思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

松尾寺の桜

2006年04月29日 | 仏教
 今日は朝から晴れわたった。桜前線の移動は山間地へ向かっている。
安曇野平らは、山麓線まできている。有明神社は今日から例大祭であるが桜は六分咲きといったところである。
 車で五分程度のところにある松尾寺は、今が満開で、寺の水車小屋は水芭蕉の白と桜の淡いピンクで満たされていた。

 「従上以来、我が宗門は無念をもって宗となし、無相をもって体となし、無住をもって本となす。」と六祖慧能は宗門の定義をされた。

 「無住とは人の本性なり。」心は元来水のごとく自由に澱みなく流れるべきものである。一所に定着しないのが、その本質である。古来「流れる水は腐らぬ」、「流れる水は凍らぬ」といわれるごとく、心ある一事点に定着するときは、必ずその正常性を失う。それは心の病であって、その病癖に落ちないことを、六祖は口を極めて警告されるのである。
山田無文さんは、「講座 禅 第三巻禅の歴史 中国 筑摩書房p153」で述べている。

 ここで無住に刹那滅をみる。我というものが刹那に滅し、刹那に生まれるものであることが、この無住の根底にあるのだ思う。

 流れる水は、一点で見るとき、それは新しい水の存在である。一点に影響を与える作用も、作用の先にあるものが次々に新しいものに変ずれば、その影響は留まることはない。

 春というものは、留まるものがないから夏に変じていき、四季というものは澱み留まりたるものがないらかある。

常楽我浄

2006年04月26日 | 仏教

 常念連峰の残雪も溶け始めたかと思うとこのところの寒さで、白さを増している。しかし、着実に春は来ている。自然の摂理は、平地の桜に終わりを告げ山間地へと開花を移動させている。

 自然の摂理に神の姿を見るのは、集合的無意識の世界で、古代信仰の対象に自然の存在物である太陽、小高い大地、巨石、樹木などを選ぶようになっている。
 その意識は連綿と現代まで引き継ぎられ、新興宗教の中には、太陽光に手をかざし身体に気が宿ると信ずる人々もいる。

 集合的無意識の領域にあるのならば、世の人々全員が幸せになればよいのだが、人は懐疑的であるのもまた当然の摂理で、現実はいろいろな人々がそれぞれに生きている。
 ちょっとしたことで幸せと感ずる人もいれば、物欲が満たされないと幸せと感じない人もいる。

 常楽我浄という涅槃経にある言葉は、人間の本性は永遠不滅で、常に楽しく、浄いということだ。
 人間本来悉有仏心で、無明の闇から湧き出す行動の元も煩悩に覆われていなければ自然の流れで、問題を生ずることもない。

 古代日本人は、自然の流れを阻害することを罪(つみ)という大和言葉で表現したが、四季のはっきりした自然に身をゆだねた生活の中から生まれた言葉である。
 


今有花なる

2006年04月20日 | 仏教

 松本城の桜も午前中の雨と風で終わりを告げている。散るから桜であるのだろうとふと思う。
 わが修行、千日回峰行などという厳しい修行をする立場にもなく、根っからの運動好きからはじめている早朝ランニング。

  午前5時も明るくなりました。

 今日は安息日。1時間30分のジョギングを敢行することに前日に決めていたが、天気予報では今日は曇りのち雨とのこと。
 そとにでて状況を見るとまだ雨には程遠く感じられたので早速ジョギングスタイルに着替え家を出た。

 軽い坂道からややきつい坂道を走りながら小高い城山に向かう。

 感覚的なさまざまな刺激(五欲)に執着せず、精神的な5種類の障害(五蓋)も取り除いて、只走り三昧でありたいが、坂道は足に負荷を加え感覚器官を通し、「速度を落とせ」という声が響く。しかし、5年ほど続けているとその声も響かず、淡々と時のみが経過していく。

