思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

三性の理における「無記」に思う

2019年07月05日 | 思考探究

「突然老後の貯えとして2000万円は必要だ」という話に衝撃を受ける。いつ死んでも一千万円という生命保険ならばあるが、妻の貯えにはなりえようが、とりあえず年金をもらいながら働けるまで働くという現実を生きるしかないようである。

 

せっかく官僚の方々が国民のためを思って善かれと思い試算して国民に示そうとしたようですが、大臣はそのような試算は受け取れないなどと発言し、世の中の確実なるものは今現在息ができる常態か、否か動けるか否かといった現事実にしか見いだせないのが事実である。

 そもそも正しい事態などと思うのは、そもそも正しくない事態がイメージできればこその話で、日々の身近な毎日においては、特に「正しくない」と呼べそうな事態は起きていないように思える。2000万円の話も今日食べる食事の機会を奪うものではなく、弁当持参で働く自分は個人的には困窮事態に今はない。

 わけのわからない大臣の話も遠いところの話である。ある意味平穏である。

 

このようなことを考えながらブログを書いていると今朝の通勤時に経験した「不まじめ」「正しくない」と呼べそうな事態を思い出す。国道19号線を松本市内に向かって直進する前方の信号機の信号待ちをしていると、前方の対向車線の右折車が突然青信号になるや否や、急速で右折をしていった。いわゆる「松本走(ば)しり」である。

 

「対向する車両の進行を妨げてはならない」という法規定は完全に無視され、どこまでも自己の都合で行動し、相手の迷惑などは顧みないように思える。「松本走しり」という行為はこれだけではないのですが身近にみられる「不まじめ」な例として挙げてみましたが、全国的に地域独特の「走り」があるようで、ある県では方向指示器を出さないのが慣習化されているようだ。

 

社会というか世間というか、自己の現前に現れる世の中を見つめてみるとそもそも動きの中に「自己」という心的内容を意識している。意識する自己が意識される自己を意識し、良い自己か、それとも悪い自己かと区別しながら一つの私を形作っている。

 別の事を考えながらも一つのまとまった自己を構成し、自分は自分であるという「自性」は失われることはない。

 最初に自己の点をおく現存在の意識の存在は何だろうか。まさに現存在の自己自身の存在に対しする関心である。さきほど「自性」と書きましたが、個人的に相依関係、依存関係で事の成立を考える時、「他性」を想定しないわけにはいかない。他性があってこその自性というものが現れると考えるのである。自己の自己自身の現われとしての意識であり、白黒が、明暗があるとする理解が区分けされる機構的な場に現れるのである。

 

この場合自性的な主体も他性的な主体も己を別にするものではなく、主体の自性、主体の他性が影のように寄り添う。

 

反省が現れるのは他性の主体であった己を見るのであって、分裂的、統合失調的な離人的な精神状態では自己が自己自身に先立つ自性は持つことはできない。常に自性と他性が独立して独立の自性として現れてしまうのである。このようなことを考える中で4月の終わりごろに書いた“「無記」という言葉の深層にあるもの”というブログに仏教における三性の理のことに触れましたが、Eテレの日曜日の早朝に放送されている“こころの時代~宗教・人生~”の6月末に東工大名誉教授…森政弘とインド哲学者・東京大学名誉教授…丸井浩との対談「ふたつをひとつに-ロボットと仏教-」が放送され、その中でこの「三性の理」が語られていました。

 

「客体には善悪の二面があるのではなく、主体である人間が善にも、悪にもする。本来世の中のすべての事象・事物は無記的なのである」という話で、先ほど私が書いた己における自性と他性の話に重なり、無記は己そのものの体性が中庸であって、善とも悪(不善)とも記すことのできないものであると語られる。

 

仏教の根本にある縁起思想から事象とは万物が織りなす現われ、即ち相寄りて在る現象であるとの理解が生じる。

 

人間存在として自己は、内的な自性と他性があい寄りて在る現象と考えられる。自己が自己自身に先立っているという構造において、それを「われありの自覚的自性(善)」と呼ぶならば、他性はその前転回に現象した自性(不善)ということになる。

 

精神病理学者の木村敏先生によれば、

 

この構造で、「先立っている」ほうの自己が他性をおびると、分裂病者の体験になると考えてよい。『分裂病の詩と真実』(河合文化教育研究所・p74)

 

とのこと、確かに言葉として他性は自己内の別人(他者)であることが理解できる。善と悪という言葉よりも善と不善という言葉のほうが実際の理解においては有効に思う。

 健定体ならば悪魔的な悪業をするはずもなく、人の日々の行動選択、指針は善かそれとも不善かの自性と他性の均衡でありまた止揚にも似た展開に見える。

 そこにあるのは「無記」という展開の場、根源的な絶対無の場に見える。そしてこのように考えると「無記」という考え方は、健全な人間の根源的な制御システムのキーワードと考えてよいように思う。

 

 選挙になると巷には善悪思考で物事を理解しようとする人や、善かそれとも不善かで物事を理解しようとする人がいるように思う。「三性の理」という仏教的な思想の「無記」には人間の在り方を理解させてくれるものがあるように思う。


私という現われ

2019年06月09日 | 思考探究

中国唐代の禅僧で臨済宗開祖の臨済義玄の言行を まとめた語録『臨済録』という書籍に「無位(むい)の真人(しんにん)」という言葉が出てきます。真の自分は呼吸する日常のあたり前のそこに現れているという禅の問答で語られている話です。「眼に働けば見るといい、耳に働けば聞くといい、鼻に働けば嗅ぎ、口に働けば話し、手に働けばつかみ、足に働けば歩いたり走ったりする」という一連の身体の諸機能の働きの作用の内に真の自分は現れているということのようです。

 私の日常が即ち自分自身の現れで、「そのようなことをいうのは馬鹿ではないか。」と言われても自分というものは恥ずかしながら現れてしまうものです。当の本人は決して恥ずかしい事態が現れているとは認識していないわけではなく第三者の反響を受け、事態をのみ込むことができ反省の念をもって自戒します。

これも禅の話になりますが、臨済宗の禅僧山田無文老師の著作集「しんじん文庫第八集」『不二の妙道』にある講演会記録の中に老師がドイツの哲学者オイケン・ヘリーゲルの著『弓と禅』の中の一説を話されたことが書いてありました。

 ヘリーゲルが日本で弓道を習った際に師範がヘリーゲルに「矢が弦をはなれるときに意識してはいけない。いま行くナという意識があってはいけない。」と彼を注意したその時師範にヘリーゲルが「私が弓を引くのに私が意識をしなかったら一体だれが弓を引くのですか?」と哲学者ですから理屈でそう言ったところ「それは、自分でないもう一人の自分が弓を引くので、そのもう一人の自分がわかれば、それが禅である。」と語った。

 この話を禅に重ねて老師は語っており、禅を否定する話としてではなく当然「そういうものだ」と会得し、掴むものだということです。

的に当てようと思ってはいけない。

的をねらってはいけない。

じっと的を見つめて、的が自分になるまで見つめて、的が自分になったときに矢を放てば的が当たるのだ。

 射撃とは的に当てるのが、その筋だと思われるのですが、師範は真逆と思われるような話をヘリーゲルに教えるわけです。しかし、ヘリーゲルは5年ほどするとようやくその境地を体得し、本国に帰国してから「自分は直接禅をやらなかったが、弓をやることによって禅がわかった。」と語ったとのことです。

