思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人生の贈り物

2018年10月31日 | 仏教

 前回「一夜賢者の偈」という原始仏教の経典の言葉をアップしました。中部経典マッジマニカーヤの一夜賢者の経(偈)もアップしてありますので参考にしてください。さてこれに似たアメリカの有名な児童書があります。これはスペンサー・ジョンソンというアメリカの医学博士が書かれたもので、彼は医学と心理学の分野で多数の本を書かれています。

 一夜賢者経をヒントに創作されたものではないかとわたしは思うのですが、話の流れがとてもよく中略を含め引用させていただきます。

題名は『人生の贈り物』です。

 かけがえのないプレゼントとは、
 プレゼント、つまり現在のことだとわかったのです。
 過去でもなく、
 未来でもなく、かけがえのない現在ということです。
 現在の瞬間というのは、
 常にかけがえのないものです。
 それはまったく完全なものだからではありません。
 おもわくと異なることも多いのです。
 現在がかけがえがないのは、
 その時点では、それがすべてだからです。
 あるがままの状態が。
 たちまち彼は幸せになりました。
 まさにかけがえのない現在を
 生きているのがわかったのです。

(中略)

 これまでいつも
 何か足りないものがあると感じていました。
 その時その場所にいるという現実を
 生きていなかったのです。
 ずいぶん多くのものをみすみす逸したと思うと、たまらなく悲しくなりました。
 彼は自分を責めつづけ、
 それから、自分のしていることに気づきました。
 過去のいたらなかったことにこだわり、
 それにとらわれていたのです。

(中略)

 「過去のことをふりかえり、
 教訓をみいだすのは、
 賢明なことだ。
 しかし、過去を生きるのは、賢明なことではない。
 それは現在の自分を否定することだから」
 「未来のことを考え、
 準備するのは、
 賢明なことだ。
 しかし、未来を生きることは、
 賢明なことではない。
 それも現在の自分を否定することだから。
 そして、自分を否定することは、
 何よりも大事なものを否定することだ」

(中略)

 男はまよわず「いま」のほうを選びました!
 そして、いま彼は幸せです。
 ありのままの自分に安らぎを感じていました。
 人生のそれぞれの瞬間を、
 いいことも、わるいことも、
 まるごと味わおうと思いました。
 理解できなくてもいいのです。
 彼にとって初めてそれは問題ではなくなりました。
 この地球上で生きている瞬間瞬間を、
 贈り物として受け入れたのです。

(中略)

 「現在とは、ありのままということで、
 それがかけがえのないことなのだ。
 なぜそうなのかわからなくても。
 現在は、
 そうなるべくしてなかったものだ。
 その現在を知り、
 現在を受け入れ、
 現在を生きるなら、
 満ち足りて、幸せになれる。
 苦しみは、
 ありのままのことと、
 望むことが
 くいちがっているということだ。
 思いどおりにいかなかった過去を
 悔やみ、
 どうなるかわからない未来を
 思いわずらうのは、
 現在を生きていないということだ。
 それは、苦しく、
 みじめで、
 不幸なことだ。
 過去もそのときは現在だった。
 そして、未来も現在になる。
 現在の瞬間こそが、
 経験できる唯一の現実なのだ。
 現在にとどまるかぎり、
 永遠の幸せでいられる。
 永遠も、
 常に現在なのだから。
 私がさがしていた、かけがえのないプレゼントとは、
 ただ、
 いま現在あるがままの自分のことだ。
 それはかけがえのないものだ。
 かけがえのないプレゼントは、
 自分から、
 自分に与える、
 かけがえのない贈り物なのだ。
 自分というのはかけがえのないものだから。
 自分こそ、かけがえのないプレゼントなんだ」

以上ダイアモンド社「人生の贈り物」スペンサー・ジョンソン著 門田美鈴訳から抜粋しました。とても良い本です。


手動瞑想と一夜賢者の偈に思う

2018年10月30日 | 仏教

毎週日曜日早朝にEテレで放送される「こころの時代~宗教・人生~」は、人文学好きの私には勉強の場でもあります。

 先週28日は、「“今ここ”に気づく」と題した、日本人でタイで出家したプラユキ・ナラテボーさんの「手動瞑想」についての紹介でした。

 何が彼を仏教にひきつけたのか。お母さんが浄土系の幼稚園の保育士をおやりになっていた関係で仏教的な教えの環境で育ったようです。

 プラユキさんが自分の人生に大きな影響を与えた言葉ということで宮沢賢治作『農民芸術概論要綱』の序論の最初の方に書かれている次の言葉を紹介していました。有名な言葉で知っておられる方も多いのではないかと思います。