 五欲とは、眼、耳、鼻、舌、皮膚という感覚器官を通しての外界の刺激であり、五蓋とは、欲張り、腹立ち、無気力、はしゃぎ、疑惑の精神的な障害をいう。

 拝問す。身心脱落とは何ん。
 堂頭和尚示して曰く、身心脱落とは坐禅なり。祇管に坐禅する時、五欲を離れ、五蓋を除くなり。
 
道元さんの問いに天童如浄禅師は答えた。(寶慶記講話)

 走り三昧でこれができないかと考えた訳で、夏の登山も毎年この手法をとる。

 城山に着くと桜の並木は7分咲きである。「本無華なりといへども、今有花なる」

 頼住光子さんはその著書「道元(NHK出版)」に
 禅における「さとり」とは、存在がそれぞれ独立して固定化された要素としてとらえられるような日常的な意味の枠組みがすべて崩壊し、眼前の「花」が「花」でなくなる「空そのもの」の体験であるが、さらに、そこに立脚して、再び、「空」を「花」として意味付ける行為をもって「さとり」は貫徹される。「空」から「花」を立ち現わさせることによって、修行者は再び世界へと還帰する。
と書いている。

 「空」から「花」を立ち現わさせる。この「立ち現わされる」という言葉は、大森荘蔵さんの「立ち現われ」という言葉と同等であろう。
 大森さんは、「夢も幻も思いも空想も、その立ち現われは現実と同等の資格で『存在』する。」と語る。

 坐禅中に幻影を見ることがある。また不幸のどん底、究極の恐怖にも幻影を見ることがある。これを禅では魔境というが、人によっては、神や仏を見る人もおり、境野勝悟さんは「新興宗教は魔境から始まる」とまで言っている。

 禅では、坐禅を中断し呼吸を整え、この魔境は払拭する。この場合の魔境は上記の立ち現われではない。

 身心脱落、心塵脱落の「空」について、住さんは、同書で
 「意味以前」とも「存在以前」ともいい換えることができるし、また、「無意味」とも「非存在」とも「無差別」ともいえる。それは、世界の根底にある「無そのもの」であり「空そのもの」である。
と表現している。
 
と「空」を説明している。

 道元はここで「本無華なりといへども、今有花なる」と説く。
 「空」の悟りの境地は現実の世界に立ち戻り、立ち現われの中に意味化することにより「今有花なる」なのだと思う。

 桜は夜半の嵐があるから、花の意味をなす。
 刹那に生じ、刹那に滅する。


コルサコフ症候群

2006年04月19日 | 仏教

 菅谷長野県松本市市長が、田中長野県知事を「コルサコフ症候群」と診断した。という記事が今朝の産経新聞の長野県版に掲載されていた。
 コルサコフ症候群というのは、発性神経炎に併発する疾患で、
   1.記銘力欠損
   2.見当識喪失
   3.健忘症
   4.作話症
という症状を主症状とする精神疾患ということだ。

 菅谷松本市長は、チェルノブイリ問題でその人道的な活動が世界的にも認められた市民派の人物である。
 市民派というと旧来的な左翼的な排他性のある反権力派のイメージがあるが、良識的な善智識ともいえる人物と、身近に観て私はそう思っている。
 医師でもある彼は、田中知事とはかなり親密な関係に一時期あった人物であり、診断結果についての信憑性には、仲たがいからの悪評価という者もあろうが、仲たがいの原因がこのコルサコフ症候群がなせる知事の雄弁に惑わされての親交からの別離であることは、承知の事実であった。

 長野県知事選挙を間近にしてのコメントだが、これには原因がある。今は親交のない知事が、突然「菅谷市長が知事選挙に出馬する」と14日の会見でいったからで、作り話の好きな作家知事が、出馬意志を何ら表明していない菅谷市長のことを単に話題作りのためのパフォーマンスを挙行したからである。

 県職員の知事支持率が一桁という事実それは事実である。知り合いの公務員夫婦は、反知事派ということだけで、県異動ではとんでもない配置外をさせられた。これも事実である。

 新聞記事は、最後に「知事を、物忘れや記憶障害、作り話などを主な症状とする病気だとズバリと”診断”した。」と文章で記事を締め括っている。

 明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものは(親鸞上人絵詞伝から)


