思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

二人の旅路~日中 激動を生きた京劇夫婦~・NHKヒューマンドキュメンタリーが語るもの

2011年08月31日 | つれづれ記

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 中国の大地を走る列車の車窓から、風景を見つめる老夫婦が映しだされ、この老婦人の次の言葉が流れます。

 本当に人の世は奇妙なもので・・・
 人生は一つの出来事や・・・
 一つの戦争・・・
 あるいは小さな選択によって違うものになってしまう。
 ・・・・本当に想像できない。

 例えば梁(リョウ)さんとの結婚
 京劇女優になったこと
 日本へ行くこと

 前に進むときは、退路を断った。
 ・・・後ろは、振り向かなかった。


という中国語の言葉で番組が始まりました。NHKヒューマンドキュメンタリー「二人の旅路~日中 激動を生きた京劇夫婦~」という番組です。

 3月に放送された番組で8月24日に再放送されました。録画をしたまま昨日まで観ずにいました。番組についての予備知識はないまま、この最初の言葉に何が織り込まれているのかと思いました。観終わると冒頭の言葉が、この二人のご夫婦の数奇な運命、人生を回想する老婦人の魂の語りのように感じました。

 人は時代を選ぶことも出来なければ、両親を選ぶことができない。視点を変えれば逆にもいえるのですが、ある日突然気がついたときにはこの世にいた、生を受けていたことだけは事実ではないでしょうか。

 人の人生、選択できない運命ですが、よく考えれば選択してきた運命ではなったとも言えるのではないのかとも考えさせる番組でした。

 「本当に人の世は奇妙なもの」

 NHKの番組紹介には次のように書かれていました。

<あらすじ>

 日中 激動を生きた京劇夫婦。日本と中国、2つの国の激動の歴史に翻弄されながらも、一途な愛をつらぬいて生きてきた夫婦の物語。

 日本と中国、2つの国の激動の歴史に翻弄されながらも、一途な愛をつらぬいて生きてきた夫婦の物語。かつて中国有数の京劇スターだったその夫婦には秘密があった。妻が日中戦争の日本人残留孤児だったのだ。




 
 しかし、文革の時代に、秘密は発覚。妻は「侵略者の子」として非難の的となる。夫は妻を守るため、国家一級俳優の地位や豊かな生活を捨て、夫婦で日本に移住する決断をした。その後2人は日本で20年間、人知れず工場や食堂で懸命に働き、支え合って生きてきた。
 
 そして、昨年の秋、夫婦は中国へ旅立った。人生最後の舞台として、夫婦の愛を描く京劇「覇王別姫(ハオウベッキ)」を演じるためだった。
 
 番組は梁嘉禾(りょうかほ)さん(70)と真理さん(65)二人の旅に同行し、互いを想い合ってきた姿を通して、夫婦の絆と幸せをみつめる。

<以上サイト内容>

と、短い説明ですが「ヒューマンドキュメンタリー」という人々の生きる姿を描く番組です。

 街の通りで出会えば何処にでもいるような仲の良い老夫婦・・・二人の数奇な縁と互いの慈愛の深さに感動しました。

 残留孤児支援支給金という僅かな援護金で、今は静かに生きる二人。

 真理さんは気づいたときには父は日本人で、母は中国人生まれて間もなく終戦となり、父は収容所へ、母は日本人と結婚していたという理由で迫害を受ける。

 父は収容生活後日本へ帰国、そして南米へ・・・・。迫害を受けることを懸念した母は遠く離れた地で中国人男性と結婚し。日本名柴田真理を柴真理に変え新しい兄弟とともに暮らします。

 真理さんはその後京劇の世界に入り、そして運命の出会いとなります。

 父親が日本人であることによる迫害、文革時代は想像を絶するものがあります。努力家で才能もあるので、主役に選ばれれば嫉妬からの迫害が待っています。

 妻を励ます夫。その二人は幸せの物語をどのように描き、どのように作り、そして今があるのか。

 番組を観た私は、二人の人生を知った私は、そこから何を得なければならないのか・・・・・自分に問わなければならない、そんな思いが湧いてきました。

 「大変でしたね」という軽率な言葉で素通りできないし、「だから戦争は絶対反対です」と平和論を主張する気の持なりませんでした。

 おかれた運命、眼の前に現れる現実は避けようがありません。その中で何を選択しているか。

 日本への帰国を希望する妻に、国家一級俳優で活躍する夫はともに日本へ行くことを決断し実行しました。

 日本では別な意味の過酷な生活が待っています。パート生活をしながら料理を学び中華料理店をオープン・・・・・しかし妻の真理さんは過労で倒れ間もなく料理店も閉店してしまいました。

取材班から真理子さんへ次のような質問がなされました。

>真理さんは梁さんから京劇を奪ってしまったと悩みましたか?

【真理子さん】

 悩みました・・・悩みました。時々思うのですが彼は中国にいれば、よい暮らしができてこんなに苦労をしなくて済んだはずです。

 「自分さえいなければ」「死んだ方がましだ」と考えました。

【梁さん】

 考えすぎだよ。そんな考えを持ってはいけない。

 優しく梁さんは真理さんを諭します。


 中国にいる京劇の友人がかつてご夫婦が活躍した劇場が取り壊しになるので、ぜひ最後の舞台を夫の梁さんにと依頼、そして20年ぶりに中国に戻ります。

20年ぶりに中国に戻り京劇を舞う梁さんの姿を見て、真理さんは次のように語ります。



【真理さん】

 とても感動しました。私と日本に行ったことで、梁さんは京劇を捨てることになりました。でも梁さんは奇跡を起こしました。

 20年間舞台に上がっていないのに・・・・私は梁さんを誇りに思います。

 昔のことはもう・・・どうでもいいと感じられるようになりました。

梁さんが舞った「覇王別姫」、翌日取り壊される舞台で二人で舞います。



なぜ真理さんはみんなの前で、梁さんと一緒に踊らなかったのか、

【真理さん】

 覇王別姫は、とても良い芝居ですが最後は夫婦の悲しい分かれ・・・若い時には気にしなかったけど、



 今はお互いの健康や命が心配なの・・・お芝居とはいえ夫婦で演じたくなかったの・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 人それぞれに避けようのない、己にのしかかってくる人生に直面します。それは運命と呼ばれ、その時に何を選び、何を捨てるか・・・・それによって今があります。

番組の最後にもう一度、最初のまりさんの言葉が流れます。

 本当に人の世は奇妙なもので・・・
 人生は一つの出来事や・・・
 一つの戦争・・・
 あるいは小さな選択によって違うものになってしまう。
 ・・・・本当に想像できない。