このヘリーゲルの話を引用しながら、無文老師は「花を見れば花が自分になり、月を見れば月が自分になり、的を見れば的が自分になり、すべての森羅万象と自分の距離がなくなるのが禅です。」と、『不二の妙道』に書いています。

このような話は、「物となって考え物となって行う」という西田哲学に通じる話ですが、最初の「無位の真人」も思慮なく徹しっているところにあるわけで、「恥ずかしながら」の話もありのままに自分が語るわけで、真の自分が現れているということになります。そこには恥ずかしさを知るような自分はなく、どこまでも個人の言動を自分が成立させているわけです。

 パスカルは『パンセ』の358で次のように語っています。

「人間は、天使でもケダモノでもない。そして不幸なことには、天使のまねをしようとするとケダモノになってしまう。」

この言葉も非常に今の私に語りかける言葉で、「戦争をして奪還」などという第三者が聞けば悪魔的ささやきの言葉も、ご本人自身が、良い考えだという天使のささやきとして自覚する中で彼自身を現したということになります。

この『パンセ』の70には、

「自然は・・・・・・ない。自然はわれわれを丁度うまく真ん中においたので、われわれが秤(はかり)の一方を変えると、他方を変えることになる。ジュ・フゾン、ゾーア・トレケイ。このことからして私は、われわれの頭の中には、その一方に触ると、その反対の方にも触るように仕組まれていたバネがあるのではないかと思われる。」

この言葉も自分という現象を考える時には大いに参考になります。

 ある男優が「体制批判を考えざるを得ない」という発言をしたところ炎上し、それに対して、日本には「役者は体制批判をするものではない」という「空気」があるようだという話まで現れてきました。

 個人の言動が社会的な場の秤を乱すという批評にまでなるのですから、多くの人々に接する公人(おおやけびと)の秤は、場の空気感という秤とも密接に共鳴するように見えます。

「自分でないもう一人の自分が弓を引くので、そのもう一人の自分がわかれば、それが禅である。」

これは、天使のささやきを聴けという話ではなく、私という現象を体得(つかめ)という話に思うわけです。

 「もう一人の自分が分かれば」とはどういうことか。
 
 今まさに私は何を語り、何をしようとしているのか。
 社会に一般的な人として現れている自分ですが、他者とは同一ではなくどこまでも個性的な特殊な現れとしてある自分です。悪魔のささやきなのか天使のささやきなのか、おのずから見極める「無位の真人」になりたいものです。

一般的に「壊れる」前に、特殊という場にある私を見つめよう。

天使にも悪魔(ケダモノ)にも他人から見ればそう見える自分を見つめよう。

人はなぜ「壊れる」と殺人を行ったり、人の心を傷つけるのでしょう。

 ここまで書いてここで思考に終止符を打てばよいものを、『パンセ』70の「自然は・・・・・・ない。」という言葉が気にかかります。

 「おのずからしかり」という東洋的な自然(じねん)とは異なる気がします。左右の均衡という秤を思考して現象を考えますが、均衡は定点的な概念で、私の思う現象は点時間ではなく、持続の内にあるものです。青年の指パッチンという一刹那も点時間、点時刻ではありません。純粋経験も同様で定点的な概念で考察するものではないように思う。

壊れる前ならば、自覚と反省の場は現れるもので、「無位の真人」は呼吸しているまさに今に息する、生かされている自分に現れるように思います。


ところで あなたは・・・・・・?

2019年05月27日 | 思考探究

アンパンマンの作者やなせたかし(1919年2月6日 - 2013年10月13日)さんが25年間編集長をされていた「詩とメルヘン」の編集前記として毎月書いてきた言葉を一冊の絵本詩集にした小さな本があります。『ところで あなたは・・・・・・?』(三心堂出版社・1999.4.8)という副題でもある「心の絵本」です。

 題名は詩の最後に書かれている言葉で、やなせさんがあとがきで次のように書いています。

 この本は全部最後の言葉が「ところで あなたは・・・・・・?」という問いかけになっている。ぼくはこう思うがところであなたは・・・・・・? と質問している。だからこの本はぼくとこの本を読んだ人の答えで成り立つ。

とあります。やなせさん80歳の時のあとがき亡くなられてもう5年が過ぎているのですが永遠に会話し問い続ける。相手は当然この本を手に取って読んでみようとする心の人、知ってて読まない人、全く読む出会いがない人など、いろいろな人がいます。

 読もうとする人は、やなせさんと同一の次元に立ち、不可逆な一方向の会話ですが、確かに内なる私の心はやなせさんの語りを聞いています。文章を読むが反転して語りを聞くになり、そこに問いかけを聞き、そこに応えようとする私がいます。

 実際に対面して会話を交わし、そこで問われて応えるのとは全く異なります。しかし、何かすごく感動的に心が動かされます。

 「今日いちにち生きた」編の中のひとつです。

今日いちにち生きた

よろこびながら生きた

かなしみながら生きた

三つのうちでぼくはどれだったのだろう

それとも何もしなかった

何も感じなかったのだろうか

何もせずよろこびもせずかなしみもせずに

生きられるだろうか

それで生きているっていえるだろうか

明日も生きたい

明日も何かにめぐりあいたい

たとえ悲しみがやってきたとしても

決して眼をそらさない

きっちりとたしかめたい

ところで あなたは・・・・・・?

 この一詩に応えようとするとき、根源的時間は今で、今の刻みが明日へと続く、そこに私をどうおくか。あれやこれやのいろいろな自分が現れ精査され、どうにか一人に落ち着く、それが応じたということなのでしょうね。


人は何人も自己は良心を有(も)たないとはいわない

2019年05月22日 | 思考探究

「人は何人も自己は良心を有(も)たないとはいわない。もし然(しか)いう人あらば、それは実に自己自身を侮辱するものである。」この言葉は小坂国継著『西田哲学を読む』に書かれているもので、ある人の本を読んでいたらこの「自己自身」という言葉で次に進めなくなったと書かれていました。

 「自己自身」とはいったい何を言うのか。本来的自己の事だといったところで、その本来がわからない。 

以前ブログに書いた宮沢賢治の未完の物語『学者アラムハラドの見た着物』に書かれた少年の言葉「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」を思い出します。

 今朝の朝刊を読めば「中1男女殺害死刑確定」と見出しが目に入ります。49歳の被告裁判所は責任性の段階で「責任能力あり」と判断したわけで、責任能力と良心は次元が異なるのかと考えてしまいます。

 こういう人は心が壊れた人言うしかありませんし、壊れると何故に残忍なことを行うように人は創られているのかと思ってしまいます。

 精神科医の木村敏先生の著書を読んでいると、個人的な思考課題の「自己の二重性」ということに関係して大変参考になる話が多くあります。私の視点でものを言うのですが、人は何故に否定的思考を表象したりするのかという疑問です。以前話題になっていた共同体の正義論にも重なる話です。私が今否定的思考といった時点で私は肯定的な側の場にいるのですが、善悪で峻別するならば、否定は悪で、肯定は善ということになります。

 私がそのような肯定否定や善悪を語る時には、それを認識するために否定・悪側を認識する必要があり、心理学的な話になりますが私の内心に相手の悪が浮かび上がり「~である」と認証する私そのものがいなければなりません。

