思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

NHK教育「100分de名著 <新> ニーチェ“ツァラトゥストラ”」1-(1)・偶然

2011年03月31日 | 哲学

昨夜(20日)からNHK教育で

[字]100分de名著 <新> ニーチェ“ツァラトゥストラ”<全4回>

という番組が始まりました。昨夜はその第1回目ということになります。
 
 番組案内サイトによりますと、

『ツァラトゥストラ』、『論語』、『学問のすゝめ』・・・誰もが一度は読みたいと思いながらも、なかなか手に取ることができない古今東西の“名著”を25分×4回=100分で読み解く、

ということで、ニーチェの後は、孔子、福沢諭吉・・・となるようです。司会は、早稲田大学哲学科卒業で演劇好きの堀尾正明アナウンサーと現役大学生の瀧口友里奈さんというお嬢さんです。

 解説者は、東京医科大学教授の哲学者 西研先生でその風貌と語り口は見るものを惹きつけるものがあり第一回目からとても分かりやすい内容でした。

 入門編の第1回は、

[番組内容]
 「ツァラトゥストラ」のあらすじと、解読の3つのポイント「ニーチェのおいたち」「ルサンチマン」「価値の転換」を紹介する。キリスト教を基盤とした19世紀ヨーロッパの価値観を根底から覆そうとした、挑戦的な哲学者だったニーチェ。同書は、40歳を目前にしたニーチェが、聖書に対抗する書として発刊した。執筆の目的は、人間を堕落させるしっと・恨みの感情「ルサンチマン」を、どう克服するかだった。

というものでした。

 10年間山にこもって修行した知恵を蓄えたツァラトゥストラ(超人)は、その成果を伝えようと山を下ります。

 そして「神は死んだ」とかたるツァラトゥストラを民衆は、敵視しあざ笑う・・・・。

 東日本大震災以来私の脳裏に残る言葉に「偶然」という言葉があります。なぜこんな目(大災害)に遇わなければならないのか、そんな疑問があるのかも知れません。

 知れませんではなく本来「ある」と断定すべきなのでしょうが、身につまされる問題は日々の中にあり、今回の出来事は最終章、人類にとっての共存共栄の最終章、よく私自身が解りませんがそう思いたい気持ちからです。

 偶然は、偶然ではない!

という分析心理学者のC.J.ユングの言葉がありますが、最近ブログで「偶然」という言葉を扱ってきました。昨夜まで哲学者九鬼周造先生のことを書いてきました。九鬼先生のことをいろいろな角度から見ていくと「ニーチェ」が見えてきます。それはニーチェも偶然性を語るからです。

 そこには九鬼先生のように、正面から取り組むのではなく、「意味の無いもの」としての視点からです。

 今朝はふだんの番組紹介と違い、別角度から九鬼先生との対比の中でニーチェの偶然について精神医学者の木村敏先生の著書から次の記述を紹介したいと思います。

<引用『偶然性の精神病理』岩波現代文庫>

 九鬼周造はその『偶然性の問題』(1)において、偶然性がその極限において必然性と結合し、その接点に「運命」が成立する構造を印象深く述べている。個人が個別的存在としてこの地球上に誕生し、現在の生を生きているのはまったくの偶然である。そこに何の根拠もない。しかし、いったんこの世に生を享けた以上、われわれは自らの個別的存在を自己として、あるいは自我として、主体的に生きなくてはならなくなる。
 
何人も逃れられぬこの運命は、個別的自己という偶然と普遍的生命という必然との---あるいは生成と存在との---接点に生じる微分的な「いま・ここ」の現象だろう。だからこの運命は、普遍的生命の別名である「力への意志」あるいは「死の欲動」によって絶えず培われている。

フォン・ヴァイツゼッカー(2)は、あらゆる生きものが自らの「生命の根拠」とのあいだに保っている「根拠関係」のことを「主体性」と呼んだが、この主体性とは実はここでいう運命のことにほかならない。

 偶然性はそれ自体、なんの根拠ももたない。世界のすべてが偶然であると観ずるとき、ニヒリズムはその極に達する。すべてが偶然であるとき、「同じことの永遠回帰」が成就して、「反復強迫」は止まるところを知らなくなる。そこに科学的あるいは宗教的な真理の入り込む余地はまったくない。

一見普遍的な真理の成立しうるのは、個別的自己が実存的に自らを自我として定立し、偶然性を根拠の必然性に繋ぎ止める作業を通じてでしかないという大きな逆説がここに出現することになる。真理とは、虚無に直面した人類が、偶然性における主体の破滅から身を救うために案出した方便にすぎない。そして「自我」とは、われわれの一人ひとりが、偶然性の翻弄から身を護ろうとして発明した虚構にすぎないのではないだろうか。

(1)九鬼周造『偶然性の問題』全集第二巻、岩波書店、一九八〇年、特に二二四頁以下、本書「序論」八頁以下をも参照。
(2) ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(木村敏・浜中淑彦訳)みすず書房、一九七五年、二九八頁。

<以上P65~p67>

 ニーチェの「真理・ニヒリズム・主体」につての語りの文末の言葉です。

「力への意志」「永遠回帰」などの言葉が書かれていますから、九鬼先生との対比でニーチェの偶然が書かれています。

 番組では語られていませんが、「ツァラトゥストラ」の偶然は次のように語られます。

【ツァラトゥストラ】

 「まことに、わが友たちよ。人間の間を歩いていると、まるで人間の断片と、バラバラになった手足の間を歩いているような気持ちがする。人間が木っ端微塵に分断され、それが戦場か場さながらに散乱しているのを見るのは、わたしの目には空恐ろしい。

今の世から目をそらせて昔を見ても、見いだされるのは常に同じもの、断片と手足の一部、そして無慈悲な偶然ばかり。---人間の姿は一つもない。」

・・・・・・・・・・

 「そして一切の私の努力は、断片であり謎であり、無慈悲な偶然であるところのものを、一つに凝集し(dichten)総合することにある。もし人間が、同時に詩人(Dichter)であり、謎を解くものであり、偶然を救済するものであるのでなければ、いかにしてわたしは、人間であることに耐えようか。過去の人間たちを救済し、一切の(そうあった)を(われわれはそう欲した!)に創り変えること---これが初めて、救済と呼べるものなのだ!」

【以上】

 九鬼先生は「いま・ここ」を重点としますが、ニーチェは「過去の人間たちを救済し」と過去をツァラトゥストラに語らせます。過ぎ去った過去、それに押しつぶされそうになるとき、そこに「永遠回帰」が登場します。そして「力の意志」という言葉も登場します。

 今朝は番組紹介というよりも、私的な「偶然」の出会いの中でこの番組の立ち位置を見たような気がしました。

 私自身はニーチェを知悉しているわけでもなく、とても勉強になる番組です。個人的な第1回目として書きました。

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偶然の核心的意味・邂逅・一期一会の哲学

2011年03月30日 | 哲学

 フジテレビ系列の長野放送で昨夜、「教えてMr.ニュース池上彰のそうなんだニッポン」という番組が放映された。

 池上彰が世界中の激励感動メッセージ紹介!