 例えば梁(リョウ)さんとの結婚
 京劇女優になったこと
 日本へ行くこと。

 前に進むときは、退路を断った。
 ・・・後ろは、振り向かなかった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 眼の前に立ち現れる事象、それぞれの物語を描き道をつける。性格が悪い、無知であるなどを論する事態ではなく、選ばなくてはならない。

 その時にもっとも最適と思う選択、



さすがNHK! 善い番組を制作します。感謝です。

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言語活動と理性の密接な関係・描かれる物語

2011年08月30日 | 哲学

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 民心からかなり遊離している民主党は総理大臣にが野田さんを選びました。政権を奪取してから三代目になります。直接総理大臣を選出する政治システムならばあきらめもつくでしょうが、総理大臣が変わるたびに失望感が漂います。

 理性的な政治を目指して、理性人でありたい、理性ということばは、ある種物語です。その中に描かれる理性像は、すこぶる健康な精神を有しているのですが、時には理性は壊れ目を覆うような行動をすることにもなります。

 したがって「理性とは何ぞや」という問いの哲学も成立するわけで、理性を語る文章にも出会うことになります。

 「言語活動と理性とは密接な関係があり、そこから意味が生み出される。」という思考をもつならば、哲学的には次のような文章は成立し、なるほどそうなんだと知識の片隅に置くことも出来ます。

 正常か異常かのボーダレス、境界というものはそれぞれの持つ物語作りの源泉の何かに由来するものだが、なぜ普遍的な源泉の何かを共有できないのか、甚だ不思議な一日でした。

 ということで、今朝はフランスの哲学者ミシェル・オンフルが書いた『<反>哲学教科書』から次の文章を紹介したいと思います。

<引用『<反>哲学教科書』嶋崎正樹訳 NTT出版から>

 言語活動と理性は密接な関係を結んでいて、そこから意味が生みだされる。一方では言語活動が意味を作りあげ、他方では意味が言語活動を促していく。そういう果てしない往復運動があるからこそ、理性は言語活動に働きかけ、言語活動の中にみずからの姿を見いだし、言語活執こおいてみずからを体験し、みずからを示せるのだ。
 
 言語活動(言葉によるものかどうかは問わない)を欠いた存在は、理性も断ち切られていると考えられる。同じように、理性を欠いた存在は、言語活動も制限・限定・抑制され、ほとんど有効ではなくなる。
 
 理性は言語活動の中で、言語活動とともに行使される。同じように、言語活動も理性があってこそ実践できる。理性は、感覚や感情が最初に見せる原始的な混乱を株序づけるのだが、そのためには、漠然としたデータを明瞭で明解な観念にする構造化された言語が必要なのだ。 
 
 理性はニューロンの鍛錬から生じる。省察、理解、思考の実践といった精神の様々な操作に使用できる神経のネットワーク、シナプス(ニューロンの接続部位だ)を作りだすためには、ごく幼少の段階から、知能の規則的・持続的・反復的な訓練が必要とされる。
 
 教育、生理学的な訓練、適切な指導がなければ、理性はない。この道具は人が生まれた時にあらかじめ出来上がっているのではない。それは獲得すべきもの、磨き上げ、保持し、定期的に作動させて使用可能にしておくべきものだ。必ずしも正しく使われるとは限らないけれど、とにかく使うためではある。 

 言葉や記憶を磨き、省察をめぐらしたり、計算を働かせたりして、この道具を用いる機会を増やすこと。そうすれば理性は練りあげられる。
 
 こうしてできた理性を駆使すれば、問いを投げかけたり、問題を解決したり、「アプリオリに(予め)」どこに引っかかりがあるのかを理解したりできる。
 
 子ども、精神異常者、高齢者、知的障害者などには十全な理性がない。新生児や初期の乳幼児のように理性が欠落していたり、理性になんらかの欠損が生じていたり、理性がすっかり衰えてしまっていたりする。
 
 天の恵み、天賦の才、才能の表れといった形で、理性も存在しうるし、現に存在してきたし-----輝かしいか平凡かに関わらず-----姿を消したり、一時的に停止したりすることもありうる-----アルコール、怒り、発作、狂気、麻薬などによって、理性は中断させられる。さらに、麻薬やアルコールの強度が強かったり、強度の弱い麻薬でも頻繁に使用したりすれば、理性が破壊されることもある。
 
<以上上記著p274~p275から>

 性善説・性悪説の立場で考えると文面からもわかるように性悪説に入る話です。時々私も理性ということばを使い文章を仕立てあげるのですが、上記の理性論はかなり簡潔明瞭に、教えるところがあるように思います。

 タレントの島田紳助氏の話は自己の持つ線引き(正常・異常のボーダレス)の狂いを見るように思います。ある時には物語的な理性を演出し、ある面においては反社会的な世界を容認する行動に走る。人とは如何に難しい動物かということが分かります。

 どのような物語を人生に持とうとしているのか、その為に今何をしているのか、また昨日は何をしたのか(選出したのか)・・・・・これからその結果が出るのか、国民はただその物語を見ることになる・・・・・考えさせられます。

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傅益瑶の「日本の祭り絵展」・北アルプス展望美術館

2011年08月29日 | つれづれ記

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 傅益瑶(ふ・えきよう)さんの「日本の祭り絵展」が北アルプス展望美術館(池田町美術館)で始まりました。展示会は、

 8月27日(土)~9月25日(日)
 
までです。数日前にこの北アルプス展望美術館の風光明媚な場所にあることをお話いましたが、今朝は傅先生の「日本の祭りの絵」について何回かに分けて離そうと思います。

 Eテレの絵画教室にも出演され、また有名な寺院の襖絵なども書かれているので現代中国の画家の中でもとても知られている方だろうと思います。パンフレットには次の絵が紹介されています。 





  実際の絵は大きく、全国各地の祭りが力強い筆さばきで、祭りの動が描かれていた、という素人評で、「どのように見えますか」ではなく「何を感じますか」という絵の持つ多面的な見る側、受ける側の志向性の動きを見ることができました。また「祭り」という魂の祭典、傅先生はしばしば「こころ」ということばを使われていましたが、筆さばきの繊細さ・・・等の技法論ではなく「画から何を感じるか」、先生の「こころ」を感じる日本の祭りの身体画ではないだろうかと思いました。

