地方紙に織り込まれていた小雑誌に「新年に思うハレとケ」という記事が掲載されていました。
ハレを漢字で書くと「晴れ」、ケは「褻」となります。「ハレ」とは、一般的に非日常をいい、「ケ」は、日常を意味します。「ハレとケ」が話題にされるのは民俗学者の柳田國男が取り上げたことから注目されるようになり、ウィキペディアには、
「ハレとケ」という概念関係の捉え方は、柳田國男が近代化による民俗の変容を指摘する一つの論拠として、ハレとケの区別の曖昧化が進行していること(例えば、ハレの儀礼時にのみ行っていた特別な飲食が日常的に行われる、など)を提示したのが始まりである。柳田は、何世代か前の人々の「ハレとケ」の区別の仕方と、柳田の同時代の人々の「ハレとケ」の区別の仕方を比較し、そこから未来への潮流を読みとろうとした。
当初「ハレとケ」という捉え方はそれほど注目を集めなかったようであるが、和歌森太郎が着目してから後、広く学界内で知られるようになった。ただ民俗学においては、柳田が目指した過去・現在の比較から未来を読みとくという通時的分析を志向せず、長らく「ハレとケ」の二項図式を公理のようにみなした民俗構造の共時的な分析に傾斜し、もっぱら“「ハレ」の非日常=儀礼や祭り”に対して関心が寄せられていた。
と解説されています。この記事を書くを思い立った上記の小雑誌記事はこの柳田先生の言う「ハレ」と「ケ」が曖昧になってきている話を現代に重ねるもので、「現代は豊かだ、身近な衣食住を見ても、昔に比べれば毎日が非日常な祭りのよう(だ)。」と語ります。
そうですよね。幼少期の衣食住に比べれば天国と地獄のような差があります。衣類、食事、住まいそれぞれにかなりのレベルアップで彩られています。現代ではGパンなどは真っ新なものをワザと加工して古さを(使用感を)持たせて販売するの例外として、ツギハギの衣類を着ている人は見ることがなくなりました。食事などは現代の若者では洋食化が普通になり、漬物と少々のたんぱく質などという時代ははるか遠くの時代になってしまいました。記事の著者は持ち新聞記者だと思われ次のようにも語っています。
過去に大手新聞社の先輩から投げられた「非日常が日常になったらダメだぞ」という言葉は、今に思うと「記者が日々追うニュースはまさに非日常だが、それに慣れてしまえば記者としての視点が失われる」という視点に解釈される。
「そうだあなぁ」と思う。日常に慣れてしまうと、事態のは握も過去の同類の事態と同様的な取扱いに終始し目新しい発見は何一つありません。いわゆる面白みがありません。
非日常が日常になる。慣れからくる落とし穴がそこに現れます。
だから常に新鮮な気持ちで緊張感をもって事に当たることが重要という話になるのですが、緊張感ばかりでは疲れるばかりで心が逆に落ち着きません。このようなことを考えていると天秤の左右の端の揺れのように落ち着くべき位置がありません。
喜怒哀楽を極力抑え物事に動じない平常心之道なりと、いったところの悟りの境地では味は出てきません。
「味が出てきません」とは、「あじけない」という話で、なんとなく心にそぐわないがどうすることもできない不満が浮き出ます。
教訓的な話も一片の理であってそれだけを押し通すことはできないように思います。場を踏み何事かを体得し、何事かの感を養う、直観とか直覚というものはそういうものかもしれません。それは自分自身が掴み得たもので現実的には応用力ともいえます。
ハレとケ、非日常と日常の話からあらぬ方向へと話が進んでしまいましたが、晴れの場、祝儀の場、祭りの場という非日常、ある人は葬送の場もハレではないかと言います。確かに日常ではないのでそう言えるかもしれませんが、晴れ着のハレを想うと同意できない感じがします。
そもそもハレとケという区分をする衝動はどこから来るのでしょう。徒然草が語るように「け晴れなく、ひきつくろはまほしき(ふだんも正式の場合も区別なくきちんと整えたいものだ)」、身なりも私生活もきちんとしていれば良いものを・・・人間というものは乱れる、汚れる性(さが)にあるもので「ケ」が枯れる・・・ケガレルわけです。
古代精神史では祭りは、気が枯れる、正気が失われることからそれを取り戻すためにおこなわれる、という説があります。
日常の「ケ(褻)」、古語の世界では「ケ」は他に「日」「気」「毛」「怪」「卦」「故」「食」「笥」という漢字で表すようです。
「ケ(気)」の付く言葉としては、
「ケウトシ(気疎し)」うとまし。なじめない。
「ケオサル(気圧さる)」圧倒される。
「ケオソロシ(気恐ろし)」そら恐ろしい。
「ケオトル(気劣る)」何となく劣る。
などがあり「ケ」という気持ちとか気分という言葉でつかめそうです。
そして出てくるのが「気分転換」、誰もそういう機会を持ちたくなる時があります。北島三郎の「まつり」のように「まつりだ!まつりだ!」と声出したくなる時もあります。
要するにメリハリ(弓の弦の張からくる言葉)を持つことが大事ということでしょう。羽目を外せば締める衝動が根底から湧き出る、人間の持つ性(さが)それをしっかり「ある」を知悉する、そこが大切なことかと思います。
「ハレ」と「ケ」は、確かにそう見える相対化の顕現かもしれませんが、常に生まれ他に移行し、そして戻るの連続性において刻々なのだと思います。
マルクス・ガブリエルの「新実在論」は、相対化の連続において「存在」の固定はないと説いているように感じられる。西田幾多郎先生が説くように生命体であって刻々と時を刻み、動きの中に存在するもの。一歩前は一歩前進であるが自分を置き忘れているものではなく、彫刻の刻みのようです。はく離したものは再び元に戻すことはできませんが、新たなる刻みで新たなる彫像の己が創られるように思います。
これといった結論はないのですが、とりとめのない今ある私の語りです。