 ▽新たなことが次々とおきる今だからこそ…①放射性物質の影響は②被ばく症状と対策

 ▽日本を元気づけたテレビニュース

という内容で、中で「世界が伝えた大震災」というコーナーがあった。各国が今回の大震災をトップで扱った内容を紹介するもので、ごく一部の新聞ではあるが世界の人々が、いかに今回の地震について自分の身におきたように痛みを共有していることがわかった。

 そんなことはあるまいと懐疑的には考えたくない。これほどの惨事、自然がもたらす人類への共有の事の成り行きである。

 人類が受けてきた惨事は、戦争もあるではないかとこれもまた懐疑主義者に指摘されそうだが、地震と津波の災害については被災者に非があるわけではない。
 
 数日前のブログでNHK「Q~私の思考探究・運と人生の関わりとは」の中で紹介された、哲学者九鬼周造の言葉を紹介しました。

 その言葉とは、

 偶然性の核心的意味は、「甲と甲である」といふ同一律の必然性を否定する甲と乙の邂逅であり、・・・・偶然性の根源的意味は、一者としての必然性に対する他者の借定といふことである。

どういうことなのか、しっかりした解説がありませんでしたが、これは雲をつかむような意味での「偶然性」を語るものではない。


 ・・・九鬼には、自ら経験した様々な人との出会いや体験の唯一性、個体性を壊さずに守り解放しようとする情熱と一種の求道性がみいだされる。「遇うて空しく過ぐること勿かれ」という『浄土論』の言葉を引き、無数の部分と部分の間柄の自覚を通して「根源的社会性」を構成しようとする九鬼の哲学的問題には、単なる理論的関心を超えた実存的願いというものが込められている。・・・
(『ハイディガーと日本の哲学』ミネルヴァ書房p177)

この言葉は、関西学院大学文学部教授の嶺秀樹先生が『ハイディガーと日本の哲学』の中で語っている言葉で、偶然性を因果連鎖の二系列の交差(出会い)ととらえるもので、わたしなりに解釈すると一期一会の哲学のように理解する。

 そこには京都学派の西田哲学の絶対無に対する姿勢がある。ハイディガーの現象学の中にみられる現実性を尊ぶ西洋哲学と日本的な思考の接点(出会い)で理解しようというもので、これも偶然の内に入るのか、NHKがこの九鬼周造の哲学を紹介したことに驚く。

 すべての人類が遭遇している「生の現実」、それが今人々の前に示されている。

 邂逅(かいこう):思いがけなく出会うこと。めぐり会い。出会い。

普通の会話の中には使われることのない邂逅、一期一会の哲学が伝えるものは何か?

偶然性の核心的意味は?

人類に示された言葉のように思える。

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私事(ごと)の危機管理を思考する

2011年03月29日 | 宗教

 東日本大震災で被災した東京電力福島第1原発に関係して、危機管理について10日ほど前に書きましたが、今朝はこの問題について「思考する」ことに視点を置いて書きたいと思います。

 生と死の狭間で精神的な苦しみから救いの信仰を求める人にとっては、「思考」は時には苦しみを増長するものになることは間違いないことかもしれません。

 したがって、宗教の教えは、考えることをやめ信じる、自分を空っぽにして教えに身を委ねることを求めます。

 この宗教を信じれば救われる、自明の論理で排他性が培われます。涵養の教えは本来の教えではない、徹底した排他性をもつものもあることは言うまでもありません。

 したがってこれからの話は、「苦しみから救いの信仰を求める人」を対象にした話ではありません。純粋に思考する、自分のために自らする思考の話です。

 冒頭に書きました危機管理については、

危機管理の心・準備の心・本当の使命[2011年03月18日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/1a6c3cec4fcc24c0772430be7604ab5f

ということで若干触れましたが、今朝は企業の危機管理について書かれた「危機管理の原則」について、原則を守る主体である「企業」という立場を個人という私的な生活基盤の世界でその原則を考えてみたいと思います。

 言い回しがくどく理解しにくいと思いますが、要は企業を自分に置き換えてみるということです。

「危機管理の原則」は佐々木淳行著『危機管理のノウハウ』からの抜粋です。

1 常日頃からあらゆる事態に備えた準備をしておくこと

2 危機に関連するあらゆる情報を収集すること

3 考えうるあらゆる手を素早く打つこと

4 更なる被害の拡大を絶対に防ぐこと

5 決して動揺を見せず、慎重に分析し、思い切って決断を下すこと

このノウハウを順当に今回の事案に重ねると東京電力等の対応姿勢について何か言いたくなるところですが、今朝はあくまでも「思考する」ことに視点を置きたいと思います。

1 常日頃からあらゆる事態に備えた準備をしておくこと

 企業ならば企業の営利目的を阻害する事態が想定されますが、これが個人・家族を含む家庭までをその主体におくとどうなるでしょうか。

 家庭のあるべき姿、家庭たることの目的を阻害する事態ということになると思います。
  
 それに対する危機管理、結局1~5のすべての想定の主としての家庭に到来する事態になります。

 「あらゆる事態」この言葉に絶句してしまいます。なぜ絶句するのか、企業の危機管理対象の事態の数をはるかに超える、これぞ想定外などという安直なことさえも許さない危機迫る勢いで脳裏を去来する数多き事態があるのではないかと思います。

 「災害」という二語にしてから、地震や津波、武力攻撃と数えることが出来る事態の比ではありません。ありとあらゆる「災害」そしてその「準備」となると無限大に近い数になりそうな気がします。

2 危機に関するあらゆる情報を収集すること

 これはどうでしょう、「あらゆる情報を収集する」までいたらない「ある程度の情報・知識」はもった方が良い、いわゆる「社会常識」を持てということになりそうです。

3 考えうるあらゆる手段を素早く打つこと

  打つ手がなければなりません。お金があればなんららか事態に対応できそうです。車両事故ならば任意保険でどうにかなりそうです。
  
4 更なる被害の拡大を絶対に防ぐこと

  こう考えると、自分にとっての被害とは何か?
  原点に立った問いに逆戻りしそうです。

5 決して動揺を見せず、慎重に分析し、思い切って決断を下すこと

 最後の個の言葉、過程ならばお父さんが毅然とした態度で、事態に冷静に対応する姿を想起します。

 ジェンダーの世界でお母さんもお父さんと同じ態度であったならばどうでしょう。

 子どもから見ると事態の大変さがわかりません。苦難に立ち向かうにはそのことが苦難であることがわかっていなければなりません。子供もその大変さがわからなければ人生の荒波を超える力量は身に付けることが出来ない気がします。

