スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

漱石のメモ&混合の排除

2013-09-15 18:51:49 | 歌・小説
 船内での論争に関しては,漱石によるメモが残されているという研究成果を,高木文雄は『漱石の道程』に発表しています。
                         
 メモは手帳に書かれたもの。メモといっていますが大変な長文。しかも英語で書かれているとのことで,全文の紹介はありません。高木はその要点をまとめていますが,それでも十分に長いので,さらに僕が概略化すると,次のような内容です。
 宣教師たちは漱石らのことを偶像崇拝者とみなしている。しかしキリストは偶像そのものである。キリスト教は偉大な宗教であり,信者が信仰によって救済され得ることは認める。しかし教派に分裂しているのに唯一の宗教だというのはおかしい。宗教は信念であり,論証や道理ではない。だから個々の信仰の自由を認めなければならない。自分はすべての宗教を含むものを自分の宗教とする。
 具体的にどのような論争があったのかということ,また宣教師の宣教がどのような内容であったのかということが不明なので,漱石がこのメモで具体的に訴えたかったことが何であるのかということは,残念ながら分からないというべきです。ただ,漱石がキリスト教を宗教として完全に否定していたというわけではないということは確かでしょうし,信仰の自由が認めなければならないということを,一般的な考え方として有していたということも,ここからは間違いないといえそうです。
 キリスト教に対するメモではあるのですが,これは漱石と宗教について一般的に理解するためにも有益なものといえるのではないでしょうか。とくに最後の部分,漱石が自身の宗教について語っている部分に関しては,単にキリスト教に限らず,何らかの排他性を有するようなあらゆる宗教に対する批判的内容をもっていると考えられるからです。

 ある観念が人間の精神のうちにあるとみられる限りでは,第二部定理七系の意味が適用されないということは,第二部定理二九備考から明らかです。すなわちこの観念は,単に人間の精神とだけ関連付けられるなら,混乱した観念である場合もあり得るからです。一方,第二部定理三八系が意味しているのは,人間の精神の一部は,必然的にある十全な観念によって組織されているということです。したがって,人間の精神のうちにXの観念があるという言明は,その観念は十全な観念でもあり得るし,混乱した観念でもあり得るというように理解しなければなりません。
 十全な観念というのは精神の能動とのみ関連します。一方,混乱した観念というのは精神の受動とのみ関連します。そして僕の理解では,能動と受動の相違というのは,スピノザの哲学においてはきわめて重要な相違なのです。しかるに,もしも第二部定理九系を積極的な意味において解するという場合には,単に人間の精神の一部を構成する観念とだけ関連付けられます。つまりそこには十全な観念も混乱した観念も含まれてしまいます。いい換えればそこには精神の能動も含まれるし,精神の受動も含まれるということになってしまいます。僕はこれを避けたかったのです。だから第二部定理九系の理解について転向をした後,第二部定理九系の消極的意味というのを採用しました。
 実際,第二部定理九系の消極的意味というのを採用すれば,精神の能動と精神の受動の両方が,同じ意味に含まれてしまうということを回避することができます。なぜなら,もしも人間の精神が何を認識するのかということをターゲットにすれば,十全な観念も混乱した観念もその中に含まれます。第二部定理九系を積極的に解釈する場合がこれに該当します。しかし,第二部定理九系の消極的意味の主眼は,人間の精神が何を認識するのかということをターゲットにはしていません。むしろその標的になっているのは,人間の精神は何を認識しないのかという点にあります。認識しないのなら,それが十全であるか混乱しているのかを問うこと自体が不毛だということになるのです。
 これで今回の考察は終了。明日からまとめに入ります。
コメント
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