 昨日は午後1時からギャラリートークがあり、展示作品を見ながら30分ほど傅先生の説明というよりも講義のような内容の濃いお話を聞くことができました。

 昨年日本祭礼文化の会から出された画集『日本の祭り』には、永六輔さんとの「日本の祭り」と題した対談が掲載されていて、その中で傅先生は次のように語っています。

<引用傅益瑶画集『日本の祭り』日本祭礼文化の会 から>

永 傅さんは、いったい日本の祭りのどこに魅せられたんですか。

博 私が日本の祭りに惹かれたのは、ともかく祭りには不思議なエネルギーが渦巻いていること。そして、人間と自然が一体化され、神に感謝する気持ちが溢れているということ。そこに個人と神との付き合い方がとても不思議なものに思えたからなんです。いってみれば、日本人の祭りに対する意識は、日常の生活を超えて、自然と付き合うチャンス、そして神と付き合うチャンスの場ではないのかと思ったんです。

永 仏とも付き合います。

博 それからもう一つ言わせてもらうと、日本の祭りを見ていると、自分の生きてきた半生を見ているような気がするんです。文化大革命などたくさんの困難を乗り越えられた、そのときの自分自身の意志と努力、夢や希望といった精神面でのエネルギーのようなものが、日本の祭りのエネルギーとどこかで共通しているものがあるんではないかということで、そんなふうに思ってしまうからなんです。

永 そうですか。日本の祭りをご自身の生き方に重ねて見ているんですね。

博 そして、墨絵を描いている私にとって、祭りを表現するにはもっとも適したモチーフだと思ったんです。神輿を中心に、人と人とが激しくぶつかり合うエネルギーは、油絵や日本画の材料ではその激しい動きをすばやく表現するのは難しい。ボリューム感は出せても、個々の微妙な早い動きまではとても難しいと思います。墨絵ならば、華を自由に動かせて、激しく変化する祭りの時間空間、そのエネルギーや人々の瞬間の動き、表情なども自在に描き表わすことが可能なんです。最高潮に達した、生命力の藤った瞬間の動きなどは、毛筆のクツチがぴつたりでして、一気に描けるんです。もともと墨絵はイメージで描くもの。祭りの絵を描くときは、そうした自分の心に残った形を一気に描いているんです。

永 筆の動きは自在ですからね。

博 でも、最初はなかなか思うように描けなくて、随分と悩みました。どうすれば、その空間のなかに、人間のエネルギーが表現できるかと。ふと気付いたのは、日本の祭りは人間と自然とが一体となつているということに気付いたんです。中国の老荘思想と同じで、自分も自然と一体とならなければ、永遠にそこに近づくことは出来ないということなんですね。ですから、自分も祭りの中に飛び込んで、一緒に遊べばいいんだとわかったんです。はっぴを着て、頭にねじり鉢巻を結んで、祭りを一緒に楽しむと、つい夢中になってしまうんです。
(笑)そして、描いているときは、不思議と迷いがないんです。あの祭り、この祭りも描きたいと、どんどんイメージが膨らんでいつまでも筆が走ってくれるんです。

・・・・以下略

<以上上記書から>

 水墨画というとどうしても日本画の「空白の美」を見てしまいますが、作者の描きに観入ってしまいますが、傅先生の祭りの画は先生の祭りに感じる「こころ」が描かれているようにおもいました。

 傅先生は、「現代中国では素朴な地方の祭りはほとんどなくなっている」「人と人とを精神的に繋げる祭りが無くなっている」という話もギャラリートークでされていました。

 「20011年大災害からの復興を祭り絵に託して」という副題が付けられていますが「祭り」には人のこころとこころを結ぶ不思議な力があることをさらに深めることができました。

 傅益瑶先生の絵に対するお考えについては、後日細かにアップしていきたいと思います。

 9月25日(日)までです。その後は長野市に会場は写されますが、北アルプスの景色を眺めながら秋の信州を、おひさまの舞台の安曇野を満喫してください。

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新・「空気」の研究

2011年08月27日 | 風景

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 『新・「空気」の研究』という特集見出しが目にとまりました。新潮45の9月号にはその他に「釈迦とドラッガー」と題した対談集も掲載されています。

 『「空気」の研究』というとあの山本七平先生の著書を思い出しますが、この表題はそれを意識しての特集です。山本先生の著書も最近再版され文庫本コーナーに山積みになっていますので、それなりの世の中の流れにあるのかと思ったりします。特集に掲載されている執筆者は、

吉崎達彦・蓮舫・堀井健一郎・中野翠・正高信男・片山杜秀

の6氏で、筆題ではありませんが

時代の趨勢

メディアの風向き

古代からつづく同調システム

座持ちの笑いに見る強さ

「心のケア」ということばへの批判

明治憲法と戦争自爆への道筋

という内容の小論が掲載されています。今朝はこの中から表題にもなっている山本七平先生が現況を読むとしたらという視点で双日総合研究所取締役副所長吉崎達彦氏の『日本を覆う「3・11シンドローム」』から最後の部分を引用紹介したいと思います。

<引用新潮45・9月号から>

・・・・・略・・・・

 エコノミストとして興味深いのは、今回の震災があのリーマンショックからわずか3年後に起きていることだ。せめてこれがリーマン以前であれば、財政状態もここまで悪化してはいなかった。今後の復興は、少子・高齢化現象が続く中で、財政再建との二兎を追わなければならない。つくづく「有年に一度」の経済危機の後に、「千年に一度」の天災が続いた不運を感じるところである。
 
 とはいえ、このような不運が過去に絶無だったわけではない。わが国は戦前に、「関東大震災」(1923年)の6年後に「世界大恐慌」(1929年)に見舞われたことがある。今回とは天災と国際金融危機の順序が違うが、どちらも「踏んだり蹴ったり」の経験であったことに変わはないだろ。

 当時の日本も、大方の予想を裏切って関東大震災からの復興を迅速に成し遂げた。恐慌からの脱出も、高橋財政によって世界に先駆けて成功した。つまりは2つの試練を立派に乗り越えた。この国の人々にはそういうDNAが流れているのであろう。
 
 しかしながら、あまりに不運な1920年代を経験した日本は、それ以後、満州事変(1931年)、二・二六事件(1936年)、真珠湾攻撃(1841年)と、破局への道をひた走ることに在る。政策判断にミスが続いたのは、その前の2つの不運と無関係ではなかったのではないか。今と同じように、「異常な空気」に支配されていたことは想像に難くない。
 
 1920年代がそうであったように、日本は今回の危機を乗り越えるだろう。それは災害の多いこの島国に住む人々が、昔から繰り返してきたことでもある。日本は震災ではつぶれない。だがそういうとき、政策の方向を誤りやすい。それはきっと「空気の支配」が強まって、政治が暴走してしまうからであろう。
 
