スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

女流王位戦&不明なこと

2016-05-27 19:04:16 | 将棋
 札幌で指された昨日の第27期女流王位戦五番勝負第二局。
 里見香奈女流王位の先手で岩根忍女流三段のノーマル中飛車。双方が美濃囲いに組む持久戦になりました。
                                     
 第1図は昼食休憩明けに後手が金を上がった局面。ここから▲6五歩△7三銀引▲6六銀と進んでいます。
 このように厚みを築いて先手の作戦勝ちというと,確かにそのように思えます。ですが僕が将棋を覚えた当時の居飛車対振飛車の対抗形では,この程度の局面になることはそう少なくはなく,それで一局の将棋という認識がある程度は共有されていたようにも思うのです。現代将棋は主導権を握ることが重視されるので,確かに僕も今ではこの局面を見ると先手の方がうまくやっていると思いますが,将棋観の変遷を感じるようなところもあり,感慨深い印象を受けました。
 △4二角▲6八角△2二飛▲8七銀△3三桂▲7八金△2五桂と進んで第2図。
                                     
 この部分の後手の指し方は僕が将棋を覚えた頃にはなかったもの。ですがこう動いてしまったので後手はかえって苦しくしたように思います。たぶん自分からは動かずに待ち続けていた方が,指しにくいとしてもチャンスは得られたのではないでしょうか。以前はそれで一局という認識が共有されていたとすれば,待ち続けるという指し方が振飛車にとってそんなに悪いものではないと思われていたからなのかもしれません。
 里見王位が連勝。第三局は来月8日です。

 本性の変化と完全性の移行を同じ事柄の別の観点と僕は解します。したがって,現実的に存在する人間の精神が,自分の身体の本性が変化するということを認識し得たとしても,それがどう変化するかまでは認識し得ないとするなら,現実的に存在する人間の精神は,自分の完全性が移行することは認識し得ても,どう移行するのかは認識し得ないという結論にならなければなりません。
 ただし,僕がここで認識するというのは十全な観念を意味します。現実的に存在する人間は自分の喜びおよび悲しみを認識することはあります。つまり自分の完全性が,より大なる完全性からより小なる完全性へと移行したのか,それともより小なる完全性からより大なる完全性へ移行したのかということは,すでにいったようにこの感情によって認識することはできます。ですがそれは事物についての十全な観念ではありません。とくに自身の悲しみの認識は,第三部定理五九によって必然的に自身の受動の認識です。よってそれは第三部定理一により十全な観念ではありません。すなわち精神の能動に属する理性による認識ではあり得ません。
 ここから理解できるように,僕たちが何らかの刺激を受ける受動によって本性が変化したり完全性が移行したりする場合には,仮にある刺激を受けたなら必然的に本性の変化と完全性の移行が生じるということは十全に認識し得たとしても,それがどう変化してどう移行するのかということは十全には認識し得ないといわなければなりません。なのでかつてなし得たことがなし得なくなるような本性の変化,たとえば老眼によって細かい字が読みにくくなることも,またなし得なかったことがなし得るようになること,たとえば耳鳴りがするようになるということも,同じように老化と表現するのであれば,一般的にいえばどちらの場合でも完全性がどう移行するのか,つまりそれによって喜びを感じるのか悲しみを感じるのかということは不明であることになります。他面からいえばそうした概念は,一般的な認識である理性による認識の本性に属さない認識であるという意味において,理性にとっては不明であるといわなければならないのです。
コメント
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