松本城の桜も午前中の雨と風で終わりを告げている。散るから桜であるのだろうとふと思う。
わが修行、千日回峰行などという厳しい修行をする立場にもなく、根っからの運動好きからはじめている早朝ランニング。
午前5時も明るくなりました。
今日は安息日。1時間30分のジョギングを敢行することに前日に決めていたが、天気予報では今日は曇りのち雨とのこと。
そとにでて状況を見るとまだ雨には程遠く感じられたので早速ジョギングスタイルに着替え家を出た。
軽い坂道からややきつい坂道を走りながら小高い城山に向かう。
感覚的なさまざまな刺激(五欲)に執着せず、精神的な5種類の障害(五蓋)も取り除いて、只走り三昧でありたいが、坂道は足に負荷を加え感覚器官を通し、「速度を落とせ」という声が響く。しかし、5年ほど続けているとその声も響かず、淡々と時のみが経過していく。
五欲とは、眼、耳、鼻、舌、皮膚という感覚器官を通しての外界の刺激であり、五蓋とは、欲張り、腹立ち、無気力、はしゃぎ、疑惑の精神的な障害をいう。
拝問す。身心脱落とは何ん。
堂頭和尚示して曰く、身心脱落とは坐禅なり。祇管に坐禅する時、五欲を離れ、五蓋を除くなり。
と道元さんの問いに天童如浄禅師は答えた。(寶慶記講話)
走り三昧でこれができないかと考えた訳で、夏の登山も毎年この手法をとる。
城山に着くと桜の並木は7分咲きである。「本無華なりといへども、今有花なる」
頼住光子さんはその著書「道元(NHK出版)」に
禅における「さとり」とは、存在がそれぞれ独立して固定化された要素としてとらえられるような日常的な意味の枠組みがすべて崩壊し、眼前の「花」が「花」でなくなる「空そのもの」の体験であるが、さらに、そこに立脚して、再び、「空」を「花」として意味付ける行為をもって「さとり」は貫徹される。「空」から「花」を立ち現わさせることによって、修行者は再び世界へと還帰する。
と書いている。
「空」から「花」を立ち現わさせる。この「立ち現わされる」という言葉は、大森荘蔵さんの「立ち現われ」という言葉と同等であろう。
大森さんは、「夢も幻も思いも空想も、その立ち現われは現実と同等の資格で『存在』する。」と語る。
坐禅中に幻影を見ることがある。また不幸のどん底、究極の恐怖にも幻影を見ることがある。これを禅では魔境というが、人によっては、神や仏を見る人もおり、境野勝悟さんは「新興宗教は魔境から始まる」とまで言っている。
禅では、坐禅を中断し呼吸を整え、この魔境は払拭する。この場合の魔境は上記の立ち現われではない。
身心脱落、心塵脱落の「空」について、住さんは、同書で
「意味以前」とも「存在以前」ともいい換えることができるし、また、「無意味」とも「非存在」とも「無差別」ともいえる。それは、世界の根底にある「無そのもの」であり「空そのもの」である。
と表現している。
と「空」を説明している。
道元はここで「本無華なりといへども、今有花なる」と説く。
「空」の悟りの境地は現実の世界に立ち戻り、立ち現われの中に意味化することにより「今有花なる」なのだと思う。
桜は夜半の嵐があるから、花の意味をなす。
刹那に生じ、刹那に滅する。