 それぞれに役割分担があるように思います。

 これが企業の場合は全く異なってくることに気がつきます。今回の東京電力の原発問題、

 「決して動揺を見せず」「慎重に分析し」「思い切って決断を下す」

 この二番目の「慎重に分析し」は、数値の誤りからしてその重要性は当然であることが理解できます。

 「決して動揺を見せず」、あまりにも冷静だと危機感が伝わってこないきらいがあります。家庭における子供の認識感と重なります。これは難しい。

朝の出勤前の短時間の思考です。表面的な深みのないものになっています。考えればきりがありません。

 家庭という身近な場に起る危機、限りなき思考の連鎖になることが想像できます。これを更に一個人に当てはめると、思い煩う、すなわち思い悩む結果になることがわかります。

 無駄な思考をやめるにはどうするか。遠くから何か聞こえそうです。
 

 過去を追うな。未来を願うな。
 
 過去はすでに捨てられ、未来はいまだに来ていない。
 
 ただ、今おこっている事象をその時その時に観察し、ゆらぐことなく、動ずることなく、よく見つめて、それを修すべきである。
 
 今日なすことのみを熱心になせ。

        (一夜賢者の偈・増谷文雄訳)

こんな言葉が聞こえてきそうです。そこに信仰が見えてきます。

 とある信仰の中に、「無駄な思考をやめる」次の言葉が示されていました。

  ・自分のためになるか、ならないか
  ・役に立つか、立たないか
  ・幸福になるか、ならないか
  ・他人の役に立つか、迷惑をかけるか

この四点を念頭に上記の五項目について再検討するとどうなるか。

問は、

・自分のためになるか?

・役に立つか?

・幸福になるか?

・他人の役に立つか?

これが判断基準です。この問いを立てることで思考は停止できるか、これほど重い問いはありません。

 悩み苦しみ、至って病むのは、考えるからだ。
 
 そうなのか?

 悩みの病の深みに入らないためには多少なりとも危機管理を意識しそのノウハウを自分なりに考える必要があるように思います。

 漠然とした言葉を提案されても落ち着きません。考えることが出来る段階で、考える。
 
 考える癖をつける。「なぜ」という「問い」を立てることでもあります。

 「考える葦」は、考えることが人であることを教えています。哲学の起源はそんなところにあるのかもしれません。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 今朝は短時間で言いたいことを思いつくままに書きました。とても素敵な教えも方法を考えないと、もったいない気がします。誤りを指摘するのではありません。

 病の深みに入らないためには、考えることが大切という話です。


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無常・永遠回帰・人類よ、おごることなかれ!

2011年03月28日 | 宗教

 原発は中々安堵するような落ち着きの中に状態にはならないようである。原発について諸外国では、日本の事態をみて、国民に不安が広がり、今後の建設に反対するとも出ているようである。

 他山の石にするにはあまりにも悲惨な例である。起きる確率がほとんどゼロと判断したところに、人類のおごりがあった、ということになるとおもう。

 二度と同じことを繰り返さないということは当然のことだが、早期に危険性ゼロの状態になってもらいたいのだが、半減期という言葉に自然の時間と人の時間の大いなる相異を感じる。

 人類と地球という関係ならば対等だが、わたしと地球となると一喜一憂の事態はその「大いなる相異」から生じるとも言えるのではないかと思う。

 時は流れる。時間おなかに身を置く、永遠とは何か、命の普遍、人類という高みの視点に立っても、地球の上でそっと身を委ねることが得策のように思える。

 「むじょう」というと「無常」「無情」の二つの言葉がある。どちらも仏教語で、対義は「常住」「有情」となる。

 前者は、「万物が変転して常住ではないこと」で後者は「思いやりや同情心がないこと」を意味する。

 自分はこれまでに「無常」について

無常感(観)と「折り合い」[2009年08月14日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/37fc2e80daae1201bcf2a3bf4bae941f

無常という名の病[2009年08月25日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d33d950c1131249ff47a3f1bfc0bb5a2

空しさの考察にふける者と無常観[2009年09月19日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/e23ebbbe6d3e96d8b5e2eb82ea2f1649

「正しく墜ちる」と「無常」[2009年12月28日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/8654e66e595ddfca820a70d3b6925da6

沙弥満誓・芭蕉の無常観[2010年04月24日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/31bf6f6317c3e9c6551be8ec9c38e47d

「思いやり」について

「思いやり」を思考する[2011年02月01日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/dd1cee7b82d7d406c0b74af41a4d0b78

素人なりの思考を重ねてきました。
 最近では気持的にあまりにも静けさを感じるなどと、その思いを書いたところ今日のような事態に遭遇し、とことん「むじょう」を体感している。

 旧約聖書のヨブ記、終始義人であるヨブは、サタンの「ヨブはいたずらに神を恐れましょう」の一語の前で人類の今日の姿を経験する。

 このことは、すでにエレミヤ書(12-1)の中で、預言者エレミヤによって神に問われている。

 主よ、わたしがあなた(神)と論じ争う時、
 あなたは常に正しい。
 しかしなお、わたしはあなたの前に、
 さばきのことを論じてみたい。
 悪人の道がさかえ、
 不真実の者がみな繁栄するのはなにゆえですか。

と。その答えの流れの中にヨブ記はある。なんたる「むじょう」であるのか。

上記の過去ブログにも書いたが、ゲーテの著『格言と反省』の中の次の言葉を思い出す。、
 
 物事の無常について仰々しくしゃべり立て、
 
 現世の空しさの考察にふける人々を私はあわれむ。
 
 われわれは、無常なものを無常でなくするためにこそ
 
 存在しているのだ 。

今回の事態は自然との折り合いの想定という、高飛車な人類の姿勢への答えにようである。

 「折り合い」の本当の意味は、既にエミリヤにあるように思える。

ゲーテの「現世の空しさ」の「空」は旧約聖書にある「箴言(しんげん)」と「雅歌(がか)」との間にある「伝道の書(第一章1~11)」に記載された次の言葉にみることが出来ることも過去ブログに書いた。

空の空、空の空、いっさいは空である。

 日の下で人が労するすべての労苦は、
 その身になんの益があるのか。

 世は去り、世はきたる。
 しかし地は永遠に変わらない。

 日はいで、日は没し、
 その出た所に急ぎ行く。

 風は南に吹き、また転じて、北に向かい、
 めぐりめぐって、またそのめぐる所に帰る。

 川はみな、海に流れ入る、
 しかし海は満ちることがない。
 川はその出てきた所にまた帰って行く。

 すべての事は人をうみ疲れさせる、
 人はこれを言いつくすことができない。

 目は見ることに飽きることなく、
 耳は聞くことに満足することがない。

 先にあったことは、また後にもある、
 先になされた事は、また後にもなされる。

 「見よこれは新しいものだ」と言われるものがあるか、
 それはわれわれの前にあった世々に、
 すでにあったものである。

 前の者のことは覚えられることがない、
 また、きたるべき後の者のことも、
 後に起る者はこれを覚えることがない。

こう書かれているのである。

<頭の句の「空の空、空の空、いっさいは空である。」>

仏教書を読むような感覚を覚えてしまうが、そうではない。

 ニーチェの言葉に「永遠回帰」がある。

 1881年8月のある日、彼(ニーチェ)がスイス南部のエンガ-ディン地方にあるジルヴァプラナ湖畔を散歩しているとき、とある巨岩のかたわらで、《一切をもう一度、そして永遠に繰り返し体験することへの欲望》が彼を襲う。この「思想」が彼に決定的な衝撃を与え、後に『ツァラトゥストラはこう語った』を執筆する契機になった。

 《あるがままの現存在は、意味もなく目標もなく、不可避的に回帰し、無に終わることもない。すなわち「永遠回帰」。これがニヒリズムの極限の形式である。すなわち無が(「無意味なもの」が)永遠に!》(Ⅲ853、WM55)。

神への挑戦、神は死んだの真意はそこにある。

人類よ! おごることなかれ!

