人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神が現臨する場所

2024-03-13 09:43:26 | 現臨、ハタラキ
神的なものが臨むところに愛、安らぎ、リアリティがある。そこで思いが超えられる。
そこに私は実存している...

こう表してみてこれは、そういう場所というものが想起されてくるのではないでしょうか?
私はその場にある。
一寸イメージしてみれば...少なくとも空間的に自己は、自己を超えたものに拠っていることが示され、さらに思いも超えられてくるのが感じられないでしょうか?
思われたものだけがすべてではない...これだけで、がんじがらめの思い煩いの苦しみから救われるのではないか?
又、五井先生などは、”思いを神の中へ投げ入れるのです!”、とか言われ、小池辰雄先生も”キリストの中に祈り入れ!”、などと言われます。
すると、私なんかは、どこにどう投げ入れるのか分からない(笑)。又”ぶっ倒れろ!”、とか。これでケガなしに安心してぶっ倒れられます(笑)...。
なんだ!...神の方が臨んでくる...否、元々そういう場所の中に入れられていたではないか!...神が現臨する場所に。
あるいは又、神につながるとか一つになるとか言います。この私が手放しでそういうことにはなりません。
それは、この場にあってつながる、一つになるということでしょう。
いや、そういう場所を介したものでは、自己が直接つながるということにならないではないか?、なーんてことも私は考えたこともありました。
だけど、それは正にそう考えているということではありませんか?
現臨する場にあって思いは超えられる、ということなのです。
これは実際に、”私は神と一つだ”、と思おうとしてもそう感じてこないものが(逆説的ですが)、より直接的にそのことが実感されてくることで分かるのです。
日増しにその感が強まってくるようです。現臨の場の醸成が徐々になされてきているのではないでしょうか?

この神と自己が出会う場所については、私もここで著者「創造的空への道」を取り上げたこともある、宗教哲学者の八木誠一先生が長年究明されております。
それは、西田幾多郎先生の「場所論」を踏襲され、さらに広く深められたものと言えるかと思いますが、不勉強ながら私は両先生の研究に触れたのは、ごく最近のことなのでした。
私はとても先生のように、学究的、体系的には行きませんが、その言葉に表せないものを言語化されている努力には、全く頭が下がる思いにさせられます。
私は神的な現臨とかハタラキなどについて、私なりにテキトーに書き表して来ているうちに、この“場所感”なるものを覚え、約一年前、八木先生に本格的に触れたことでさらに輪郭というか、そう“場所“を与えられたようにも感じています。
このことをここで深く感謝せずにおれません。
コメント
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