 白黒ならば、黒がなければ白は特定されないように、私は凡て内なる相依の私によって物思う状態が現れているのだと考えます。

 このような相依の私は、必ず一方が自覚的意識にある場合には相対する側は判断停止(エポケー)の関係にあり、同時に同じ場に相反する自己が現れることはありません。

 この「自然な態度の(自然な態度に属する)エポケー」こそ、私たちが生きる日常生活の巨大な自明性を保証して、これを「健全」に保つ「生活の知恵」ほかならないだろう。(木村敏著『関係としての自己』・みすず書房・p26)

 この言葉ですが木村敏先生は統合失調症を解説する際の自己の二重性で語った言葉です。が、私の論にも当てはまるように思います。

 健全、健康であるということは自然が日常生活の巨大な自明性を保証してくれているということ、そこに阻害する何者かの働きで変容し、不全な私を作り出すと言えるのではないかと思います。

 そもそも認識できる素養がなければ、認識できず、数学の方程式を知らなければ解が現れないのと同じです。言葉の認識も、色の識別も何事も相依を生み出す場がなければなりません。脳生理学から言えばこれが脳全体のネットワーク「大域的アトラクター」(ウォルター・フリーマン、アメリカ精神科医の言葉)が行われる脳神経の場なのだと思う。

 相依を生み出す素養、違いが判ることの基は知識ということになります。それは歴史的身体として、他者から刷り込まれる場合もあり、自らの素養として磨かれた知識もあると思います。

 

時に意に沿わぬ出来事を見聞きしたり、体験することがあります。意に沿わないという感情が内心に現れ、そのことについて発言したり対抗行動にでる場合があります。

 

「意に沿わぬ」とは類語辞典を見ると「心情的に従えない様子」「自分の意志や意図とは異なるさま」「物事の結果や出来などに不満があるさま」を言い、

 

納得いかない ・ 不服 ・ 不承 ・ 不承知 ・ 気に入らない ・ 気に食わない ・ 納得できない ・ 異論がある ・ 面白くない ・ 意に染まない ・ 気に入らん ・ つまらない ・ つまらん・意に反する・ 満足できない ・ 納得できない ・ 納得のいかない ・ 満足のいかない ・ 不出来な ・ 不十分な ・ 意に反する ・ 意に反した ・ 十分でない ・ 出来がよくない ・ 出来が良くない ・ 出来が悪い ・ 疎そかな ・ 万全とは言い難い ・ 万全とは言えない ・ 不完全な ・ 思っていたのと違う ・ 出来の悪い ・ 期待外れの ・ 意に満たない ・ 納得のいくものではない」

と、様々な表現があります。普通ならば意識しない平穏な日常に意に沿わぬ出来事が現れる、これは市井に生きる一般者にとっては特殊な事ではありません。

 国会議員の異常言動が報道されました。北方領土のビザなし交流において元島民に向かって「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」と語り問い詰めたという。

現実を見るとかけ離れた未来の不可能性な理想の追求をまず現時点で挙げます。遠い未来と現実の間には当然あるべき中間過程があるはず、だから友好なのであって、「戦争で北方領土奪還」が現実を注視しない不可能性を今に引き出す発想です。

 この人も当然「良心ある人」と、その後の言動を見ると抱いているようです。ですから正当化理由を語るわけです。

 本来的自己を思う時、相依する非本来的自己がエポケーであるのだろうか。

 良心的発言をする時には、相依する非良心はエポケーしているのだろうか。

こういう私も当然良心があると思うわけでその時、同時ではありませんが非良心を思考転回して想像し描くことができます。


「意識現象は唯一の実在である」と心理主義に思う

2019年05月15日 | 思考探究

西田幾多郎著『善の研究』の第二章の見出しは「意識現象は唯一の実在である」となっています。たしかに唯一と言われてしまえば自他の意識の関係を云々できないのは道理で、個人的にも自己内における二重性の自己を語ろうとするものが西田哲学を引用するのは不可解な話になってしまいますが、学べば学ぶほどその思想の深さに感動します。

 『善の研究』は西田哲学の初期のものであり、この著が版を重ねるにあたり西田先生がその後の思想展開に関係した話を序文に書かれておられそれを見逃すわけにはいきません。

 岩波文庫の『善の研究』(藤田正勝編)を使用しますが、この『善の研究』の最終序文の「版を新たにするに当って」全文は、次のとおりです。


版を新にするに当って

 この書刷行を重ねること多く、文字も往々鮮明を欠くものがあるようになったので、今度書肆(しょじ)において版を新にすることになった。この書は私が多少とも自分の考をまとめて世に出した最初の著述であり、若かりし日の考に過ぎない。私はこの際この書に色々の点において加筆したいのであるが、思想はその時々に生きたものであり、幾十年を隔てた後からは筆の加えようもない。この事はこの書としてこの儘(まま)として置くの外はない。

  今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。然(しか)非難せられても致方(いたしかた)はない。しかしこの事を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は「自覚における直観と反省」に至って、フィヒテの事行(じこう)の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に「働くものから見るものへ」の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。

 「場所」の考は「弁証法的一般者」として具体化せられ、「弁証法的一般者」の立場は「行為的直観」の立場として直接化せられた。この事において直接経験の世界とか純粋経験の世界とかいったものは、今は歴史的実在の世界と考えるようになった。行為的直観の世界、ポイエシスの世界こそ真に純粋経験の世界であるのである。
                                        
 フェヒネルは或朝ライプチヒのローゼンタールの腰掛に休らいながら、日麗(うららか)に花薫り鳥歌い蝶舞う春の牧場を眺め、色もなく青もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽(ふけ)ったと自らいっている。私は何の影響によったかは知らないが、早くから実在は現実そのままのものでなければならない、いわゆる物質の世界という如きものはこれから考えられたものに過ぎないという考を有っていた。

まだ高等学校の学生であった頃、金沢の街を歩きながら、夢みる如くかかる考に耽ったことが今も思い出される。その頃の考がこの書の基ともなったかと思う。私がこの書を物せし頃、この事がかくまでに長く多くの人に読まれ、私がかくまでに生き長らえて、この事の重版を見ようとは思いもよらないことであった。この書に対して、命なりけり小夜の中山の感なきを得ない。
  昭和十一年十月                  著 者


全文を引用する必要はないのですが、最初に書いたように、最終序文には西田先生の『善の研究』に対するその後の思想展開を示唆する言葉が含まれていることから、今後の引用する場合を考えて全文としました。

 この序文の最初の方に「今日から見れば、この書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考えられるであろう。」とあります。この言葉について藤田正勝先生は著『西田幾多郎』(岩波新書・p84-p85)に解説されていますが、「西田が新カント学派の哲学者たちから迫られた反省が関わっている。」と書いています。

「心理主義」とは、藤田著に書いてありますが、「経験的なもの、具体的な時間のなかで経験されるものに基づいて真理や性質やその基準を明らかにしようとする立場を指す。」という意味のようです。意識などというものは形として、物としてあるのかというと哲学者の永井均著『改訂版 なぜ意識は実在しないのか』で述べられるまでもなく働きであり、現われであり、総じて現象であると実体験している感覚の内にあります。

 植物人間状態なのか、意識レベルが低い段階なのか、意識があっても生きた屍なのか、と意識という言葉を使い人間のある状態を語ることができ、意味共有できたからと言ってリアルな実在としての様相はあるとは到底言えず、「意識現象は唯一の実在である」と語るには、その後の展開からすると詳細に欠けたもののように素人目にもわかります。