そんな声が聞こえそうだ。

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輪廻転生・無常観・偶然・縁起観

2011年03月27日 | 哲学

 過去のブログで「アートマンと輪廻転生」という文章を書いたことがあります。

 なぜ仏教はというよりも、お釈迦様は 生、老、病、死の4苦にこだわるのかという素朴な疑問から書いたものです。

  お釈迦様の生きた時代。その当時のインドにおける人の平均寿命は、研究者によると18歳くらいと推定されるということです。

 文学博士の加地伸行氏はその著「沈黙の宗教(ちくまライブラリー)」で次のように書いている。

<引用>

 釈尊の時代の前6世紀ごろのインドでは、子どもはたいてい乳幼小児期に急性羅患で、倒れ、母親も産褥熱(産後の肥立ち)でよく死亡し、25歳を越えた成人は少なく、40歳ともなれば灼熱の地における体力の消耗で老化し、諸々の感染、脱水などで死亡したであろうと言う。すなわち老いと病と死とは同時に出現したであろう。

<以上>

 こだわりといっていいかわかりませんが、自己の生の前に横たわる現実、釈尊のこだわりは、諸行無常のこのようなインドの現実があったからではあるまいかということです。

 無常に絶えず変化する(生ある者は必ず老いて死す)現実に心痛め、救いの道を求めたのが仏教発生の根源である。

ということができるわけです。

 インドでは、墓を作らない、ガンジスにその骨は流される。それは輪廻転生思想があるからで、肉体は仮の宿、普遍のアートマンは他の肉体に宿り別人に再生される、という考えに基づくものである。

 したがって、死んだら墓に入ることはない。日本は不思議な国で、輪廻転生を信じる一方で、死んだら墓に入ることも認識している。

 「輪廻転生はある」と信じるとアートマン(ここでは魂)は墓にはいないことになる。
 
 このように語ると、「千の風にのって」ではありませんが、「そこ(墓)にはいません。」は、したがって論理的な話だということになります。

 「無常」という言葉を普通の辞書を見ると、

 1〔仏教語〕 世の中のすべてのものは絶えず変化し、続けて永久不変ではないということ。

 2 最期、死 例:無常の来たることは水火の攻むるよりも速やか(徒然草59)

と説明されています。

 ここでフランス文学者、修辞学者であって仏教学者ではない野内良三(のうち・りょうぞう)関西外国語大学国際言語学部教授の過去のブログ「西洋的因果律と仏教的縁起」でも引用した『偶然を生きる思想』(NHKブックス)から「無常」について書かれた「仏教と日本文化」についての記述を紹介したいとおもいます。

<引用>

仏教の日本化
 こうした「随分奇妙な」日本人の感性は仏教によってつちかわれた面は確かにあるかもしれないが、その影響関係については留保が必要である。インドで生まれた仏教は中国で体系化されて日本に伝わるが、日本において仏教は変質する。いわば日本化したのである。

 仏教において無常とは、この世には永遠不変のもの(常なるもの)は存在せず、いっさいのものが生滅するものであり、いずれは消滅するべき定めにあるという事態を指す。人間もまたその例外ではなく、老・病・死を免れることはできない。

無常は人間のあらゆる「苦」(苦悩・苦痛)の元凶である。心の平安としての悟りの境地に達するためには無常の現実を否定しし、それから自由にならなければならない。無常の現実に流されるのではなくて、無常の現実に人間は意志的=理知的に働きかけて乗り越えなければならない。無常はすぐれて倫理的=実蹟的問題を提起する。

これが仏教における無常の問題である。

 ところがこの教説が日本に移入されると情緒的なものに変質してしまう。無常という事態はかならずしも超克すべき苦の対象ではなくなる。個としての人間の実存の問題というよりも、人間を含めた自然の推移が全体として無常と把捉されることになる。

花鳥風月を好む日本人は無常観を情緒的な自然観として捉えた。本来マイナスの価値をもつ対象であるはずの無常が「もののあわれ」と呼び替えられて、いつのまにかプラスの価値を付加されることにもなる。無常の問題に対して宗教的=倫理的対応をしたインド人と異なり、日本人は情意的=審美的に応接をしたといえるだろう。

 こうした無常の日本化をよく示す例が「いろは歌」である。「いろは歌」は「諸行無常偈」(『大般捏磐経(だいはつねはんぎょう』の四句)を歌い込んだものとされている。

諸行無常(しょぎょうむじょう) 是生滅法(ぜしょうめっぽう)

生滅滅已(しょうめつめつい)  寂滅為楽(じゃくめついらく)

前の二句は、諸行は無常で生じたり滅したりしてとどまるところがない(だから執着するの、は苦である)の意で、後の二句は、この生滅(無常)への執着を滅し已(おわ)れば、そこに平静なる寂滅の悟りが開かれて永遠の楽となるの意である。この仏教の深遠な哲理を、『いろは歌』は今様調の哀切な詩語に移し替える。

 色は匂へど 散りぬるを〔香りよく咲き誇っている花もやがては散るさだめ〕

 我が世たれぞ 常ならむ 〔この世に生きる私たちもいつはかなくなるか知れたものではない〕

 有為の奥山 今日越えて〔この無常の、迷いに満ちた険しい山を乗り越えた今〕

 浅き夢見じ 酔ひもせず〔浅はかな夢を見ることも快楽に酔うこともすでになくなった〕

 注釈めいたことを補足する。「有為」は「因縁によって生じる現象」のことで、この世の森羅万象を表す。「有為の奥山」は無常のこの世を、人里離れた越えがたい山にたとえたもの。「浅き夢見し」(浅い夢も見ない)は「浅き夢見し」(浅い夢を見た)だとする少数意見がある(昔は清音・濁音の表記はずさんだった)。

 「いろは歌」は平安中期以後の作とされるが、作者は特定されていない。いずれにせよ四十七文字のなかにこんなにも深い内容を盛り込むとは異能の才の持ち主ではあった。

 「いろは歌」はあわただしく散る桜花に無常を見る日本人の心性を見事に詠み込んでいる。・・・・・・

<以上同書p30~p32>

 なかなか面白い話だと思います。野内教授はこの著書で「無常と偶然の関係」について言及している。

 昨日は確率と偶然に言及しましたが、野内教授は「無常と偶然は同じ事態を指している」というのです。

 無常とは、この世の森羅万象が常住不変ではなく変転消滅することを謂う。

 偶然とは、あるべきことに反して或(あ)る事態が生起することである。在ってはならないもの、在るべきではないもの、在るはずでないものが目撃されることだ。

とします。この両者の違いは捉え方の視点の違いにあるというのです。

 無常観はどこからくるのかということになりますが、このことについては昨年のブログにも説明しましたが、次のように縁起間からくると野内教授は説明しています。

<引用>

 無常観は、たとえば自分が今ここにいるという単純な事実は自分のこれまでの人生の履歴はもとより、父親と母親、そのまた親たちなどさまざまな<縁>の気の遠くなるような錯綜した連鎖の結果なのだ。

