昨夜(20日)からNHK教育で
[字]100分de名著 <新> ニーチェ“ツァラトゥストラ”<全4回>
という番組が始まりました。昨夜はその第1回目ということになります。
番組案内サイトによりますと、
『ツァラトゥストラ』、『論語』、『学問のすゝめ』・・・誰もが一度は読みたいと思いながらも、なかなか手に取ることができない古今東西の“名著”を25分×4回=100分で読み解く、
ということで、ニーチェの後は、孔子、福沢諭吉・・・となるようです。司会は、早稲田大学哲学科卒業で演劇好きの堀尾正明アナウンサーと現役大学生の瀧口友里奈さんというお嬢さんです。
解説者は、東京医科大学教授の哲学者 西研先生でその風貌と語り口は見るものを惹きつけるものがあり第一回目からとても分かりやすい内容でした。
入門編の第1回は、
[番組内容]
「ツァラトゥストラ」のあらすじと、解読の3つのポイント「ニーチェのおいたち」「ルサンチマン」「価値の転換」を紹介する。キリスト教を基盤とした19世紀ヨーロッパの価値観を根底から覆そうとした、挑戦的な哲学者だったニーチェ。同書は、40歳を目前にしたニーチェが、聖書に対抗する書として発刊した。執筆の目的は、人間を堕落させるしっと・恨みの感情「ルサンチマン」を、どう克服するかだった。
というものでした。
10年間山にこもって修行した知恵を蓄えたツァラトゥストラ(超人)は、その成果を伝えようと山を下ります。
そして「神は死んだ」とかたるツァラトゥストラを民衆は、敵視しあざ笑う・・・・。
東日本大震災以来私の脳裏に残る言葉に「偶然」という言葉があります。なぜこんな目(大災害)に遇わなければならないのか、そんな疑問があるのかも知れません。
知れませんではなく本来「ある」と断定すべきなのでしょうが、身につまされる問題は日々の中にあり、今回の出来事は最終章、人類にとっての共存共栄の最終章、よく私自身が解りませんがそう思いたい気持ちからです。
偶然は、偶然ではない!
という分析心理学者のC.J.ユングの言葉がありますが、最近ブログで「偶然」という言葉を扱ってきました。昨夜まで哲学者九鬼周造先生のことを書いてきました。九鬼先生のことをいろいろな角度から見ていくと「ニーチェ」が見えてきます。それはニーチェも偶然性を語るからです。
そこには九鬼先生のように、正面から取り組むのではなく、「意味の無いもの」としての視点からです。
今朝はふだんの番組紹介と違い、別角度から九鬼先生との対比の中でニーチェの偶然について精神医学者の木村敏先生の著書から次の記述を紹介したいと思います。
<引用『偶然性の精神病理』岩波現代文庫>
九鬼周造はその『偶然性の問題』(1)において、偶然性がその極限において必然性と結合し、その接点に「運命」が成立する構造を印象深く述べている。個人が個別的存在としてこの地球上に誕生し、現在の生を生きているのはまったくの偶然である。そこに何の根拠もない。しかし、いったんこの世に生を享けた以上、われわれは自らの個別的存在を自己として、あるいは自我として、主体的に生きなくてはならなくなる。
何人も逃れられぬこの運命は、個別的自己という偶然と普遍的生命という必然との---あるいは生成と存在との---接点に生じる微分的な「いま・ここ」の現象だろう。だからこの運命は、普遍的生命の別名である「力への意志」あるいは「死の欲動」によって絶えず培われている。
フォン・ヴァイツゼッカー(2)は、あらゆる生きものが自らの「生命の根拠」とのあいだに保っている「根拠関係」のことを「主体性」と呼んだが、この主体性とは実はここでいう運命のことにほかならない。
偶然性はそれ自体、なんの根拠ももたない。世界のすべてが偶然であると観ずるとき、ニヒリズムはその極に達する。すべてが偶然であるとき、「同じことの永遠回帰」が成就して、「反復強迫」は止まるところを知らなくなる。そこに科学的あるいは宗教的な真理の入り込む余地はまったくない。
一見普遍的な真理の成立しうるのは、個別的自己が実存的に自らを自我として定立し、偶然性を根拠の必然性に繋ぎ止める作業を通じてでしかないという大きな逆説がここに出現することになる。真理とは、虚無に直面した人類が、偶然性における主体の破滅から身を救うために案出した方便にすぎない。そして「自我」とは、われわれの一人ひとりが、偶然性の翻弄から身を護ろうとして発明した虚構にすぎないのではないだろうか。
(1)九鬼周造『偶然性の問題』全集第二巻、岩波書店、一九八〇年、特に二二四頁以下、本書「序論」八頁以下をも参照。
(2) ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(木村敏・浜中淑彦訳)みすず書房、一九七五年、二九八頁。
<以上P65~p67>
ニーチェの「真理・ニヒリズム・主体」につての語りの文末の言葉です。
「力への意志」「永遠回帰」などの言葉が書かれていますから、九鬼先生との対比でニーチェの偶然が書かれています。
番組では語られていませんが、「ツァラトゥストラ」の偶然は次のように語られます。
【ツァラトゥストラ】
「まことに、わが友たちよ。人間の間を歩いていると、まるで人間の断片と、バラバラになった手足の間を歩いているような気持ちがする。人間が木っ端微塵に分断され、それが戦場か場さながらに散乱しているのを見るのは、わたしの目には空恐ろしい。
今の世から目をそらせて昔を見ても、見いだされるのは常に同じもの、断片と手足の一部、そして無慈悲な偶然ばかり。---人間の姿は一つもない。」
・・・・・・・・・・
「そして一切の私の努力は、断片であり謎であり、無慈悲な偶然であるところのものを、一つに凝集し(dichten)総合することにある。もし人間が、同時に詩人(Dichter)であり、謎を解くものであり、偶然を救済するものであるのでなければ、いかにしてわたしは、人間であることに耐えようか。過去の人間たちを救済し、一切の(そうあった)を(われわれはそう欲した!)に創り変えること---これが初めて、救済と呼べるものなのだ!」
【以上】
九鬼先生は「いま・ここ」を重点としますが、ニーチェは「過去の人間たちを救済し」と過去をツァラトゥストラに語らせます。過ぎ去った過去、それに押しつぶされそうになるとき、そこに「永遠回帰」が登場します。そして「力の意志」という言葉も登場します。
今朝は番組紹介というよりも、私的な「偶然」の出会いの中でこの番組の立ち位置を見たような気がしました。
私自身はニーチェを知悉しているわけでもなく、とても勉強になる番組です。個人的な第1回目として書きました。
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