 昨今の原発論議などはすでにその兆候が表れていて、うかつな発言をすれば人扱いをされかねない。が、一時の感情的な勢いで国策を動かすべきではないだろう。
 
 かの山本七平翁は、「空気の支配」に対抗するために「水を差す」ことが重要であると説いた。「3・11シンドローム」も放置しておくと、国の進路を誤るかもしれない。従って、われわれも積極的に水を差さなければならない。
 
 あの北野武は、震災直後に「僕たちには歌うことしかできません、と言って知らない歌手がテレビで歌っている」などと、いつも通りの毒舌を振りまいていた。今必要なのは、そんなノリではないかと思うのだ。  

<以上上記書から>

 NHKのさかのぼり日本史や終戦記念日頃の戦争関係の番組などを見ていると、今の時代は確かに戦争への道であった、過去の日本の歴史に重なる部分があります。

 大きな違いは軍事官僚が内政までに入り込んではいないだけだろうと思います。しかし自衛隊、検察、警察関係いわゆりある種権力畑の空気を吸った者の国会議員がいないわけでもなく、昔の軍関係者とは質が異なりますので懸念がないわけでもありません。

 国民もそれほどまでに、毒に弱いとは思われませんが作られる風評に乗りやすい面は昔も今もまったく同じで、現代社会は昔よりもその風評の流れる速さが切なくなるほど刹那です。

「そんなノリ」もこれまたある種の流れでありますが、愚かな政争を見ていると不謹慎ではありますが「そんなノリ」でクリアーしないと「やってられない」・・・・・そんなご時世ではないかと思います。

 どうして政治家は愚か者になるのか「気高き使命感」を言うが、あの鳩山のお坊ちゃまが、刑事事件の被告人が何で日本の動かそうとしていることに不思議で仕方がありません。

 茶かしの世相、する方なのか、やっている方なのか、「そんなノリ」・・・・しかし、日本という国の凄いところは、底力があることでしょう・・・・どうにかこうにか今日があります。

 最後ですが、思うに本当に貧乏になりました。それでも生きています。

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頽落と心の磨草

2011年08月27日 | 哲学

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 ある文章を読んでいたところ「頽落」ということばが出てきました。文章の流れから「人がどん底に突き落とされるような目に遇う」という意味ではなかろうかと思われるのですが、はっきりしないと落ち着かない性格ですので、サイト検索したところ、Yahoo知恵袋で

 たい‐らく【頽落】-日本国語大辞典
 〔名〕くずれ落ちること。

と説明されていました。さらにGoogle検索すると

唯物論者: 頽落
http://keio-jiro.blog.ocn.ne.jp/blog/cat11519427/

トンカ庵
http://kantkant.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/10-bc59.html
『存在と時間』を読む (10)頽落、逃亡、不安

などのサイトがあり、落ちる人間の哲学なのです。

『唯物論者』さんによると、

 頽落verfallenとは、人間的堕落のハイデガー的表現である。頽落という訳語は一般に馴染みの無い言葉なので、以下では堕落と表現する。ハイデガーにおいて堕落は、人間が自ら望む形で、人の形をした単なる物体に成り下がることを指す。そして人の形をした単なる物体とは、自由を放棄した人間、もしくは自由を放棄させられた人間を指す。なぜなら人間存在の本質は、自由だからである。・・・以下略


『トンカ庵』さんでは、

 日常的現存在の根本的様相、すなわち現存在がさしあたりたいていは配慮された「世界」にたずさわり融け込んでいること、世間話や好奇心や曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在のなかへ融け込んでいること、をハイデガーは頽落とよぶ。おのれ自身として存在しない(非本来性)というあり方がこのような日常的現存在の積極的可能性である。現存在は頽落するものとして、事実的な世界内存在としてのおのれ自身からいつもすでに脱落している。しかもどこに頽落しているかというと、それ自身現存在の存在にそなわっている世界に頽落しているのである。世間と配慮された「世界」とに融け込んでいる現存在のありさまは、本来的な自己としてのあることの存在可能としての自己自身から逃れる現存在の逃亡である。・・・以下略

以上他人サイトを参考にすることでこの「頽落」という言葉はハイデガーの言葉だと分かります。

 墜落と同じように解していいようで、「人はその場において常に落ちる存在である」これは仮想的で夢物語かも知れませんが、常にこのような冷たい風が我が身に吹き付けている、と考えて生きることも自分の日常における戒めになるように思いました。

 元漫才師でタレントの島田紳助氏の芸能界引退はには、この「頽落」がなぜか重なるのです。深イイ話などは好きな番組で多くのことを学ばせていただきました。

「存在者というものはさまざまに語られる。」これは『形而上学』(アリストテレス)の言葉です。

 存在者とは、自然に存在するものや制作されたものも含めて今現在現前にあるものと理解してもいいと思いますが、その存在者は可能態から現実態へ向かう運の内にあるというアリストテレスは言います。

 現実態になった存在者は、また可能態により更なる現実態へ向かう、まるで永遠回帰的な話です。

 目的論的運動と呼びますが最終目的は何か、それが「純粋形相」という話になるわけで、頽落の究極のテロス(目的)はどこにあるのでしょう。
 
 つまるところ「人間存在」という大きな問いが立ち現れ哲学が始まり、人間とのかかわりの中であらゆる学問が成り立ち、また思想や宗教があるのではないかと思います。

「頽落」といってもその目的性を考えると、現状の止揚がないわけではなく、それぞれの価値観の異なる善き生き方にも、また集団の普遍的な価値観における善き生き方にもなるわけで、善悪の価値観で「頽落」を考えると「みじめさ」や「ありがたさ」が立ち現れる機会でもあると思います。

 頽落を生かすも殺すも現状認識、いかに人間存在を考えるかで 「心の磨種(とぎぐさ)」になりそうです。

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心の磨種と学ぶということ・石田梅岩

2011年08月26日 | 江戸学

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 言うなれば「真面目、誠実、謙虚」な人と紹介されて、反社会的な悪人とは思わないのが普通です。

 儒教の教えに「五倫五常」という言葉があって、 意味は、

 人として常に踏み守るべき道徳のこと。
 「五倫」は基本的な人間関係を規律する五つの徳目。
  父子の親
  君臣の義
  夫婦の別
  長幼の序
  朋友の信
 「五常」は仁・義・礼・智・信の五つ。