 この世のすべての存在はこうした連鎖の織り成す関係的存在しかない。この関係の網の目から独立した自立的存在(我=実体)を考えることが迷いなのである。この世界そのものは、われわれの迷いや悟りに関係なく相衣相関の縁起の法に従って生成変化しているだけだ。

 つまり「覆われていること」の原因は認識対象の側ではなくて、認識する主体の側(心の闇)の問題である。

 縁起間の提起する存在観の要諦は他者依存性にあり、そこから「無常」という事態も結果する。

<以上同書p54>

仏教学者ではなくフランス文学者、修辞学者の語る話です。フランス文学で仏教について書かれる先生が他にもいますが言語学、レトリックというものは哲学的でありまた偶然性という問題に触れてくると運命という問題にかかわりを持ち、宗教的要素にも触れることになって行きます。

思考する姿とは、その人の求めの遍歴のようです。探究の元は何か、それは人間だからといえると思います。

こういう話は、個人的に知っていることが大事です。鵜呑みをせよという話ではありません。逆に鵜呑みのしないための防波堤です。自分の探求心の方向性の展開にも役立ちます。

 偶然の出来事なのか必然なのか。言葉少ない説明による「罰当たり」発言、偏った宗教心からは時に驚く発言を耳にすることがあります。

 知っていれば然(さ)も有りなんの話です。

 昨日のブログNHK「Q~私の思考探究・運と人生の関わりとは」では、番組中に紹介された九鬼周造の言葉がありませんでした。最後にその言葉を紹介したいと思います。

【九鬼周造】

 偶然の核心的意味は、<甲は甲である>という同一律の必然性を否定する甲と乙との邂逅(かいこう)である。

 我々は偶然性を定義して<独立なる二元の邂逅>ということが出来るであろう。

<以上 『偶然の問題』(1935)>
※邂逅:思いがけなく出会うこと。めぐり会い。出会い。

九鬼周造はマルティン・ハイデガーやアンリ・ベルグソンに教えを受けた人物で、没するまで京都帝国大学文学部哲学科教授でした。

 

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Q~私の思考探究・運と人生の関わりとは

2011年03月26日 | 思考探究

 前回のNHK教育の「Q~私の思考探究」は、「運と人生の関わりとは」というタイトルで、宗教人類学者の植島啓司先生とお笑い芸人で・映画監督の品川祐さんの対談が行なわれた。

 「気の持ちようで運はどてらに転ぶかわからない。」という植島啓司先生の話、自分の人生を考えると、良運、不運それぞれに自分の選択、成行き、いろいろあったことを別角度で再考することができました。

 今日はこの番組内で紹介された、確率におけるベイズの定理を用いた「モンティ・ホール問題」を紹介したいと思います。

【モンティ・ホール問題】
 テレビのバラエティ番組で、回答者は三つのドアのうち一つを選ぶ。

 その背後のどれかには当りのの車が隠されている。

 あなたがもしAのドアを選択したとする。

 番組の司会者は、どこに正解の車が隠されているか知っていて、不正解のCのドアを開ける。


不正解

 そして、あなたに「このままAのドアでもいいですか、それとも、Bのドアに変えますか」と聞く。

 さて、あなたはAのドアのままでいるか、それともBのドアに変えるか、どちらが正しいかという問題である。

この番組は、IQ230の天才女性マリリン・V・サヴァントが監修に関わっていた。

 普通に考えるとAのドアもBのドアも確率は1/2と同じで、最初に選択したことを変える必要はないように思える。したがって「AのドアでもBのドアでもどちらでもよい」というのが回答のように思えます。

 ところがマリリンはきっぱりと「最初の選択を変えるのが正解です」と答えたから番組に非難が殺到した。

 非難した人の中には大学教授や数学者もいたそうです。

 ところがあとで解ったことなのですが、天才マリリンの答えが確率からいって正解だったのです。

 最初の選択は、三つのドアから一つのドアを選択するもので、当たりの確率は1/3です。逆に考えると2/3の確率で外れるわけです。したがって初めの選択は外れている確率が高いことが言えます。

 その不正解の高い状態で、司会者がさらに、外れのドアを開けます。

 するとどうなるでしょうか?二つのドアが残され、一つは自分の選択した外れの確率が高いドアと・・・・、そうです、当りの高いドアが残されていることになります。

 天才マリリンは、直観でそれを言い当てたのです。

 「あなたは選択を変えるべきだ」と。

なぜそうなのか、これを数学の確率の式で表すと次のようになります。

 最初の選択で当る確率=(1/3)×1+(2/3)×0=1/3

 選択を変えた場合の当たる確率=(1/3)×0+(2/3)×1=2/3

偶然性を考える場合にとても参考になる話です。
 植島先生の著書『偶然のチカラ』(集英社新書)にこの問題は紹介されています。

 確率の歴史は得意ではありませんが、人生において起きる出来事、偶然か必然かそんなことを考えてしまいます。

 ラプラスの「確率の解析的理論」(1812年)がこの著に説明されています。

 ラプラスは、正確な観測と計算が可能だとすると、運あるいは偶然というものは存在しないと考えた。たとえば、ルーレットの場合にしても、ディーラーが玉を入れるタイミングや強さが解り、そして、玉が落下するときの空気抵抗、落ちてからバウンドする角度などが解れば、どこに落ちるかは必ず明らかになる、と言います。

 それがわからないのは、人間にまだそうしたデーターを解析できるような知性が備わっていないからだとラプラスは考えた。そして、そうした全能の知性を後の科学者は「ラプラスの悪魔」と呼ぶようになったとのこと。

 「すべての事象が無限にくり返されるならば、その一つ一つはすべて『明確な原因』により起こり、また極めて偶然に見える事象でさえも『ある種の必然性、あるいは、いわば運命』の結果である。というヤコブ・ベルヌーイの考え方を反映したものである。」

