人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨の方が世に出る

2024-03-11 09:37:57 | 現臨、ハタラキ
私が現臨と呼んでいるものは、最近のスピ界隈、特にノンデュアリティ系のものでは、”プレゼンス(ズバリ、臨在!)”、という呼び名が定着しつつあるようです。
大変喜ばしいことです。私は私なりの慣例に従うまでですが、同じようなものと思って間違いないでしょう。
それにしても、ようやく現臨の春が来たって感じですよ!...といっても、気付いていないだけで、それは人類の出現と共にとっくに存在していたと言ってもいいのですが...そうでなければすべての宗教も哲学も、精神世界のことは生まれるはずが無かったのです。
そうしたものに通底しているもの、貫いているものが言葉の上では(一応)現れたという訳でしょう。
だけど、言うまでもなく、言葉、概念に留まっているだけでは、それは生きたものになりません。なんつったって、現実に臨んで実在しているものなのですよ!
臨在というのは、ただ見えるように顕わになることじゃない、その意味の実在ではありません。
それは、”臨在感”というものが伴って言い表されるものということなのです。
つまり、神的なものの現臨、臨在ということと自己自身が実存することとは切り離すことが出来ないのです。
そのように、あらゆる伝統的宗教では、神的なものへの探求と自己実現は一つのものとして捉えられていました。
それには、瞑想修行などを通して、”如何にして思いを超えるか”、というアプローチが試みられてきたのです。
しかし、もしそこで我々に臨在というものが感受されたなら、思いを超えた状態がどういうものか、ということが分かるでしょう。既に思いを超えたものと共にある!
ノンデュアリティ系の教え(私はそのある面はとても共感しています)などで、これが浸透しているのは、この”修行しなければ、それを得ることが出来ない。又それには幾つかの段階を経なければならない”、といった段構えを超えた直接性を示すものがあるからでしょう。
我々の精神的な道はここまで進んだのか?...いいや、ただの言葉に留まっているだけだったら、我々の思い、為す何かのことに囚われていたら、ブッダやイエスの昔から一歩も進んでない、いやそれに及んでもいないのかもしれません。
これには、そういうことからは説明のつかないものを私は感じてならないのです。
これはだから...本当に現実に、その思いを超えたものが我々に臨んで来た、より我々の意識に浸透し始めた、ということを物語っているのではあるまいか?!
そうでなくて、何で私がこうしてパッとパッと、言葉が浮かんだままに書き表すことが出来るのでありましょうか?
そう、顕わになっているから表わせるのです!...年々顕わになっているではないか?!
私だけか?...
少なくとも、私が現臨などという、聞き慣れない、ヘンなもののことを書いていない、ということはお分かり頂けたでしょう?...
私は永久に世には出ない日陰者ですが、現臨の方が世に出てやまないのです!

コメント
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