ということのようです(goo辞典から)。

 元禄時代ごろの人物で関西に石田梅岩((いしだ・ばいがん)という庶民の哲学者がいました。自分の性格の悪さに気づき欠点矯正に努力し庶民の先生となった方で、以前にもブログで紹介したことがあります。

「倹約」と「誠実に生きる」に学ぶ[2009年11月18日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/96cb77173d8068a5c4811ce763ba6bc5

 「われ生質(うまれつき)理屈者にて、幼年の頃より友にも嫌はれ、ただ意地の悪きことありしが、十四、五歳の頃ふと心付きて、これを悲しく思ふより、三十歳の頃は、大概なほりたりと思へど、なほ言葉の端(はし)にあらはれしが、四十歳のころは、梅の黒焼きのごとくにて、少し酸(すめ)があるように覚えしが、五十歳の頃に至りては、意地悪きことは大概なきやうに思へり」(石田先生事蹟から)

と本人が語るように「欠点矯正に努力」したわけですが、根本は気づきをもつことができた人にあるようです。

 梅岩先生は、丹波の国に生まれた人でいわゆる関西人です。大坂に適塾を開いた緒方洪庵(おがた・こうあん)は、幕末の頃の人、TBS「Jin-仁-」では俳優の武田鉄矢さんが役をおやりになりましたが医師で蘭学者で福澤諭吉、大鳥圭介、橋本左内、大村益次郎、長与専斎、佐野常民、高松凌雲など多くの弟子を育て上げました。詳細は語りませんが人を育てる教育者としても相当な人物であったようです。

 関西というところ、江戸とは異なる特異な環境があったように見えます。そんな梅岩先生のことについて書かれた本を時々読むのですが、最近古本店で『日本の近代化民衆思想と』(安丸良夫著 青木書店)という本を見つけ、その中に次のように分かりやすく梅岩先生の思想成立過程が書かれていたので紹介したいと思います。

 <引用『日本の近代化民衆思想と』(安丸良夫著 青木書店)から>
 
 ・・・・民衆的諸思想家は、いずれも人間の「心」や「人性」について、観念的な思索を真剣にかぜねた。たとえば、石田梅岩の心学は、実践道徳としては、正直、倹約、孝行などに要約されようが、しかしそうした実践道徳も「心性」の哲学に基礎づけられてはじめてその独自な意義をあきらかにするような性質のものだった。

「心性」の哲学が、実践道徳にたいしてもつ意義をあきらかにするために、ここではまず梅岩の開悟の体験を分析してみよう。

 梅岩は、若年のころから五倫五常の道を人々に教えたいという頗望をもっていた。しかし、自分の思想について十分に確信がえられぬまま、一年あるいは半年といくつかの師家をたずねたが、どうしても心が定まらず不安だった。だが、そうした遍歴のあげく、隠遁の老僧小粟了雲に指摘されたことが、まさに核心をついていた。

 すなわち、了雲によれば、梅岩はまだ五倫五常を人間主体にとって外的な規範として受けとっているのだ。身分の「心」こそすべての根源であり、すべての道徳もその「心」の実現でなければならぬのに、梅岩は外的規範を追求するばかりで、自分の「心」を養うことを忘れ、その結果、自分の本心と外的規範のあいだに売離を生じ、そこに不安がうまれたのだ。だから、なによりも人間の本質である「心」を知ることにつとめ、すべての思想や実践がその「心」のうえに基礎づけられるように努めなければならない。

 梅岩にとって、これはまったく核心をついた指摘だったので、梅岩は従来の考えに「茫然トシテ疑ヲ生」じ、「夫ヨリ他事心二不入、明暮如何如何卜心ヲ尽シ」、ついに一年半ばかりしてある朝突然に開悟した。そのとき梅岩は、「自身ハ是レハダカ虫、自性ハ是レ天地万物ノ親」と悟った。

このことを彼は、「天ノ原生シ親マデ呑尽シ/自讃ナガラモ広キ心ゾ」と詠んだ。梅岩は、さらに「自性」というものが残っていると了雲に指摘されてもう一度開悟し、それを「呑尽ス心モ今ハ白玉ノ/赤子トナリテホギャノ一音(こえ)」と詠んだ。

二つの開悟はすこし違っているが、要するに梅岩は、自分の心と世界が一体となる不思議な体験をもったのである。だが、大切なことは、この不思議な体験によって、「人ハ孝悌忠信、此外子細ナキコトヲ会得」したということである。

もとより従来も、孝悌忠信が人間の道であることを梅岩は信じていただろうから、苦しい思索過程に比べてこれはあまりに平凡な結論にみえる。だが、自己の心の実現として世界が存在すること、あるいは、自己と世界が一体なものだということが体得されるや、孝悌忠信は外的規範ではなくなり、自己の心に本当に納得できるものとなり、むしろ自己実現、自分の心のやむにやまれぬ必然的な実現ということになる。

こうして実践道徳は、自己の精神の権威と自発性のうえに基礎づけられることになった。梅岩の思想のさまざまな独自性も、こうした見地から理解できる。たとえば、梅岩が独自な三教一致の立場をとったこと、経典の文字にとらわれず「心の磨種(とぎぐさ)」として自由に取捨したこと、師了雲の師伝をことわったこと、世評をかえりみず大胆な教化方法をとったことなどは、すべてこうした自分の精神の権威についての確信からうみだされたものだったと思う。

初期の心学では、こうした開悟の体験を「発明」とよんで重視したが、この「発明」の体験を通して心学の主張する一見卑近な日常道徳が、人々の精神の権威と自発性にもとづくものとなったのである。

 こうして樹立された「心性」の哲学は、極度に唯心論的な形態においてではあるが、人間の無限な可能性を主張するものだった。梅岩は、「心性」についての思索をつきつめたあげく、「万事ハ皆心ヨリナス」、「仁者ハ天地万物ヲ以テ一体ノ心トナス。己二非卜云コトナシ。天地万物ヲ己トスレバ至ラザル所ナシ」などとのべた。こうした唯心論的世界観は、民衆的思想に共通していた。

たとえば、河内屋可正も、人間の幸不幸からはじめてすべての事象はみな「己が心より出た」ものだとのべたし、黒住宗忠の「生死も富も貧苦も何もかも/心一つの用ひやうなり」、「天地は広き物かとおもひしに/我一心の中に有りける」などというのも同様な意味であろう。・・・・以下略

<以上上記著p30~p31から>

 河内屋可正、黒住宗忠という名が出てきて興味の尽きないこの時代ですが、「このような自分ではいけない、本来の自分に目覚めよう」と気づく人がいる。軽重の差が世の中を生み出しているのかも知れませんが、求めなければ救われない、学ばなければ何ものも成立しない、それだけは確かであるのです。