というP・パーンスタインの言葉を紹介しています。

 ヤコブ・ベルヌーイという人は、「大数の法則」を確立した人で、この法則は、

 「ある試行を何回も行なえば、確率は一定値に近づく」

というものです。

 地震の予測や放射能の数値の人体に及ぼす害は「データーを解析できるような知性」の集積から導き出されました。

 「神の前には偶然は存在しない、ただわれわれにはこの世界を形づくる多くのものが見えないだけなのだ。」

という言葉、神が与える試練、ヨブ記に掲げられる災いを指摘するものではありません。

 そもそも偶然性は「われわれの認識の不完全性」(スピノザ)から生じる。

『偶然のチカラ』この章「たかが確率、されど確率、23確率論の展開」の最後に、植島先生は、

< もしかすると、ひたすら偶然とは「わたし」という主体をめぐる出来事なのかもしれない。>

と書いています。

 運命共同体として「みんないっしょ」と思ってしまいましたが、よく考えると、TPOを忘れていました。

 私はそこにいたのです。そこに運命があったのです。

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愚かもの

2011年03月26日 | つれづれ記

愚か者

 人間は、翼がないのに空を舞う。

 人間は、一日八里の歩みなのに、はるか遠くに走り去る。

 人間は、日の光でも見えないものを見たいものよと努力する。

 もともと静かなものなのに、騒ぎ立てて怒らせる。

 ほんとは怒っていないのに、怒っているように見えてくる。

 そんな心が天罰と、口が滑って、浅はかな、老いさらばえたことも気づかず。

 何を学んできたのだろ、他人事だがみじめなものだ。

 三万有余のともしびに、照らされていることも忘れてる。

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雨降りお月さん

2011年03月25日 | つれづれ記

 ラピュタの天空の城のように、天空に住まいしていればこんな悲劇はなかっただろう。 
 とめどなくそんなわけのわからないことを考えてしまう。

 自然のルールに従えば、そんなことは叶わぬこと、人は地上に棲むものと決まっている。 
 しかい未来に物理科学の新発見によって反重力を産み出す方法を発見すれば、きっとその夢は叶うはずだ。

 原子力もそうであった。少しのエネルギーで莫大なエネルギーに転化させる。二酸化炭素も出さないクリーンなエネルギーを生み出す。

 考えてみると自然のルールは、極端な変革を嫌うものだ。燃えるものは消えるように落ち着くべきものは落ちつくルールがある。

 落ちるものは落ちる。落ちるというリスクを背負う。ルールに反すると痛みを背負う。

 月に人間が立つことなどは考えもしなかった。夢物語の架空の世界であった。

 月にはウサギが住んでいる。月にはかぐや姫が住んでいる。そんな夢物語が一番人間に合っている。みんながそんなことを知っていたのに忘れてしまった。

 忘れることが進歩であって、自然の摂理を忘れることだった。

 野口雨情という茨城県出身の詩人がいた。詩人、童謡・民謡作詞家で、代表作は

 『十五夜お月さん』『七つの子』『赤い靴』『青い眼の人形 (童謡)』『シャボン玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』『波浮の港』『船頭小唄』などがある。

今朝は、泉漾太郎(いずみ・ようたろう)が書いた『野口雨情回想』(筑波書林)の冒頭の一人の老婆と雨情の月絵の思いを紹介したいと思います。今朝はとても長い引用です。

<引用>

 京都の夜である。夜の都を見物帰りの宿への道すがら、空腹をおばえて蕎麦屋を探して居る私の目に、街路樹の葉蔭で合掌している老婆の姿が目にとまった。なにを拝んでいられるのだろうと、老婆が仰ぐ瞳を追うと、大空を澄みわたらせて輝いている月であった。

老婆の肩越しに合掌すると、気配に振り返った老婆は、頓狂な声で、

 「あんた、なんぼやね」と、問う。

 「なにが、ですか?」

 「年やわな、いくつになり申す?」

 年齢をきくのは失礼とされている常識どころか、初対面の路傍の者に、唐突の、挨拶も無しで無躾け千万な婆さん---とは後刻、気がついたほど咄嗟だったので、私は釣られたように我が年齢を即答した。
 
 「まァ嬉しいわ、今どき、お月さまを拝む人なんぞ無いのに、あんたさん、拝んでくれた」

 紬触れ合うも他生の縁、と言うが、この老婆は私が探していた蕎麦屋の内儀さんだった。
 
 「うち、腹が立ってならんだったんで。宇宙飛行とか、なんとか、お月さまを土足で踏む人間が居るなんて。それを、あんた、偉い人だとか、英雄豪傑だとか、わいわいと日本人までが褒めとるどす。勿体ないと思わん日本人になってしまったと思うと、うち、呆れるより、せつのうなり申したわ」

 「そうですねえ」

 「あんたさん、拝んでくれはった、もう日本も終りかと思うたが、まだ安心どすわ」

 私は蕎麦の味どころではなくなった。
 
 「それでも、あのテレビヘ出たのは本当のことぢゃおませんそうどすな。トラックとかだそうでおますな。娘め左様申しやす」

 「そ、そう、トリックですかな」

 「トリックでおますか、トラックぢゃ自動車どすな。は、は、は、わてが腹立てますで、娘が、あれはトラ、いや、トリックどすわ、活動写真、今は映画ちうもんの、崖から人間が突き落されたり、都会が大火事になったりする場面は、みんな作りごとなのと同じに、お月さまへ行ったのも写真機の手品なんだよと、娘め左様申しますので、それならいい、だが、作りごとのトリックでも、土足で踏むところは、あかん、と思いやすな」

 「そ、そうですな、勿体ないことです」

 「あんたさんも、テレビ見なはった、トリックだと知ってなはった?」

 「は、そんなように聞いてました」
                         
 私は返事もそこそこに蕎麦屋を飛び出した。ろくに咀嚼(そしゃく)しない蕎麦が腹の中を駈け廻る。ホテルのベッドへ横になって漸く落着いた。
 
 あの老婆は八十六歳だと言った。神社仏閣の多い京都の土に育まれた精神だから月を神仏と同じに信仰する信心ごころは当然と思うと笑えなかった。然し、月世界征服の画期的史実を映画のトリックとして老母の立腹を鎮め安心させた娘さんの機知は、やっばり日本人のこころだなと、共感をおぼえた。
 
 「あれ漾さん、のんのさんでござんすど。のんのさん平らでやんすから今年は米の値段はすわりでやんすど」

 大真面目に私を仰がせた三日月へ最敬礼をされた野口雨惰先生が瞼に浮んだ。雨情先生が、のんのさんと称して月を敬慕されていたことは、先生を知る人は誰れでも知っている筈である。
 
 京都の老婆のように信仰はされて居られなかったかも知れないが森羅万象に愛情をそそがれる先生の愛慕は特に月に対して深く濃く厚かったように私は感銘している。お作品の民謡にも童謡にも「お月さん」を詩材にされたものが多く、また、先生の名作として多く歌われるなかに「お月さん」の登場がみられる、というばかりでなく、「あれ漾さん---」と月へ私の心が誘われたことも多かった。
 
 「先生は、お月さんを信仰してるの!」

と、私は問うたことがあった.