「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

という言葉です。番組内では紹介された話ではないのですが、実はこの文章の一行前には次の文章があります。

「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」

 賢治は幸福実現への道を

●近代科学の実証
●求道者の実験
●われわれの直観

の三点の一致から語りたい、ということです。プラユキさんは「世界ぜんたいの幸福」という他者に対するまなざしを強く持ち続け求道の道を選んだようです。

 現在プラユキさんが行っているのは、物事をあるがままに観察する「気づきの瞑想」の方法の伝授です。その核となる言葉として、「今ここに気づく」という仏陀の教(原始仏典の偈)えを伝えます。

過ぎ去れるを追うことなかれ
いまだ来たらざるをおもうことなかれ
過去 そはすでに過ぎ去りたり
未来 そはいまだ到りざるなり
されば ただ現在するところのものを
そのところにおいてよく観察すべし
揺らぐことなく 動ずることなく
そを見きわめ そを実践すべし
ただ今日まさになすべきことを
(原始仏教典「一夜賢者教」より)

これは「一夜賢者の偈」「吉祥(きちじょう)なる一夜の偈」とも言われる経典の言葉を日本語の韻を踏む訳で簡略したものです。

過去ブログで何回となく紹介していますが、個人的にとても影響を受けている偈です。

原典に近い訳は次のように書かれています。

かようにわたしは聞いた。
あるとき、世尊は、サーヴァッテッー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なる、アナータビンディヵ(給孤独)の園にあった。そこで、世尊は、「比丘たちよ」と仰せられた。「世尊よ」と、彼ら比丘たちは答えた。世尊はかように仰せられた。

「比丘たちよ、今日わたしは、<一夜賢者>なる偈について、また、その分別について語るであろう。よく聞いて、じっくり考えるがよろしい。では説くであろう」

「かしこまりました。世尊よ」

と彼ら比丘たちは、世尊に答えた。世尊は、つぎのように仰せられた。

「過ぎ去れるを追うことなかれ
 いまだ来たらざるを念(おも)うことなかれ
 過去、そはすでに捨てられたり
 未来、そはいまだ到らざるなり
 されば、ただ現在するところのものを
 そのところにおいてよく観察すべし
 揺らぐことなく、どうずることなく
 そを見きわめ、そを実践すべし

 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
 たれか明日死のあることを知らんや
 まことに、かの死の大軍と
 逢わずというは、あることなし

 よくかくのごとく見きわめたるものは
 心をこめ、昼夜おこたることなく実践せん
 かくのごときを、一夜賢者といい
 また、心しずまれる者というなり」
( 原始仏教典南伝 中部経典131 一夜賢者経)

この経(偈)を身体の動作と共に学ぶ「手動瞑想の実践」が紹介されました。内容については再放送を参考にしていただきたいと思いますが難しいものではありません。

 要は今まさに自分は何をしているか、この場合、手の動作を行いそこに意識を合わせていくもので、原始仏教典をもとにした仏教の教えをする団体のには、動作を声に出しながら確認するというものもあります。

 大乗仏教の禅宗系の座禅では曹洞宗に見られるような只管打坐のようにひたすら坐ることを主とするものもあります。こちらの方な念を切る、心の今を切る、志向視点を切るという方向性があるように私は理解しています。

 どちらがどうだという話ではなく、今まさに何ごとかをなしている自己に気づくことなのだと思います。

 どのような方々がこのような瞑想法を学びに来るかということですが、プラユキさんの悩める人の話を聞いていると実存的虚無感の人や対人関係で実存的疎外感を感ずる人などがおられるようです。

 悩みに悩む人。「お前はこうだ。あのひとはこうだ。」と言われ続け、人を善人か悪人かと他者や自分を枠にはめないと生きられない人。・・・・

 劇団四季の有名なライオンキングという劇があります。劇中で王子を励ます言葉としてイボイノシシらが「ハクナ・マタタ」とくり返します。それは「くよくよするな」意味です。

 国文学者の中西進さんはこの言葉にとても感動したと著『ことばのこころ』(東京書籍)で語っています。

 人間の生きるコツはまさにそこにある。わたしはつらいことがあると「ハクナ・マタタ」と言おう。そして言葉を口癖にして明るく生きていこうではないか。

こう中西さんは結びます。

 私は今何について悩み続けているのか。

 「くよくよ」している自分、それに気づくことも救いなのだと思います。

 賢治の「世界ぜんたい幸福にならないうちは」は、世の中の人が幸福にならないうちは個人の幸福はないと、断言します。不可能性を転回する強い可能性希求が見えます。

 人は変わろうとする存在。メタモルフォーゼを期待する存在、そのように思います。


 理性は情動の補佐役の背景にある実在論

2018年10月27日 | 哲学

 「情動」と「感情」について思い巡らす中で、前にブログにも引用した信原幸弘さんの著籍『情動の哲学入門~価値・道徳・生きる意味』(勁草書房)に書かれた「理性は情動の補佐役」という言葉を思い出します。