 「心の磨種(とぎぐさ)」ということばが出てきますが、じつに良い言葉の響きを持っています。

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北アルプス展望美術館・有明山のある風景

2011年08月25日 | 風景

 NHK連続テレビ「おひさま」に登場する安曇野の風景の中で次のシーンが印象的でした。安曇野に住んでとても安曇野らしい風景で、安曇野を遠く離れた人にとっては望郷の念に駆りたてられる風景だと思います。






 昨日は、隣の池田町にある見出しの写真の北アルプス展望美術館(池田町立美術館)に出かけました。ちょうど美術館まで行く道の途中に番組の撮影現場があるので立ち寄ってみました。

 以前にも紹介したのですが、田植えをする前の風景で春先の風景でした。現在はご覧のとおり稲穂がしっかりつき本格的な刈り入れの秋を待つばかりとなっていました。

 有明山は雲がかかり、有明富士という別名をもつ有明山は雲に覆われていました。

 さて北アルプス展望美術館ですが、昨日が俳優の榎本孝明さんの「水彩紀行展」の最終日であることを失念して妻に言われ出かけてきました。

 榎本さんが紀行画を描く方だということは多くの人が知っておられるかと思いますのでここでは紹介しません。

 「北アルプス展望美術館」名前のとおり常念連峰とくに番組でも有名になった有明山を全面に見ることができる美術館です。高速道路の豊科インターを降り、北アルプス白馬連峰のある白馬に向かう国道の東側(右側)の山の斜面にある美術館で田畑のある平野の向こうに北アルプスを見ることができます。

 この美術館は池田町美術館、奥田郁太郎館、小島孝子記念美術館の3館で構成され、先の榎本孝明さんの特別企画の展示会も開催されるほか、これ等の方々の絵画を見ることができます。










美術館にある池の蓮がちょうど咲いていました。

 芸術の秋これから北アルプスの勇壮な山岳風景を見ながら絵画を見るのもよろしいかと思います。

 榎本孝明さんの特別展が終わり、同美術館では『日本の祭り絵展』と題した傳益瑶(フ・エキヨウ)さんの展覧会を企画しています。



 傳さんは現在日本の祭りを題材に多くの祭画を描かれています。祭りと言えば魂の躍動の姿や葵祭のような時代の風景などがありますが、紹介パンフに使われているのは諏訪の御柱風景で分かりづらいですがとてもその躍動感が感じられる絵を描かれる方です。

 これからの季節、秋の北アルプスを見ながら芸術に触れるのもよろしいかと思います。

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田舎へ帰ろう・安曇野

2011年08月24日 | つれづれ記

[思考] ブログ村キーワード

 連日の雨と気温の低さが続いています。今朝もどんよりとした曇り空。遠く美ヶ原方面に朝焼けが見え、安曇野平から松本平は朝霧が出ているようです。

 いつもの夏休み、子供たちのために安曇野汽船という会社が熱気球体験を企画して実施していますが、このところの天候不順で中止になっています。早く天候が回復し、子供たちに安曇野の豊かな大地を見てもらいたいと思います。





 さて話が変わりますが、食生活における自給率が話題に上り先進国では最低の水準、50%に満たない現状認識をしっかりつかむ必要があります。

 戦国の世ならば、天候不順、不作が続くと当然飢餓を脱するために他国へ攻め入るのが当たり前という話は最近しました。江戸時代においてもこのような天候不順はあり飢餓もあったのですが、農民をはじめとして知恵ある支配権者は協調性の中で灌漑や新田開発を行い、どうにかこうにか今ある子孫を存続させました。

 明治維新までは自給率100%で、戦後はあれよあれよという間に他国(外国)に依存しない限り国民は子孫を残すことはできなくなりました。救いは先進国の中では自給率に反比例で人口減という現象があるということで、ひょっとすると他国を頼らずに済むかも知れっませんがあくまでも物語に終わるでしょう。

 今日は週半ばに夏休みを取りました。畑を一巡するとその緑の鮮やかさに恵みを感じます。


(見える山は有明山です)









 わが家の野菜自給率は100%に近くいろいろなものを作っています。100坪程度の畑ですがかなり作ることができます。

 レタス、ナス、キュウリ、オクラ、シシトウ、ピーマン、豆類・・・・等

 肉類は国内産を食べています。その他もほとんど国内産の原料をもとに作られた食品を使用し、国外のものは数パーセントだと思います。

 魚類は、義兄が無類の釣り好きで、週に1度は隣県に新潟の海に出かけおすそ分けに与かっています。

 近代日本の思想背景について調べると、一方的な封建社会制度による奴隷制並みの支配社会との意図的な主張に毒されなければ、勤勉や倹約や孝行ということばが古い民衆の生活態度であったことが分かります。

 一部の農民騒動を拡大に解釈するのは危険です。現代社会でも全く同じで、異なる主張の互いの拡大解釈と煽(あお)りによってどのような道を歩み結果はどうであったか現実が示しています。

 一部の思想家の中にはコミュニー意識は無くなり、これからはアソシエーションを創り、主張のデモを中心とした活動をすることが重要であり、理想の世の中を創ろうと主張をする人もいるようです。

 他者の「和」を阻害する思想の何ものでもなく、旧態依然のお考えに唖然としています。地元安曇野のもそのような風潮が入り込んできそうです。

 他者から集める情報は多方面から数多く収集し、自分で納得する必要があります。

 消えてはいない連綿と続く民俗的な連帯を祭りに見ました・・・・歳を取ったら田舎へ帰ろう、田舎のない人は安曇野に来ましょう・・・・きっと温かく迎えてくれるはずです。連続テレビ小説「おひさま」の田舎なのですから。

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いのちと環境・柳澤桂子

2011年08月23日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 感動する詩偈などを紹介する時があります。語られている言葉に、そのシンボル機能を超えた世界、高次の意識を体験させてくれるからです。

 それが感動というトキメキなのですが、そういう視点からすると、言葉は労働のためのコミュニケーションの手段とか、客観化作用を可能にするものだなどという考え方は、少々次元が異なるように思います。

 魂を揺さぶるような、感涙の詩偈はどこから来るのか・・・・考えたくなります。

 自分を中心に考えれば、そう創られているに納まり、相対的意識であり喜怒哀楽を作っているだけだという短絡思考に終ってしまいます。

 その方が苦しまずにいられる、苦しみの中に日々暮らす人ならばそのような意識付も必要でしょうが、そういう場に生きていないものにとっては甚だ経験不足で、悲しい時には涙し、おかしい時には大笑いしたいのです。

 その方が私にとっては生きている実感があるように思います。そのような生活の中で、

 魂を揺さぶるような、感涙の詩偈はどこから来るのか?