 「信仰---!」

 先生は私をまじまじと見つめながら、
 
 「漾さんの、信仰という意味は、どんな訳?」

 「あのう、神とか、仏とか---」
 
 「お賽銭だの、お線香だの上げて拝むことでやんすか? いやァあれとは違いやんす。あれは信仰ぢゃありやせんな、神様や仏様に願いごとを押しつける行作(ぎょうさ)でござんすよ。慾張つた人の行作だね。家内安全、商売繁昌、あれも頼みやす、これも叶えてくだされッて、願いごとばかし押しつける。それでお賽銭は十銭ぐらいしか上げない。はッはッ、神様も仏様も、なんぼ慾の深い人達だろうと呆れてッかも知れやせんな。慾がからんで拝む心では信仰とは申せませんな」
 
 「先生の信仰という意味は?」
 
 「感謝でやんす。感謝の心で拝むんでやんす。神様や仏様ばかしでなく、おてんと様も、お月様も、人間も動物も、草も木も、山も川も海も、みんな感謝の心で、おつきあい(交際)することが大切で、お互いが、その心を精神の信仰とすれば、家内安全、商売繁昌でやんすよ。
                   
 人間は、人間ばかしぢゃありません。生命(いのち)のあるものすべてが、お互いさんのお蔭で生きてるんでやんすがんな」
 
 「相互扶助ですね」
 
 「世の中は持ちつ持たれつッて、いい文句でやんすな。博愛の精神でやんすよ」
 
 「愚問ですが、おてんと様には森羅万象がお蔭を蒙っていますが、お月様のお蔭はさほどではないんでしょうか、先生はお月様に最敬礼をなさる」
 
 「愚問でやんすな。青い空に出るお月さん、暗い空に出るお月さん、あれは何万年か前に冷却した大きな土の塊で、はじめはこの地球と同じに生き物も居たし、熱も空気もあったのだが---と科学的に言ってしまっては、美しさも清らかさも感じられなくなりやしょう。漾さんはどんなもんだか、私は、月の美しさ月の清らかさ、少しも湿り気のない姿、これは、いい女だなァッて褒められ羨ましがられる美人でも、花でも鳥でも、到底くらべものにならんと思いやすね。あのお月さんのお蔭で地球の大自然が、みんな美しい景色になる。そのお蔭を見落しちゃなりやせんど。その風景を眺めて人間は、美しい気持になり、さわやかな感情になり、安らかな世界を楽しむ、人間にとって混り気の無い心をもつことは何よりも大切なことなのでやんす。お月様は、その心の力を恵んでくだりやす」
 
 「それで、先生は最敬礼なさる」
 
 「漾さんよりャ子供の方が、よっぽど、この訳がわかって居りやんすな」
 
 「え!?」

 「子供らは、お月さんが自分達と同じように生きていて話しかけているものと信じているからね。だから、お月様が出ると、嬉しがって飛んだり跳ねだり話しかけるんだね。
 
  お月さん いくつ。
  
  お月さん 餅くれろ。ってネ」

 「そうですね」
 
 「お月さん 漾さんに 歌 やりな ってネ」
 
 「ちえッ!」
 
 「は、は、は、は、あ、はッはッ!?」
 
私は先生の盃を鷲づかみにして一気に飲み干した。・・・・以下略

<以上>

過去に戻れという話ではありませんが、ルールがありそれをはみ出さない程度でいいのです。
 何か忘れているような、そんな気持ちを思い起こしてくれる文章です。

雨降りお月さん

雨降りお月さん 雲の蔭(かげ)
お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
一人で傘(からかさ) さしてゆく
傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
お馬にゆられて ぬれてゆく

いそがにゃお馬よ 夜が明けよう
手綱(たづな)の下から チョイと見たりゃ
お袖(そで)でお顔を かくしてる
お袖はぬれても 乾(ほ)しゃかわく
雨降りお月さん 雲の蔭(かげ)
お馬にゆられて ぬれてゆく
           野口雨情

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養生して虎に食われた男・心の貧乏にはなりたくない

2011年03月24日 | 地震

 余震の連続は体感の中で不安を助長する。目に見えない放射能の水道水への汚染、大地の汚染は数値で不安を助長する。

 今朝現在警察発表によると今回の地震と津波による死者・行方不明者合わせると2万5000人だとのことである。

 宮城県のある被災地で避難場所にもなっている小学校で卒業式が行われて、できないと思っていた卒業式、感謝の気持ちを保護者の母親が語っていた。津波で卒業証書は汚れてしまったが、校長と教頭が丁寧にその汚れをぬぐい取り子供たちに手渡された。

 地震に耐えた証(あかし)勇気を与える証書旨の校長先生の言葉、手にした子供たちの言葉もその励ましに答えるものであった。

 他人事で傍観する私の心に突き刺さるが、その痛みは何かを伝えてくれる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 連日連夜、数値が流れる。予想される余震の震度は6弱から6強とのこと、それに答えるように大地は揺れる。

 人間が作り出した、見えない脅威の数値、自然界にも存在する同じものも、人間が数値の脅威に変えてしまった。いつ来るかもしれない死への恐怖である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 私は何かを知り、何かを学び取らなければならない。「お前は何を学ぶか?」そんな問いを今突きつけられている。

『荘子』に養生して徒らに食われた男の話がある。そんな話を森三樹三郎先生は次のように紹介している。

〔養生して虎に食われた男〕

 魯(ろ)の国に単豹(ぜんぴょう)という男がいて、岩屋にすんで水を飲み、世の人なみの楽しみを求めようとしなかった。このため七十歳になりながら、まだ赤ん坊のような色つやをしていた。ところが不幸にも飢えた虎に出会い、そのために食い殺されてしまった。

 また張毅(ちょうき)という男がいて、富貴の人がすむ邸宅の前を通るときには、必ず小走りして通りすぎ、敬意を表するという礼儀正しい人物であったが、あまり身のふるまいに気を使ったために、四十歳になったとき熱病を起こして死んでしまった。
 
 単豹はわが身の内をよく養ったのであるが、虎がその身の外を食ってしまった。
 
 張毅はその身の外をよく養ったのであるが、病気がその身の内を攻めたのである。

すべて養生には、一つのことだけにとらわれないことが大切なのである。

 世俗の養生法はすべて不十分なものばかりである。完全な養生法とは、自然の道に従う
以外にはない。

<引用『老子・荘子』(森三樹三郎著 講談社学術文庫p237)

 完全な養生はない、自然に従うだけ、一つのことに囚われない心がその道だというのである。

 人間とは不思議なものである。内なる声の中に最低と最高、最悪と最高、幸いと不幸をみる。真実なのかニセモノなのかすべては混合している。

 善いと思ったことが悪いこともある。注意深さが思いがけない落とし穴にはまることもある。

 敵だと思っていた者が実は味方で、仲間だと思っていた者が実は敵だったということもある。

 「真実なのかニセモノなのかすべては混合している。」とはそういう意味で、今の世の中すべての思いは混合して見えているのである。

原始仏教典にこんな偈がある。

<引用>

おのれを害(そこなう)うもの
      南伝 相応部経典 三、二 [人]
      漢訳 雑阿含経 四六、一九

 かようにわたしは聞いた。
 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祓陀)林なる園にあられた。

 その時、コーサラ国の王パセーナディは、世尊を訪れ来たり、世尊のかたわらに坐して、白(もう)して言った。
 
 「世尊よ、どのようなものが人の心の中に生ずる故に、人は苦しみ悩み、不安となるのであろうか。」
 
 「大王よ、人々が苦しみ悩み、不安におちいるのは、三つのものが心の中に生じるからである。その三つとは、何であるか。大王よ、貪(むさぼ)りがそれであり、瞋(いか)りがそれであり、愚かさがそれである。この三つのものが、人の中に生ずるとき、その人は不幸となり、不安となり、苦しみ悩まねばならぬのである。」

 かく説いて、世尊はまたさらに、偈をもって次のように教えた。
  
 「むさぼりと、いかりと、おろかさと、
  この慈しき心、うちに生じて、      
  おのれを害(そこな)うこと、あたかも
  竹の果(み)を生じて倒るるがごとくである。」