 認識するとは何か、経験的、時間的に解明できるもなのか。

 「経験的な事実、あるいは意識現象といったものから、ある認識が真理であるかどうかを決することはできない、真理は個人の意識内容を超えた一般性をもつものでなければならない。」という心理主義批判に対し西田先生は、「しかしこの事を書いた時代においても、私の考の奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思う。純粋経験の立場は『自覚における直観と反省』に至って、フィヒテの事行(じこう)の立場を介して絶対意志の立場に進み、更に『働くものから見るものへ』の後半において、ギリシャ哲学を介し、一転して『場所』の考に至った。そこに私は私の考を論理化する端緒を得たと思う。」と序文に書いておられるわけです。

 『善の研究』は、一つの契機であって西田哲学をそこで止めるわけにはいきませんし、個人的に『善の研究』は機縁であって、思考の機会を与えてくれるものです。

 「判断の立場から意識を定義するならば、どこまでも述語となって主語とはならないものということができる。・・・・・・判断は主語と述語との関係から成る、いやしくも判断的知識として成立する以上、その背後の広がれる述語面がなければならぬ、どこまでも主語は述語においてなければならぬ。・・・・・・」(『西田幾多郎哲学論集Ⅰ・上田閑照編・岩波文庫p140』

 という『善の研究』後のこの言葉は、あれやこれやと物思う個人の「あれ」「これ」の述語に、一点にはとどまらない、ある意味、炎のようにゆらぎ続ける私という現象を見るわけです。

人間の「考える」という機能が何故に備わったのか。他の動物や「考える」に類似するような行動が見られる微生物も含め自己の環境の場における適応性の工夫選択にのためにあるように見えます。

 何をどうしたいのか。人間は特にその機能が多岐にわたり働きます。V・E・フランクルは、 「ニヒリズムの本質は、通常考えられているように存在を否定するところにはない。」と語り、ニヒリズムというものの三つの変種を次のように掲げています。

・身体的現実への還元がなされるなら、ニヒリズムは生理学主義の形で現われる。

・心理的現実への還元がなされる場合は心理主義の装いで現われる。

・社会学的への還元がなされる場合は社会学主義の装いで現われる。

 実存としてある時、身体的健康性、精神的健康性さらに社会の機構的な健全性を訴える声が聞こえます。

 存在における肯定的境遇、否定的境遇の感情思考は、模擬的にその境遇に身を置く主体の思考の現われで健全性に均衡したいと欲します。生理学主義であろうが心理主義であろうが、社会学主義であろうが健全性にある実存への求め誤りはないように思えます。

 「わからん」にある内が活力ある生命力のように思えます。西田哲学には常に情熱を感じ、自己の工夫を発見したい気概を感じさせてくれます。


心はいかに創られるのか

2019年05月06日 | 思考探究

使徒信条というものがあります。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、

 

 使徒信条(しとしんじょう、ラテン語: Symbolum Apostolicum, 英語: Apostles' Creed)は、キリスト教のうち、西方教会(カトリック教会、聖公会、プロテスタント)における基本信条のひとつ。使徒信経(しとしんきょう)とも。ラテン語原文の冒頭の語をとってクレド(Credo)とも呼ばれる。

 東方教会(正教会、東方諸教会)は、使徒信条に告白されている内容は否定しないものの、使用はしてはいない。

 

と解説されています。大方の聖書信仰にある人々の信仰の基本ともいえるものでその最初にくる言葉は、

 

「我々は全能の父、天地創造なる神を信ず」

 

という言葉、各派の日本語訳は様々あるようですが内容的にはこのようなもののようです。

 

 「天地創造」

 

この言葉の意味するところはこの世に存在する全ては神によるものということで、人間も当然作られたものであることが旧約聖書に書かれています。

 

 内田樹先生の書かれた『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)を読んでいたところ同書第三章愛の現象学Ⅲ「引き裂かれた人間」にラヴ・ナフマンという人の次の言葉が引用されていました。

 

 「人間の創造はまったく特別のものである。というのも主は一人の人間を造りながら、一つの被造物を造られたからである。それは二つで一つのものである。(・・・)では、人間とは何か? それは一個の存在者であるためには一人でありつつ二であるということである。実在のただ中にあって分断され、引き裂かれてあること。より端的に言えば、意識をもつこと、自由であること。」(同書p297)

 

 この言葉から男女の愛の現象学が始まるのですが、個人的に興味をもつのがこの一文。自己の二重性という課題を考えているとだ男女の別以前に一人でありながら二人の言及にひかれます。

 

 イメージ的な話なのですが分裂以前に二の意識の実在があり、聖書のアダムとイブの罪なる行いとされる禁断の木の実の話を重ねたくなります。

 

 創造物なる一の存在において「罪なる意識」などはあろうはずはなく、この非対称なる事実が創造されたということ自体に内なる二重性の創造を考えることができ、ラヴ・ナフマンの論を理解させてくれます。

 

 魚類の対は雌の集団内に雄が突然出現することで有名ですが、自然界というものは一の現象が常に二重性を帯びているように思うのです。非対称がなければ対象物は存在や現象する意味が解せない。

 

 これも最近になって読んだ本なのですが、哲学者の岡田勝明先生が2017年4月に出版された『悲哀の底 西田哲学と共に歩む哲学』(晃洋書房・第五章「一人」に生きる)に、

 

「すべての働きや存在相を、純粋経験の事実という一性に基づけ、またそこから光という方向は、同時にその逆方向への展開という次元の異なる場面(反省の反省)をくぐらなければ、「即」の具体相はそれ自身として明確であっても、知的あるいは自覚には不透明で、、「私」に起こる出来事としては、先の例でいえば青空や一輪の花に隠れて、自己は自己をもたないまま(脱臼したまま)に留まってしまう。」(p179)

 

「知る」ということがなぜ成り立つのか、しかも根本的には非対称的なものを知るということを根拠にしてそこから成立する知を明らかにすることが、近世哲学としての西田哲学の課題であった。」(p189)

 

「もっとも身近であるはずの「自己」は、それ自身として身近であるゆえに、対象化して知り得るものではない。対象化されれば、それはすでに「自己」ではなくなっている。非対称的なものは、対象化して知る論理には届かない。だから非対象的なものを知る知を、西田は「自覚」に求めたのである。非対象的なものを知るには、自己が自己を知る、という仕方でしか可能ではない。(p190)

 

という記述がありました。私自身の今現在の興味とするところと関係する部分だけを抜き出し引用しましたが、逆方向でもあり非対称的でもあるものが内在すること自体が現象という実存を意味なすのではないかと思うのです。

 

 創造主を信じる思想からはこの考えは現れようはなく、疑う余地はなく、ナフマンの話は面白く、日本哲学としての西田哲学は離れられないところがあります。

 

 自己満足の内に自己の考えを組み立てているだけに違いないかもしれませんが、自分としては、このように書きとどめて置くことにしたいわけです。

 

 学問の世界というものは面白く、自己の二重性を気にしていると、またまた急に、ドイツの社会学者ニクルス・ルーマン著『自己言及性について』(土方透、大澤善信・ちくま学芸文庫)が目にとまるのです。その第5章「個人の個性」に次の文章があります。

 