への疑問が湧いてきます。詩偈の作者は自分の身の体験、境遇から感じ取ったものを言葉で表現し、その言葉を読んだ私の心を揺さぶり、先ほどの言葉で言えば魂を揺さぶるのです。

 そうなると表現されている言葉は、単なるシンボルでもなく、客観化作用を可能するものという域をも超えているように思います。

 生命科学者の柳澤桂子先生といえば難病との闘いの中で語られるその言葉に大変感動させられてきました。私が初めて柳澤先生を知ったのはNHKの「こころの時代」です。そこで先生は般若心経の本を自分の言葉に訳され紹介されていて、その後世の中には多くの般若心経の本がいろいろな分野の方々により出版されることになりました。

 車イス生活、身体機能の衰え等の状況下で、「生」を問うた時に般若心経に出会、自分なりに訳しそこに生命の尊さを感じたという内容の話をされていました。

 身の内から来る、出る言葉ですから単なるシンボル的なものではありません。私にはないものでありながらなぜ感動するのか、受容、容認できるのか・・・・専門家から見ればその道にずれた話に思える人もいたようですが、私の場合は異なります。

 素直とかそうでないとか次元ではなく、トキメキがあったのです。時々掲出する宮沢賢治先生の「アメニモマケズ」もそうです。この詩は今では世界で語られるものになりました。なぜなのか・・・・そういう時の流れの中で、そう感じる、トキメク人が多くあらわれる事態だともいえると思います。

 8月10月で柳澤先生は『いのちの環境』(ちくまプリマー新書)を出されました。3・11の東日本大震災や福島原発事故の発生の時にこの本の言行を書き終わり校正をしている時であったそうです。

 生命科学では放射線を使った実験が行なわれ、その怖さを十分に知りつくしています。

 著者の柳澤先生はその経験から今回の原発事故が我々に突きつけている事態から、高次の意識への転換を促しています。

 書店に行くと今や「原子力発電」「放射能」関係の本が溢れています。その中では異色な著書ではないかと思います。それは専門の生命科学から感じる放射線の脅威、そして「いのち」「生きる」という問題に対して直接その身をおいたものとして、柳澤先生の精神が言葉を生み出しているからです。

 生きる欲から生まれる言葉ではなく、生かされている精神から生まれる言葉でつづられているからだと思います。

 「五体満足」という言葉に、今の日本人の一部には何らかの思いを感じるようになっています。そういう人たちがいるといった方がよいかもしれません。「五体満足」でない人たちが語る言葉にこころが動かされ、魂が揺さぶられる人たちのことです。アソシエーションという共通の関心や目的などで集まった機能的集団ではなく、生命(いのち)をもつものとしての感ずる心を持った人たちです。

 アリストテレス的に言うならば、確かにそのような可能態を織り込んだ人々がいて現実態を構成しようとしている。しかし同じ人類でありながら魂の目的性において異なるために、現実態において争いが生じる。

 生命の目的論的運動は、どこまでも相対化させながらどこへ行こうとしているのか・・・確かに私たちという存在者は可能態から現実態に向かう運動の中にいると思います。

 耳をすませてごらん。
 その響きを聞いてごらん。
 聞こえているのに聞こえない。

そんな言葉でつづられた世界に感じる心を持ちたいものです。

柳澤先生は『いのちと環境』の末葉の「おわりに」で次のように語っています。

<引用『いのちと環境』柳澤桂子著(ちくまプリマー新書)から>

おわりに
 私たちは地球を壊しでしまいました。その原因は人口の増加と産業がさかんになりすぎたことです。温室効果ガスも増えています。いずれにしても私たちは今の生き方を考え直さなければなりません。

 けれども二酸化炭素の削減を取ってみても、国は自国のことばかり考えていて譲り合おうとしません。砂漠化にしても、森林破壊にしても地球規模で相談して、何とかしなければ間に合わないところまで来ているのに、話し合いは進みません。

 人口問題だけが進展しはじめましたが、遅きに失した感があります。
 本書で述べてきたように、私たちの意識の進化のレベルが低すぎるのだと私は思います。天台宗の十界の考え方でいうと私たちはまだ修羅界程度です。せめて天上界まで進みたいものです。けれども進化の速度はそれほど速くありません。進化を待っていたのでは、私たち、ホモ・サピエンス・サピエンスは滅亡してしまうでしょう。
 
 地層から得られるデータは、栄えた生物ほど早く滅亡することを示しています。地面を縦に掘ってみると、三の種の生きていた時代と、次の種が生きた時代が層をなして見えきす。長く生きた種は厚い層を作りますし、少ししか生きなかった種は薄い層を作ります。

 人類の滅亡を防ぐ唯一の方法は教育で民衆の意識レベルを上げることです。自我を高いレベルにあげるのです。それには高い自我レベルを持った人による教育が有効だと思います。また三次過程にある芸術に触れることもたいせつなことだと思います。これは早急に始めなければならないことだと思います。

 もし私たちが滅びれば、もっと大きな脳を持った新しい人種が地球に住むことになるかもしれません。けれども、私たち現代人の頭蓋骨はすでに大きくなってしまっており、生まれるときも母親の膣をやっと通っているほどです。もっと大きな頭蓋骨の人種があらわれれば会陰切開をして産ませることが普通になるでしょう。しかし、その人種も遺伝物質としてDNAを持っているはずです。私たちが放射能で汚染させた地球には住めないかもしれません。あるいは放射性物質に耐性のある人が突然変異であらわれて、その子孫が増えていくのかもしれません。
 
  まだ、今すぐみなさんにできることがあります。まず自分の意識レベルを上げるような勉強をして下さい。いい芸術に触れることをお勧めします。特に優れた文学を読みよく考えて下さい。あなたの周囲の人の意識レベルを上げるような会話をして下さい。

 私の生涯の残り時間は少なくなりました。神経も若い頃のように活発には働きません。これからますます悪くなるでしょう。私の人生の終わりに際して、これから地球に生きる生物に、これから生まれてくるものたちに幸せに暮らしてほしいと祈らずにはいられません。
 まして私たちが木を切り倒し、地面を砂漠化し、たくさんの高レベル放射性物質を残してこの世を去るなどということはとても悲しいことです。私は病気でほとんど寝たきりですので、病床で本を書くことしかできません。元気な皆さん、どうかカを貸して下さい。

