スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&十全な観念の場合

2010-06-11 19:03:09 | 将棋
 第一人者の羽生善治名人に昨年の新人王に輝いた広瀬章人五段が挑むという図式の第51期王位戦挑戦者決定戦。公式戦では初対局。
 振駒で広瀬五段の先手。迷わず四間飛車穴熊にすると羽生名人も居飛車穴熊と,相穴熊に。
                   
 ここで後手が△5四歩と呼び込んで激闘開始。▲同銀△7七飛成▲同桂△6九角▲5三銀成△5八角成▲4二成銀△同金上と進展。手順中,後手に連続長考があったとのことで,あるいは誤算があったのかもしれませんが,手を変えるのは不自然に思えますし,はっきりとした差がついたということもないようには思えます。
 少し進んだのが第2図。
                   
 ここで△4七馬としましたが,この手が最終的な敗着になったのではないかと思います。▲同銀△5七金▲5五馬△4七金。そこでいきなり▲2二馬と切っていきました。この手順の途中から観戦を始め,これで勝ったらかっこいいなと思ったのですが,よく考えると△4七金と取った手はそれほど先手玉に迫っておらず,これではっきり先手の一手勝ちでした。
 広瀬五段が勝って挑戦権獲得広瀬五段は僕が期待している棋士で深浦康市王位は応援している棋士。個人的にはとても楽しみなシリーズになります。開幕局は来月13日と14日です。

 スピノザが定義する意志作用,すなわちそれはある事物を希求したり忌避したりする精神の傾向ではなくて,真理を肯定し虚偽を否定するような思惟の様態であるという点に注意するなら,実は個々の意志作用というものが個々の観念にほかならないということは,十全な観念の場合にはきわめて一般的な様式で証明することができます。
 まず第二部定義四からして,十全な観念というのは真の観念をその内的特徴という観点からみた観念です。いい換えればある人間の精神のうちにAの十全な観念があるということは,この人間の精神のうちにAの真の観念があるということに同じです。ただそこには観点の違い,すなわち観念を内的特徴からみるのか,外的特徴からみるのかという相違があるだけです。
 次に第二部定理四三により,もしもある人間の精神のうちにAの真の観念があるならば,この人間はその認識を真理ではないと,要するに自分の精神の一部を形成しているその真の観念が真の観念でないと疑うことができません。
 これらのことからして,もしもある人間の精神のうちにある十全な観念があるのなら,少なくともこの人間が,その観念を否定することはできないということが明らかでしょう。つまりもしもある人間の精神のうちにAの十全な観念があるのなら,この人間はこれを否定するような意志作用を有することはできず,もしも有し得るならばこれを肯定するような意志作用だけであるということになります。
 しかし,これを肯定する意志作用が現実的にあるということは,実は第二部定理四三によってすでに明らかになっているといえるのです。なぜならば,真の観念を有している人間がそれを真の観念であると知ることができるということは,その真の観念についてそれを真であると肯定しているということにほかならないからです。もしも僕たちがそのことに気付かないとしたら,それはただそうした肯定が肯定として意識されていないからにすぎないのです。
 ところで,こうした肯定は肯定される真の観念がなければあり得ないのは当然です。しかし僕たちはある事柄を知っていれば,それを意識するかどうかはともかく,それを知っているということについて知ることがただそれだけで可能なのですから,この肯定がなければ観念の方もあることができません。あるいはこの観念はこのように肯定されることなしにはあり得ません。だから一般的に十全な観念とそれが含む意志作用は同一のものであるということになるのです。
コメント
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