 オートポイエティックな自己言及システムの理論だけが、主体とその倦怠のこの潜在的統一---自己に絶望する主体の理論、自己放棄(セルフ・デスペレーション)を通して成就されるダイナミズムの理論---を定式化でき、また受容可能な言い回しで定式化できるものと思われる。この瞬間には、しかしながら、われわれはこの方向ではほんのわずかな端緒も見いだしえない。われわれは踏みならされた道を歩むことはできない。しかし、われわれは、理性、意志、そして感情のあいだの由緒ある区別を用いることはもはや不可能であると予見することができる。それはオートポイエーシスと構造の区別によっておき換えられねばならない。意識、意味、言語、そしてとりわけ「内語(internal speech)に関する知識総体は再定式化されねばならないであろう。二重の自己はもちろん多元的な自己など存在せず、客我「me」から明確に区別された主我「I」など存在せず、社会的アイデンティティから歴然と区別されたパーソナル・アイデンティティなども存在しない。これらの諸概念は、19世紀末の創案によるものであって、意識の初事実に十分な基礎をおいたものではない。われわれはけっしてそのような仕方で生き、みずからを経験しているのではない。さらに、これらの二元的ないし多元的パラダイムはそれ自体、複合的社会の諸事実へのゼマンイティク的反応なのである。われわれは分解した自己を再統合しようとするすべての試みを無益なものとして隅に押しやることができる。いやしくも意識が作動するものであるならば、それは一個の不可分なシステムとして作動するのであり、みずからの統一と自らの意識的出来事とを用いて、みずからの統一とその意識的出来事とを再生産するのである。(同書p109-p110)

 

 相変わらずの長い引用ですが、この中の「二重の自己はもちろん多元的な自己など存在せず、客我「me」から明確に区別された主我「I」など存在せず」は明らかにW・ジェームズへの批判でもあり、我が問いの無意味性を語っているように見えるわけです。

 

 オートポイエーシスについては自己の言及性について語る学であることは過去ブログにも書いたことがありますが、「創造」なる次元とは全く異なる視点の展開であることが分かります。

 くり返しになるのですが、このように人さまの弁を引用し、要するに自己の「心のありさま」を語ろうとしているわけです。すると補うように、過去に言及した脳科学が浮かんでくるのです。

 ウォルター・J・フリーマン著『脳はいかに心を創るのか~神経回路網のカオスが生み出す志向性・意味・自由意志』(産業図書)から語り出される脳科学者の浅野孝雄先生の『心の発見~古代インド仏教と現代脳科学における』(産業図書)の話、これはEテレ(2017年2月5日)で「心はいかにしてうまれるのか=脳外科と仏教の共鳴」で放送されました。

 これについても過去ブログに書いたことですが「心を創るのか」と創造主の「創る」という漢字が訳で使われるところがその思想の根底が見えてきます。


無垢の予兆

2019年04月29日 | 思考探究

過去のブログにも紹介した話ですが、「博士の愛した数式」という邦画の最後に詩人ウィリアム・ブレイクの次に詩が流れました。

 一つぶの砂に、一つの世界を見

 一輪の野の花に一つの天国を見

 てのひらに無限を乗せ

 一時(ひととき)のうちに永遠を感じる 

 

とてもいい詩だなぁと思い検索すると

 

 To see a World in a Grain of Sand

 And a Heaven in a Wild Flower,

 Hold Infinity in the palm of your hand

 And Eternity in an hour.

 

の訳で、色々な方がこの詩を訳していました。KIKIさんという方は、

 一粒の砂の中に世界をみる

 一本の野の花の中に天国をみる

 つかみなさい 君の手のひらに無限を

 ひとときの中に永遠を・・・

さほど難しくない英語ですから自分自身の訳ができそうです。この詩について、最近ブックマークしているブログにこの詩が取り上げられていました。ウィリアム・ブレイクの「無垢の予兆」(Auguries of Innocence)という一三二行の長い詩の最初の四行だということで、またその訳は監督の小泉堯史さんの訳のようです。

 改めてこの詩を読むとまさに「Too see」から始まる詩で「I]もなければ「m」もありません。

 

 わたしは、「一つぶの砂に 一つの世界を見る」ではなく、述語で包まれる主人公は表されていません。考えてみれば各文章に主語を入れたのでは、感じられる広大な世界観が半減してしまいます。

 私たち、我々

でも意味は通ります。一個人から無限大までの拡大の目で感じるならば、

世界、天国、無限、永遠

という言葉のリズムが心に響きます。

 世界がないという人もいますがあえて世界という言葉で表現しますが、世界に接するとは五感の作用によって何かを認識することから始まります。ジェイムズや西田哲学の言葉を借りれば純粋経験が事の始まりです。

 見ること聞くこと、味わうことなどが述語で現れてきます。主語である私は述語に包まれてある、ということになります。まぁそれはそれとして、「みる」という日本語は、過去にも書いたことですが、「観る」「診る「視る」「看る」などの漢字で転換され、それぞれの意味合いを表現します。

 しかし、「みる」と発音すれば、言う側と聞く側の相手には意思疎通の「いみ」が共通感覚で現れます。別の言葉ですが、「きく」という言葉があります。これも「聴く」「聞く」「効く」「利く」などと様々な漢字が合理的にその意味を解せるように存在しています。しかし、この「きく」ですが貴族社会からの発生で、庶民感覚には合わないと快く思わない人るとは思いますが、「香道(こうどう)」という香を焚いて匂いの識別を競い合う「道」(遊びとも言えないし趣味の世界とも言えませし、華道に似たものと解せば道でしょうか。)があります。

 ここで重要なのか香道で使われる「きく」という言葉。香りの「きき比べ」で香の匂いを嗅ぐ行為を香道では「きく」と表現しています。漢字はどういう漢字を使うのかと疑問に思いネットで調べると、Q&Qに次の回答がベストアンサーで出ていました。ご質問1:

ご質問1:

 <「きく」はどんな感じをかくのでしょう?>

 1.漢字は「利く」になります。

 2.「香」に薬用効果が大きい場合は、漢字は「効く」になることもあります。

 3.また、「香りあわせ」「香道」などの嗜みでは、「聞く」になります。これは、漢語の、「聞香」(香りを聞き分ける遊び)からきています。

 

ご質問2:

 <香道では、どうして「きく」というのでしょうか?>

 1.「利く」「効く」の場合:

 (1)「香」がプラスの効果をもたらすからです。

 (2)「香」は「臭」に対する語で、「よいかおり」を表す漢字です。

 (3)よいかおりが、リラックス、栄養といった、心身にプラスの効果をもたらすため、「効果がある」→「効く」=「利く」という使われ方をします。

 2.「聞く」の場合:

 (1)直訳的には「香りに耳を傾ける」ということです。

 (2)意訳的には「香りを識別する」になります。

 (3)つまり、「聞き分ける」という聴覚の感覚器官から、「匂う」という嗅覚の感覚器官に転用して用いられたものです。

 (4)これは、耳と鼻の感覚器官がつながっているため、「聞く」という漢字があてられたものと思われます。

ネット時代は便利なもので他人の知識を頼りに自身の疑念をある程度解消することができます。「きく」という二音の音声に各種感覚器官は連動していることが分かります。

 この「きく」については、個人的に過去ブログで、

きく(聞く・聴く)文化(1)・高木美保の香り学[2010年10月20日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/baedb9e7f20454505d1439bad85050a1

きく文化(2)・色即是空、空即是色[2010年10月21日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/f346c6f701c9ec12547126218c0e09f4

きく文化(3)・法華経・耳根最も利なり[2010年10月23日]
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/650951eb09ee6952c4fb23bb0c99eb46