・・・・以下略・・・・

<以上上記著p211~p212から>

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小岩獄落城と安曇野・歴史に学ぶということ

2011年08月22日 | 歴史

[思考] ブログ村キーワード

 真夏から急に肌寒い秋に突入といった体感の気候になってしまいました。夏休みの季節、雨降りが続き恒例の熱気球も中止の日が続いています。

 昨日の日曜日午前中の、あのNHK連続テレビ小説「おひさま」のロケ現場である「道祖神尾ある水車小屋」を見に行きました。今週親戚が知人が見に来たいということで、今はどうなっているのか確認をするために行ってきた訳です。

 放送が始まったばかりの4・5月はよく現場に出かけ季節の移り変わりの中の道祖神のある風景を撮っていましたが、最近は観光客も多くなり混んでいるのでご無沙汰していました。

 言ってビックリ以前はガードマンの交通整理員がおられましたが今は市役所観光課の職員の方がおられました。





 案内板あり、コースを示す札があり、小道もきちんと整備されていました。雨降りの日曜日ですが、ご覧の風景があり、多くの人が訪れ、帰るときにはバスの観光客の集団がちょうど来ました。

 番組は録画をしのがさず観ています。泣いたり笑ったり、単純明快暗さの残らない連続ドラマで、だからと言って浅くはない内容だと思います。

 安曇野は夏休みで子供連れの観光客が多く、番組の関係でそば屋さんは大繁盛、大王わさび園も大変な騒ぎです。

 「おひさま」は昭和初期から現代までの時代背景ですが、昨日は戦国の安曇野の戦国時代の歴史講演がありました。



 安曇野の山麓線沿いにある小岩嶽(こいわだけ)地区には、戦国期に小岩嶽城という城がありました。

 甲府から諏訪、佐久、小県、上田方面へとその支配権を信州に伸ばしていた武田信玄が松本平、安曇野平へと広げる中で、この小岩嶽城を攻め滅ぼした歴史があります。その歴史的出来事についての講演会で、講師は信州大学副学部長の笹本正治先生でした。

 講演終了後に質問を受ける中で、地元の高齢の歴史家がやや実証性に欠ける質問をされていましたが、的確に歴史資料を基に推測を交えない回答をされていて大変勉強になりました。

 戦国時代はどうして起ったのか。

 武田軍による大量虐殺はあったのか。

 伝承にないから、大量虐殺はなかったか。

 そもそもこの戦国時代の始まりは異常気象とそれによる飢餓が原因のようです。諏訪大社では真冬に御神渡りという諏訪湖の湖面にできる氷のせり上がり現象などから米の豊作などを占っています。



 したがってその年の気候状況を記録にとどめています。それをもとにした年表を見ると領民が飢えの苦しみ状態にあることが分かります。したがってその飢えの苦しみを解消するために隣国へ略奪のために出かけることになります。

 武田氏は神仏を大切にする。諏訪の神はその当時今現在も全国的に諏訪社があるようにかなりの信仰されていた神でしたので武田氏は最初にその支配権に入れる策略をし実行しました。

 その後山梨(甲州)に接する佐久地方に侵入し略奪をおこないます。そういう事実を信濃の豪族に見せつけ威嚇します。豪族の中には起請文を書いて武田軍に帰順するものもあれば、他国へ逃げるものもあり、同族であっても二分するような混乱の世界でした。

 農民はどうか、土地は固定化され長男が家督を継ぎ次男以下はいつも使われる側でほとんど奴隷のような状況でした。したがって飢えが始まれば略奪に参加し領地を手に入れればその土地に住むことができ、長として生きることができた。

 一方戦いに勝てば、戦勝であっても人手は戦死により少なくなり補うために、働ける人間を確保しなければなりませんし、また血の継承を大切にしていた時代、その土地を手に入れれば支配していた豪族の血の継承を引き継ぐためにその豪族の妻や子を略奪し血の継承を行う。

 そうすることでその土地の支配は円滑に行うことができるわけで、武田軍はそれを行ったということです。

 略奪される側の農民はどうか、戦いに参加するもの、山などに逃げるものなどがおり、攻める側は農民は殺さない、殺せばその土地を手に入れても何の価値もなくなってしまいます。そしてこの時代は信仰の時代で寺社に逃げ込めばよほどの状況がなければ攻められることはなかった。

 徹底抗戦をする輩は城に立てこもり最後まで戦うことになります。小岩嶽城はそんな城だったわけです。安曇野の山麓にあるこの城は、今でこそ安曇野米が有名ですがその当時は、今のように水路もなく水がないそれほど豊かな土地ではありませんでした。

 しかし徹底抗戦をする領主であれば攻めるしかない。その結果次のような文章が残されることになりました。

<「小岩嶽城落城と安曇野」~戦国時代の背景を考える~配布資料から>
    
1大虐殺のあろた小岩嶽城と平瀬城

①武申信玄の軍が小岩岳城を攻めた。
 歴史学は古文書や記録から歴史を組み立てる。
 戦国時代の甲斐く山梨県)の記録に小岩岳城く安曇野市穂諦有明)が出てくる
『妙法寺記』天文21年く1552〉の条(=『勝山記』、現在山梨県南都留郡富士河口湖町にある常在寺の代々住職が書きつづった戦国時代の記録)

く原文)
 此年信御働候小岩兵部雲戒ヲ責落シ被食候打取首五首余人足弱取事数ヲ不不知(『妙法寺記』)
 此ノ年モ信州へ御動キ候小岩タケト申要害ヲセメヲトシ被食候取ル首五百余人足弱取ル事ヲ不知候(『勝山記』)

く読み〉
この年も信州へお働き侯、小岩岳と申す要害を攻め落としめされ候、打ち取る首五百余人、、足弱取ること数を知れず候

<以上>

 戦いはあって虐殺はあった。この伝承がないからと言って、この事実はないとは言えないわけで、実際佐久地方には武田軍による虐殺はあり伝承されています。

 地元には戦死者の相当に古い慰霊碑が現存しています。

 忌まわしい過去ですが、飢餓になれば人々は戦い、虐殺もある。最後に笹本先生は歴史に学ぶ姿勢を話されていました。

 今の時代、歴史を知ることは未来に起こることを知ることにもなる。今を知ることが未来の時代を推測できる。だから歴史に何を学ぶか自ずからわかると思います。

 「裏返しの終末論」にも通じる話でしたが、未曽有の体験をした日本、何かを学ばなければいけないということです。

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