十代になってからはお金とチャンスに恵まれれば出かけるようにしていた。筑波での研修の折にも半日日程で歌舞伎見学が組まれたことがあり、その恩恵に与った。今は昔の話である。

 そんなことで、名の知られている役者はほとんど観ているような気がするのだが、どうしてもめぐり逢えなかった人がいる。

 中村勘三郎である。

 いつかはと思いながら、結局叶わなかった。

 思い入れがあるのは、同い年ということが大きいかもしれない。
 桑田佳祐や郷ひろみ、江川卓から千代の富士、明石家さんまから役所広司まで、ついでにビル・ゲイツまで並ぶ超豪華なラインナップの同学齢著名人のなかに、「勘九郎」もいたことを知ったのはかなり以前だったと思う。

 息子たちの成長とともにテレビで時々描かれる「中村屋」の物語はいつも見ていた。その範疇での情報しかないが、やはり周囲の人間を惹きつける独特の光を放った人だと思う。

 亡くなってすぐに特集された番組のラストシーンは、「勘九郎」としての最後の舞台終了を、歌舞伎座のスタッフが奈落の通路で見送る場面だった。歌舞伎座でかつて一度もなかったことなのだという。

 そのエピソード一つで、勘三郎の凄さが伝わるような気がした。

 日曜の新聞文化欄に、勘三郎を悼む記事が載った。書いているのは、これもまた同い歳の野田秀樹である。舞台を通しての交流も深い。
 野田はこう書いた。

 あいつほど「日本人」という言葉が似合う男もいない。

 そして続けた言葉に、ぐっと迫るものがある。

 たぶんそれは、我々が歌舞伎に見る幻想でもある。

 古い「日本人」を描く架空の物語としての歌舞伎に、一番似合う男だったわけだ。
 そして野田は続けて、絵空事としての「日本人」を今なお現実に生きていた男として、勘三郎を悼んでいる。

 野田の独白のような句が載っている。

「富士紅葉名残の月に 勘三郎」

 大事なものや人は、早いうちに見ておかなければならない、そんな気にさせられた。

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