をアップしています。

 聞こえる言葉の音声にどのような感覚が芽生えるのか、英語の「see」を「見る」で解したときにどのような感覚が芽生えるのか、私は「みる」という行為の内照的な感覚の広がりを感じます。「耳をすませば聞こえてくる」とも相似の世界です。

 単細胞生物が多元的に進化し、環境に生き有りて在る場合に、五感の進化は総じて環境との対峙関係にあるとするならば単細胞は全体の1で対応し、人間は5で対応しているようなもの。しかもその5は大脳の中に描かれた(空間に現れた)もので個物的にそこに有るわけではありません。単細胞生物ならば「即」の働きで「即」の事態にふさわしい維持性が確保されますが。人間は条件反射的な危険性回避は「即」に近いが、精神的動物である哀しみ喜びのありて在るもの。描き出される(空間に現れる)多から環境における我の喜び哀しみの是非(どちらか)1に落ち着かなければならないありて在るもの。

 自覚的意識は、収斂の逆方向に展開されている多様から描き現れる動的な働きの展開で、常に揺らぎ流れます。自覚的意識の流れをとどめたいものと思うのですがそれは不可能なもの。それは生命体であることに由来するからです。


内心のスケルトン問題

2019年04月09日 | 思考探究

 最近の考察課題はある意味、私の二重性ということに関して進んでいます。二重性と言っても一般的な自己と他者との関係、自己自身が他者をどう内に取り込むかという視点での考察ではありません。人の意識活動を能動、受動という視点から見ると、人は自ら能動的に社会に働き掛け、反対に社会から影響を受ける受動的な側面があります。人間は能動と受動により構築された存在とも言えます。

 私の考える二重性とは、能動・受動の一極化した自己ではなく、多極化した自己が共存する一身体である自己の二重性を考えています。

 普通意識ではそれぞれの自己は他の自己意識と乖離しているわけではなく常に統合的な統一意識を織りなし自己意識を持ち常に対自的存在として自らの自然的意志を実現しようとする在り方で存在しています。

 毎回同じようだ主題で思考の世界をさまよっていますが、今回は考察視点を変えて、人間存在そのものについて書きたいと思います。

 スケルトンいう言葉があります。中が丸見えの電化製品、構成する部品は見えますがボディーが透明なものを表現するときに使います。ちなみにサイトで、デジタル大辞泉を見ると、 スケルトン【skeleton】の意味 1 骸骨 (がいこつ) 。 2 建物や船などの骨組み。駆体 (くたい) 。「スケルトン賃貸住宅」 3 内部の構造が透けて見えること。「スケルトンタイプの腕時計」 4 ガスストーブの放熱用の燃焼筒。 5 鉄製のそりの一種。簡単な構造でハンドルやブレーキはなく、重心の移動によって操作する。また、これにうつぶせに乗って氷のコースを滑り降り、所要時間を競う競技。

などと解説されています。先ほど透明という言葉を使ったときに思い出したのですが、SF物語に登場する透明人間という言葉があります。これも同じ辞書で見ると、 とうめい‐にんげん【透明人間】の意味 《英国の作家ウエルズの小説から》姿形が目に見えない空想上の人間のこと。 と解説されています。やはり小説に登場したことから使われるようになったようです。作家ウェルズはすごい発想力ですね。「目に見えない人間がいたら」とこれまでだれも考えなかったのでしょうか。常識的に考えても霊的存在などは古(いにしえ)の時代からあるように思えるので、普通の人間が透けてしまい透明になった状態だから「透明人間」という言葉にしただけです。しかし、小説で表現したところに画期性が見られます。

 なぜ透明な話をし始めたかというと、最近、『自白の研究』で有名な浜田寿美男先生の本を読んでいたところ「心がスケルトン」だったらという発想が出てきたからです。こう書くと冷血人間の話を書くのだろうと思われるかもしれませんがそうではありません。

 仲間由紀恵(役名山田奈緒子)さんが、女性天才マジシャンで演じられた「トリック」という映画がありました。その中で山田が語る有名なセリフ「お前たちのしたことは、するっとまるっとお見通しだっ!」があります。

 「お前の悪事は、私にはわかっている」と啖呵を切るわけです。

 たくらみ(企み)、すなわち類語を書くと「策略・ 計略・ 作戦・ 謀略・ 陰謀」の胸の内のはかりごとは、100%わかっている、ということです。ここでスケルトンという言葉を「そのままわかる」という意味で使いたいと思います。  心の内がスケルトン、身体が透けて見えるわけではなく相手の内心が丸わかりということになります。相手の内心が言葉に変換されてこちら側に伝わるということではなく、思考から動作に至るまで手に取るように分かるという話です。

 ここで超能力の話をしようということではなく、なぜ人は他人の心が読めないのか。なぜ身体はあるのがわかるのに、心の内は読めないのか。という話です。当たり前すぎてばかばかしい話ですが、そもそも人間は他者の心を丸見え状態で知ることはできません。

 そこで思いついたのですが、もし相手の行動から考えなどがすべてわかったとしたらどうでしょう。隠し事はできませんし、赤裸々な思いも持てません。すべてがお見通し状態になるとそもそも人間関係はどうなるのでしょう。生まれながら心のスケルトン状態とでも言いましょうか。それが当たり前の存在として多様な人間存在がありえるのでしょうか。

 SFに登場する超能力者は限定的な能力で、今考えていること、今企んでいること、これからの動きなど、100%の全存在のスケルトンではないのです。  考えてみると人間以外の動物もそうですが、近寄ると吠え、噛みつくイヌなのかわかりません。人間のみに限定しますが、なぜ人間は交流しないと相手の思いなどがこちらに伝わらないのでしょう。そもそもそういう存在としてある、としかいえないわけですが、「わかろうとしないではいられない」という存在はなぜ存在するのか。

 人間存在の逆的思考とでも言いましょうか。内心のスケルトン問題とでも言いましょうか。

 今私はこのようなことを考えているのですが、何をわかろうとしているのでしょう。


人間の性(さが)と統合的私について

2019年04月07日 | 思考探究

  「私というもの」という言葉を文章に織り込む場合は、自己紹介的な文面を内容としたものになりそうです。そこには人柄、性格など、私が他者との比較の中で想像し、知覚されたものを書きこむことになります。これは表現を変えれば「私のこと」を書いたわけで、そのことによって他者に私というものを知ってもらうことになります。

 

 あるサイトを見ていたら人柄がいい人の特徴を表す言葉が10ほど書かれていました。

悪口を言わない。噂話に惑わされない。公共のルールを守る。相手を思いやった行動ができる。前向きな行動力がある。周りから尊敬されている。人当たりが物腰柔らか。責任感が強い。純粋で誠実。おおらかで楽観的。

 

なるほどと納得できそうな人柄の内容表現です。それならば次に性格についてはどうでしょう。考えるよりもサイトを参考にします。すると、

 

長所として

 明るい性格を想像できる「朗らか」。爽やかな「さっぱりしている」。積極的な印象の「社交的」。信頼感を持たれる「責任感がある」。温かみのある人・ホッとする人柄の「誠実」。

短所として、
 悲観的。頑固・自我が強い。大雑把。大雑把。短気。

と長所・短所に分けられていて、短所の性格は嫌な人間の見本のようです。

 このように私は自分の人柄、性格を書くにあたり、自分を見つめることになります。しかし、自分だけを見つめたところで、「純粋で誠実」な人柄はわかるものではなく、第三者である他者との対比がなければ現れてきません。

 