迷悟我にあり

2006年04月09日 | 仏教

 「夫れ仏法遥かに非ず。心中にして即ち近し。真如他に非ず。身を棄てて何んか求めん。迷悟我に在れば、発心すれば即ち至る。明暗、他に非ざれば、信修すれば、忽に證す。」

 さて、仏の教えというものは遠くにあるのではなく、私たちの心の中にあって、極めて身近なものです。
 真実そのものは心の外にはないのですから、心のやどる我が身をかえりみずに、いったい、どこを探そうというのでしょうか。
 迷いも悟りも私達の中にあるのですから、悟りを求める心を発し(発心)さえすれば、必ず悟りに到達します。
 真実の智慧の光も煩悩の闇も(明暗)、我が身以外の他所にはないのですから、信じて修行すれば、たちまちに悟りを得ることができるのです。

 これは弘法大師空海の「般若心経秘鍵」の大綱序である。
 この発想は、宇宙の大生命と自己の生命とは、本来的には同一であることを主観として自己の内に観ることを意味するものだ。

 デカルトは、「神」なる実証できないものについて、主観の外に観てその存在証明をしている。このような思考方法は、極端に懐疑的になりやすく、精神的に孤独になりやすい。 
 
 デカルトの哲学史上でもっとも有名な命題の1つである「我思う、ゆえに我あり」という言葉も、「神」を自己の内に取り込めば違う意味で偉大なる命題になったような気がする。
 さらに「我思う、ゆえに我あり」の大前提は、「今」という時間の内であるといことだ。

 一瞬の「今」と悠久の「永遠」とは、まるでかけ離れたもののようでありながら、じつは一体にして不離なのだ。今を離れて永遠はなく、永遠を離れて今はない。そうではないか。ならば・・・・
 今は永遠に異ならず、永遠は今に異ならず、今は即ちこれ永遠、永遠は即ちこれ今・・・。
 まったく、これは本文の「色」を「今」に、「空」を「永遠」に置き換えてみたものだ。だが、同じことなのである。羅什訳「般若心経」には、玄奘訳にはない「是れ空法なり、過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず」という一説がある。
 なぜ、玄奘がこの一説を省いたかーーーあるいは、なぜ羅什がこの一節を挿入したかーーー定かではないが、空性体験において、「過去」「未来」「現在」もまた、「色」同様に、その枠が開放される事例なのである。
 「般若心経の新世界 宮坂宥洪著 人文書院からP101」


甥の結婚式

2006年04月05日 | 風景

  桜が満開の都内の結婚式場で、甥の結婚式があった。信州を午前5時にサロンバスで出発。朝から車内で宴会である。
 9時過ぎに式場に着き、女性軍は場内にある美容院で着付け等を行なう。男性軍も更衣室で礼服に着替える。11時ごろに結婚式を行い、その後披露宴となるのでまだ時間があるため、大久保彦左衛門館跡という式場の敷地内を歩く。
 式当日26件あるというだけあり盛装の老若男女が多くきていた。

 桜が満開で、すばらしい天気。結婚式には最高の日であった。
 兄には二人の男の子があり、長男は既に結婚しており今日は弟の方である。
 甥は二人とも技術屋で、兄のほうは、半年欧州に出張中であるが、この結婚式のため帰国し、4日には戻るということだった。
 一時帰国の土産だとグルノーブルの「Grenobele entre et montagnes a city,lakes and mountains」という写真集を買ってきてくれた。とてもきれいな写真集で、印刷が日本では見かけない方法を使っているようである。
 
 今回結婚する弟の方は、設計屋で大学友達が表現できないような集団芸を披露してくれたが、大学時代は相当サークルで派手なことをしてきたようだ。

 私も高校までは、工学系と考えていたが突然文系に転向してしまい甥たちとは仕事上の接点はないが、異なる分野の話は非常に参考になる。

 非常に長い結婚式で、終わったのが午後4時。帰路、首都高が渋滞との情報から一般道を利用し、皇居の堀端の桜を見ながら帰ることができた。
 休日のこともあり花見の客で道路は人であふれていた。