<以上『仏教の根本経典』増谷文雄著 大蔵出版p139>

最後の「竹の果(み)を生じて倒るるがごとくである。」がわからない。

 相応部経典(サンユッタ・ニカーヤ)『ブッダ 神々の対話』(中村元著 岩波文庫)第三篇第一章第二節「人」では、

<引用>

「人」

一 〔あるとき尊師は、〕サーヴァッティー市の〔ジェータ林・(孤独な人々に食を給する長者)の〕園に〔住しておられた〕。

ニ そのとき、コーサラ国のパセーナディ王は、尊師のましますところにおもむいた。近づいてから尊師に挨拶をして、傍らに坐った。

三 傍らに坐って、コーサラ国のパセーナディ王は、導師に次のように言った、---「尊いお方さま。どれだけの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦悩、不快適な暮しとなるのですか?」

 「大王さま。三つの性質が、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。その三つとは何であるか? 貪りという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。また憎しみという性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。迷妄は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです。以上これらの三つの性質は、人の内部に生じて、その人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるのです」と。
 
四 〔尊師は次のように言われた、---〕
  「貪りと怒りと迷妄とが、己れに生じると、悪心ある人を害する。---
   茎の細い植物が、実が生(な)ると、〔害されて倒れる〕ようなものである」と。
   
<以上上記書p165>

 弱気茎の細い植物のような人間、実の重さに耐えず倒れてしまう。この場合の「実」は何ぞや。

貪(むさぼ)りがそれであり、瞋(いか)りがそれであり、愚かさがそれである。

貪りと怒りと迷妄

これらの言葉があらわす思いが、人の心に生じると、不幸となり、不安となり、苦しみ悩み、人の不利、苦しみ、不快適な暮しとなるというのである。

 原発の放射能流出の問題に絞ると、現在の不安、不快適な暮らし、人によっては最大の苦しみになっているかもしれない。

 貪るわけでもなく、怒りでもなく、道理に暗く実のないものもあるように思っている、心の迷いの中にあるのか。

 愚かさの真っただ中にいるのか。

 数値で表される、形なきものである。そのものの働きは高ければ早急な細胞破壊になり、緩やかな蓄積も細胞破壊の道筋をたどる。行きつくところはだれもが平等に有する死である。

 養生して虎に食われた男のごとく、死への道筋は多様である。

 すべてに明らかなことは、すべての事実について自分が直面しているということである。

 直面とは考えさせられる時を得ているということである。

 私は、あなたは、何を考え何をしようとしているのか。

 だれがこのストーリーを考えたのだろう。

 ストーリーが描き出そうとしているものは何か。

 しっかり考える時を与えられている。そんな気がする毎日である。

 実は、負のみであるわけがない正を含むものである。恵みの実となるに違いない。そう信じたい。

「養生して虎に食われた男」だけにはなりたくない。

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地震の揺れ 地球を約5周する・真心の行動

2011年03月23日 | 地震

  気象庁精密地震観測室が長野市松代地区の松代大本営跡にある。日本最大級の地震観測施設で、正式名称は気象庁地震火山部地震津波監視課精密地震観測室(以下精密地震観測室とする)ととても長い名称である。

 群列地震観測システムと呼ばれる観測機構を持っている。同システムは、直径 10kmの円周上に6地点、ほぼ中央に2地点の合計8地点に高精度の地震計を配置し、データはコンピュータ処理され、「1観測点で捉えられない微弱な地震波を検出」、「震源の距離と方向を求める」などを行う。

と説明されています。

 この精密地震観測室の今回の東日本大震災の観測結果が昨日22日16時35分の「NHKニュース」サイトに次の内容で伝えられた。

地震の揺れ 地球を約5周する

 東北の太平洋沿岸で起きた巨大地震で、地震の揺れが地球をおよそ5周していたことが、気象庁の観測で分かりました。
 
 気象庁は「今回の地震がいかに巨大だったかを物語る観測結果だ」としています。

 気象庁は、長野市の地下深くに高感度の地震計を設置し、世界中で起きる地震の揺れを観測しています。
 
 この地震計が捉えた今回のマグニチュード9.0の巨大地震の揺れを分析したところ、太平洋沖の震源地からユーラシア大陸側に伝わった地震波と、反対方向のアメリカ大陸側に伝わった地震波が、それぞれ2時間余りの間隔をおいて長野市で再び観測され、その後、揺れは次第に小さくなりながらも、およそ5回にわたって観測されていたことが分かりました。
 
 気象庁は、今回の巨大地震の揺れは、地震発生から12時間で地球の表面をおよそ5周したものとみています。これは、去年、南米チリで起きた巨大地震の際の観測結果を上回るもので、気象庁は「今回の地震がいかに巨大なものだったかを物語る観測結果だ」としています。また、地震による揺れが収まったあとも、体で感じることのできないかすかな揺れが地球規模で続いていることも分かりました。
 
 これは、地球が1000分の1ミリ単位で伸び縮みする「地球自由振動」という現象で、今後2週間程度続くものとみられるということです。気象庁精密地震観測室の三上直也室長は「地震波が地球を5周もしたことがはっきり読み取れることは、これまでほとんどない。
 
 いわば地球全体が震動したような状態で、今回の地震の巨大さが、地球規模の地震観測データでも裏付けられた」と話しています。

<以上>

 地震波が地球5周するという歴史時代未曽有の地震とも言えそうな事態、被災者に対する救援も米軍等の力を借り行なっている中、高額で商品を売る輩が見られるとのことである。

 一方地震の余波で廃炉になるような事態になった原子力発電所から流出する放射能は、大地に降り注ぎ、定めた基準値に抵触するとの理由から出荷停止になるところも出てきた。

 またこのような事態を見ていると、酪農にも影響が出てきそうとのことである。

 非常事態と叫び、放射線量を提示し、さほど人体に対する影響はない、と毎日のように政府は語るが、物価統制、流通統制等の法的強硬策を地域を限定してでも行うべきではないだろうか。

 ENEOS(JX日鉱日石エネルギー)は、

 仙台製油所   被災により停止 
 鹿島製油所   被災により停止 

ということで、松本平、安曇野平にある給油施設は10分の一の営業のような状態になっている。一方他のメーカーの給油施設は、買い占めなどとういうこともなく夕方の帰宅時にもガランとしている。

 こういう事態を見て、同種企業に対する物流の共同融通を非常事態として推進する政策がとれないものかと思う。

 また農産物等の安全性については、危険性を強調する公報・広報するのではなくどの程度までが安全なのか、危険性だけが耳に残る今の情報発信も、この非常事態には統制する必要があるのではないかと思う。

 真実が隠蔽されることも予想されるなどの論理が働いているのだろうと思うが、「真実」とは何ぞや、人の欲望を満たすことではないことは多くの人が学んでいることではないか。

 不安解消を上手に解決する方法は「真実」を語ることことではなく「真心」を語ることのように思う。

  これは隠蔽せよ!と言っているのではない。為を思って行動してほしいということである。

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