誠実なのか誠実でないのか。自己の持つ誠実でない人という意味の範疇がなければ判断ができず、誠実ではない人というレッテルは貼れないのです。

 

今回の課題は、「私の人柄」です。知識としての各人柄の区分の範疇の「当てはめ」、経験なくして知識は生まれず、多くの他者を自分に取り込み人柄像を作り上げてきました。自分を見る自分が立ち現れてそういう人柄、そうでない人柄かを分析していきます。そして統合的意識が自己意識として歯がゆさはあっても「純粋で誠実な私」という評価を出すわけです。

 こう考えると私以外の他者の存在がなければ、私の存在は成らず、また私の中に各種の人柄でそれに該当した「である」という述語の主体である別枠の私がいるわけです。

私をAとし、この場合の別自己をBとするならば、等式で書くとA=非A=Bのように思われてしまいますが

A(主体)に対しての述語であらわされるA人柄像の私
B(主体)が述語であらわされるB人柄像の私

統合的私は、A人柄像は、相依関係にあるB人柄像との比較衡量よって構成されたものであると考えます。

統合的私という自己意識=A人柄像>B人柄像orA人柄像<B人柄像

統合的私は、どちらで現れるのか。ここが人間存在の重要なところで、個人的な課題を敵記されます。

 最近の思考はこればかりですが、哲学、精神医学等を見ても他者との関係性を語る場合、自己は受け取り側として統合的な自己意識のまなざしのみで展開されているように思われます。

 「自己を見つめる」という反省的思惟に立つ場合に、述語の主体である主語的な別自己を明確に描く必要があると思うのです。言動で失敗するする人は、この別自己を常に欠落させているのではないでしょうか。麻薬に溺れる事態ということよりも麻薬に溺れている自分自身がそこに登場し、隠し切れない、どうしようもない自己がそこに表せなければ自体からの脱却は難しくなり薬物の依存が強化されるように考えます。

 よく第三者の目で自己を見つめると言いますが、第三者の目である別自己をしっかりと思考内に映し出すということです。

 このようなことを頭の片隅においていると、過去ブログで紹介した宮沢賢治の未完の物語『学者アラムハラドの見た着物』という作品を思い出します。手元にない方はサイトの「青空文庫」で簡単に読むことができます。

 

その物語は、アラムハラドという学者が教育者として11人の子供らを教えています。ある日勉強疲れの子どもたちを連れて森へ出かけ、いろいろなことを教える話です。

 アラムハラドは、子供たちに色々なことを教えます。

 「火が燃もえるときは焔(ほのお)をつくる。焔というものはよく見ていると奇体(きたい)なものだ。それはいつでも動いている。動いているがやっぱり形もきまっている。その色はずいぶんさまざまだ。普通の焚火の焔ならだいだい色をしている。けれども木によりまたその場所によっては変に赤いこともあれば大へん黄いろなこともある。硫黄を燃せばちょっと眼のくるっとするような紫色の焔をあげる。それから銅を灼(やく)ときは孔雀石のような明るい青い火をつくる。こんなに色々さまざまだがそれはみんなある同じ性質をもっている。・・・・それからまたみんなは水をよく知っている。水もやっぱり火のようにちゃんときまった性質がある。それは物をつめたくする。どんなものでも水にあってはつめたくなる。からだをあつい湯でふいても却ってあとではすずしくなる。夏に銅の壺に水を入れ壺の外側を水でぬらしたきれで固くつつんでおくならばきっとそれは冷えるのだ。なんべんもきれをとりかえるとしまいにはまるで氷のようにさえなる。このように水は物をつめたくする。また水はものをしめらすのだ。それから水はいつでも低い所へ下ろうとする。・・・このように水のつめたいこと、しめすこと下に行こうとすることは水の性質なのだ。どうしてそうかと云いうならばそれはそう云う性質のものを水と呼ぶのだから仕方しかたない。」

 こんな話を次々とし、そして、

 「それからまたみんなは小鳥を知っている。ウグイスやミソサザイ、ヒワやまたカケスなどからだが小さく大へん軽かるい。その飛ときはほんとうによく飛ぶ。枝から枝へうつるときはその羽をひらいたのさえわからないくらい早く、青ぞらを向むこうへ飛んで行くときは一つのふるえる点のようだ。それほどこれらのウグイスやヒワなどは身軽でよく飛ぶ。また一生けん命に啼なく。ウグイスならば春にはっきり鳴く。ミソサザイならばからだをうごかすたびにもうきっと鳴いているのだ。」

 そして、

 「さてこう云うふうに火はあつく、乾かし、照し騰(の)ぼる、水はつめたく、しめらせ、下る、鳥は飛び、また鳴く。魚について獣についておまえたちはもうみんなその性質を考えることができる。けれども一体どうだろう、小鳥が啼かないでいられず魚が泳およがないでいられないように人はどういうことがしないでいられないだろう。人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。考えてごらん。」

と子どもたちに「人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。」と質問をします。

 そして子供たちの答えを聞いて、アラムハラドは次のように言います。

 「そうだ。私がそう言おうと思っていた。すべて人は善こと、正しいことをこのむ。善と正義とのためならば命を棄る人も多い。おまえたちはいままでにそう云う人たちの話を沢山たくさん聞いてきた。決してこれを忘わすれてはいけない。人の正義を愛することは丁度鳥の歌わないではいられないと同じだ。」

と、するとセララバアドという小さな子が何かを言いたそうなので、アラムハラドは「お前は何か言いたいように見える。云いってごらん。」とこの小さな子供の言うことに耳を傾けます。するとセララバアドは、

「人は本当のいいことが何だかを考えないでいられないと思います。」

と答えます。賢治は次のようにアラムハラドのこころの内を描きます。

 「アラムハラドはちょっと眼をつぶりました。眼をつぶった暗闇の中ではそこら中ぼうっと燐の火のように青く見え、ずうっと遠くが大変青くて明るくてそこに黄金の葉をもった立派な樹がぞろっとならんで燦燦と梢こずえを鳴らしているように思ったのです。アラムハラドは眼をひらきました。」

 そしてジッとアラムハラドを見上げる子どもたちにアラムハラドは言います。

 「・・・人はまことを求もとめる。真理を求める。本当の道を求めるのだ。人が道を求めないでいられないことは丁度鳥の飛ばないでいられないと同じだ。おまえたちはよく覚えなければいけない。人は善を愛し道を求めないでいられない。それが人の性質だ。これをおまえたちは堅く覚えてあとでも決して忘わすれてはいけない。おまえたちはみなこれから人生という非常な険しい道を歩かなければならない。たとえばそれはパミールの氷や辛度(しんど)の流れや流沙(るさ)の火やでいっぱいなようなものだ。そのどこを通るときも決して今の二つを忘れてはいけない。それはおまえたちを守る。それはいつもおまえたちを教える。決して忘れてはいけない。・・・」

と。話は続くのですが、「人間の性」ということを考えるときにこの部分がとても心に響きます。

「人は本当にいいことが何だかを考えないではいられないと思います。」

というセララバアドの答え。そして、

「人は善を愛し道を求めないではいられない。それが人間の性質だ。」

というアラムハラドの子供たちへの教え。

 作家のロジャー・パルバースさんが『賢治から、あなたへ』(集英社)の中で、この話について次のように書いています。

<ロジャー・パルバース>
 つまり、善い行い、尊い行いについて考えるのは人間の「性(さが)」だ、ということです。それは、鳴くことが鳥の「性」であり、泳ぐことが魚の「性」であるのと全く同じです。善い行いについて考えることは私たちの「本質(nature)」や「人間性(human nature)なのです。
 これが「自己」の意味、すなわち「『わたし』とは何か」という問いに対して、賢治が到達した結論に違いありません。<以上上記書p96>

このような結論に到達できる賢治、

「人は善を愛し道を求めないではいられない。それが人間の性質だ。」

過去ブログにも書いたことですが、この性質を性(さが)という言葉で表現したいと思います。

 性質=性(さが)

 このように宮沢賢治は、人間の根本には「人は善を愛し道を求めないではいられない」という性(さが)があるというのです。当時の日本や世界を見渡せばそれが真実ではないは明らかでないことは確かな話ですが、それでも「それが人間の性質だ」と物語る所が賢治は意識性の高い人だったように思われます。

長々とわけの分からない話を書き綴っているのですが、

統合的私=A(善を愛し道を求めないではいられない人間)

賢治が物語る人間は、この統合的私でありそれが人間の性(さが)だと言い切ります。

 「こういう私でありたい」という希求は、賢治のメモ帳に書かれていた「雨にも負けず・・・」にも書かれている言葉です。

 別枠の別自己で、明確にイメージできるからからこそ、このような物語る子供や教師を描けるのだと思うのです。

 今回の最後になりますが、悲哀の直中(ただなか)の私、この私に相依する私があるのは明確なこと。ここに以前ブログで語った「あの日の星空」の意味なすものが現れてきます。


元号の支配と自己の自己性について

2019年04月04日 | 思考探究

 新しい元号が「令和」という万葉集由来の言葉に変わり、新聞によると75%の人たちが善しとしているようです。考案者が万葉学者で元文化庁長官の中西進先生とのことで、個人的に古代日本人の精神性において中西先生の「やまと言葉」には多くを学び今現在も学び続けているだけに感慨深いものがあります。

 中西先生の最新の著書は、歴史学者の磯田道史先生との対談編になりますが『災害と生きる日本人』(潮新書・2019.3.20)です。「古に学ぶ日本人の精神」が副題になっていますが、人災と自然災害の風土的環境がいかにそこに住む人々の深層に影響し文化が展開されるかよく理解できるかと思います。個人的な理解はセム的一神教の世界は人災、八百万の世界観は自然災害が文化の深層に影響し、考え方にも影響してくるのではないかと思います。  さて時々言及する世の中の多様なる事態ですが、今回の元号制定について、異を唱える人がいます。その中で紙面の片隅に掲載され、ネットニュースに登場する異を唱える人ですが、国宝松本城の近くに事務所を構える弁護士さんが話題になっていました。

 個人的に『仏教解体』の著者でその名を知り、確か松本空港建設に異を唱えたり、金嬉老事件を担当したり、学生運動が盛んだったころの弁護も担当したりしていたことを思い出しました。実に個性的な我が道を突き進む人のように感じていました。年齢は82歳ということですがニュースで声やお顔を拝見するとその勢いは衰えていないようで健康で何よりです。

 さて今回の話ですが「元号改定 違憲」という国を相手の訴えです。訴えの内容ですが、天皇の即位のたびに元号を改定するのは、国民主権を基本原理とする日本国憲法にの精神に反する。さらに改元は国民がもつ「連続する時間」の意識を切断するもの、元号制定は「国民を天皇在位の時間」に閉じ込めるもの、と「時間論」ともとれる哲学的課題を投げかけられたような気がして興味を持ってしまいました。

 元号が時間支配の道具、その論調か支配をする主体は天皇ということになるようです。弁護関係等の書類が元号なのか西暦なのか知りませんが、この主張のとおりならば彼が書く年号は西暦表記になるのでしょう。何事も一途な一貫性をもつ主張なのですから当然のことだと思います。

 支配されているのはいったい誰なのか、主張する本人であることは確かで、私は支配されているとは思いもしませんので本人の個人的な話に思われます。公文書作成に際して元号表記が習わしとしても絶対に従うことはないのでしょう。元号を見るだけで自分は「支配されている」という、悲憤慷慨の情動がわくに違いありません。実に見事な話です。

 新元号の「無効」確認も主張に加えるということですから、予想していることでしょうが、勝訴すれば社会は大混乱となります。凄いことを承知して行うのですからしかし、世の中の正義を貫きたい人ですから、大混乱は望んでいないと考えるのが一般的です。するとおのずとその志向判断が見えてきそうです。今回私が話題にするように世間も話題にするわけで、共感する人もいれば、変だと思う人もおり、ぴんとこないという人もいるわけです。

 さて「時間論」に話を戻そうかと思います。

 「国民の天皇在位の時間」は、「連続する時間の意識を切断するもの」  彼は象徴天皇を批判するものではないと断りを置いています。しかし上記の言葉からは、「元号という時間の支配」を語っているように思います。先に書きましたが「支配する」という述語には、主語があるはずです。

 天皇による支配は、時間をも拘束する。そして支配される時間とはいったい何なのだろうか。

 時間そのものを否定する人もいれば、感覚的なものだという人もいます。長く感じる時の経過感、過ぎ去る時間の速さに「光陰矢の如し」という人もいます。

 私はブログ内で、    

「昭和に生まれ、平成に頑張って、令和に生きる」

と書きました。私にとっては、令和は第二の人生の直中で、年金とともに余生を生きる時代。メメント・モリを考えながら末期はどうなるかわかりませんが平穏でありたいと願うものです。

 元号で区分し過去を振り返り、語ったのですが、別に「元号の支配」は感じてはいません。

 時の流れになぜか反省的思惟が働いて過去を物語ってしまいます。テレビ番組では盛んに昭和の時代、平成の時代を物語っています。多くの人は「そういうこともあった」などと懐かしく回顧することでしょう。そして「令和」で、これからの未来を想像し、未知なることへの親和感をもち、なぜか落ち着く、そんなところです。天皇支配などは思いもつきません。

 しかし、これも彼の弁では、元号の支配なんでしょうね。

 精神病理学の木村先生は、

 「ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸態様」を専門分野からの考察を基に、前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間-生の源泉としての大いなる死-がここに現前する」

と著『時間と自己』(中公新書)に書かれています。  私にとって、「令和」はまさに、永遠の今に生きる祝祭的時間であり「生の源泉としての大いなる死」がここに現前するわけで、メメントモリ(死を忘れるな)はここに現れてくるのです。

 私はこれまで自己なる現象、自己と内なる他(汝)との統合的表出ではないかと考えてきました。自己成る現象を木村先生の言葉を借用すると自己の自己性と表現したいと思います。

 引用になりますが著『時間と自己』に次の言葉があります。

「自己の自己性は二つの互いの異なった私のあいだの同一としてのみ成立しうるのである。自己の自己性は、いわば差異の同一、同一の差異としてしか現れてこない。その場合、一方の私はもう一方の私にとって他者の立場に立ちうることになり、自己の自己性についてのこの内部的他者による認知ということも当然言えることになる。自己の自己性とは、言いかえれば自己自身による自己認知のことだといってもよい。」(同書p77)

「認知」という言葉が響きますが、木村先生が何故に「時間と自己」という著をその精神病理学の見識から書くに至ったのか。その理解は著書から読み取るしかありません。

 元号批判のお一人を話題から自己の自己性を転回してきましたが、私は当面「令和」に支配され「令和」を生きたいと思っています。