 高ぶる感情を抑えたいときには理性に従うこと。抑えがたい怒りの情動をどうにか理性で沈める努力を、などと言われもしますが、自らはどうしようもないほど、自覚などできない様に心は何ものかに支配され感情、情動のままにつき動く場合があるのが普通です。

 薬物依存などの場合は身体の渇望、湧きあがる欲動に個は突き進みます。理性などは只中においては一片も姿を見せず、天罰とともに情けなき理性無き己の情けなさを叫ぶことになります。

 一分の反省心が湧く人ならば、反省する今の自分が本来持ち続けるべき私なのだと、人でなしが人になれるチャンスを得たと思うことでしょう。

 「物は実は私たちの心の中にある観念であって、知覚される限りにおいて存在する。これが観念論と呼ばれる見解の基本である。」(冨田恭彦『観念論の教室』ちくま書房・p009)

 簡略すれば「人間の頭の中で考えられたものこそ本当の実在」と語っているようなもので現代の哲学が語る「実在論」の「実在」とは思考視点が異なる「実在」で、神が生きておられたころは神も子も精霊も崇拝対象としての実在であるとするのです。

 心身二元論の場合には、私は一つの実体であるとする、「ゆえに私は存在する」とする精神の優位、そこに実在があります。

 神信仰も理性の優位も基本の思考視点は現実の存在として実体する私が認識するところに置かれます。

 これがいつごろからか実体の実在たることが転回される。神の死後(ニーチェ)であろうか、その後の反哲学の思想の流れなのだろうか。

 実在は観念を離れ心の外に現象する物事に置かれる。そしてさらに二元論世界から、一元的思考の世界に「実在」は置かれることになるのです。実在論が観念論の対語と呼ばれる時代もある意味実在論の更なる弁証的な止揚が求められるような気がします。

 「仏教は実在論である」

と語られることがあります。しかしこの「実在論」は西洋的な思考の変遷に語られるような実在認識を基にするものだろうかという疑念を持ちます。

 「理性は情動の補佐役」

という話から離れた思考を展開していますが、理性は尊ぶべき人間の存在の本質と呼ばれる時代からの弁証的に展開された哲学の流れに思うのです。

 生命哲学という学問があります。情動の哲学もある意味、人間が生命体であることの気づきから始まるのだろうと思います。

 池田善昭著『西田幾多郎の実在論』(赤石書店)が本年7月に出版されています。ここで語られるその背景となる「実在論」はどのようなものだろうか、過渡期の実在論ではないような気がします。そこには生命哲学が重なるからです。


「情動」と「感情」という言葉に思う

2018年10月26日 | 哲学

 「情動」について信原幸弘著『情動の哲学入門~価値・道徳・生きる意味』(勁草書房)を参考にブログにアップしましたが、個人的にこの言葉を使うことのなかったことから類似する言葉として普通に使われる「感情」との相違を考えていました。

 疑問に思う時はネット検索で、案の定YAHOO知恵袋に「情動と感情てどう違うのですか?」という質問が掲載されベストアンサーも出ていました。

●情動(emotion)
・感情のうち、急速にひき起こされ、その過程が一時的で急激なもの。怒り・恐れ・喜び・悲しみといった意識状態と同時に、顔色が変わる、呼吸や脈搏が変化する、などの生理的な変化が伴う。

・情動には、感情に加えて、胸がどきどきする、手に汗を握る、 鳥肌が立つ、涙が流れる、 破顔一笑する、真っ青な顔になる、 肩が凝る、尿意を催す、青筋を立てるなどの、 「身体の変化」を伴っている。

・〈情緒〉とも言う。感情の一種。
 急激に発生しおおむね短時間で消滅すること,またきわめて激しい心身の変化を伴うことによって, 継続的かつ微弱な感情である気分とは区別される。

ということです。

 情動は「一時的」「急激」「身体の変化を伴う」
という点で感情とは違うようです。

<以上>

このような回答で「感情」の内の「一時的」「急激」「身体の変化を伴う」ものが「情動」ということになるようです。

 従って、怒りの感情、恐れの感情、喜び・悲しみの感情が、顔色が変わる、呼吸や脈搏が変化する、などの生理的な変化が伴った時は情動と言う、となります。

 感情の高ぶりが身体の変化を伴うことは確かなことで、あえて情動と解する必要がないように思われるのですが、上記書の中に「有名な情動のジェームズ=ランゲ説」と外国の研究者の名が出ており、その他にも外国の「情動」研究者の名が出てきます。

 結局日本語の中に感情の「一時的」「急激」「身体の変化を伴う」ものを意味内容の範疇として「情動」という一語に収斂されたということになったように思われます。

以下は上記書の最初章「立ち現れる価値的世界」に記載されている文章です。

 魅惑感や渇望感などを情動に含めるためには、情動の範囲をかなり広く理解することが必要である。しかし、快感や苦痛、嫌悪感などを情動に含める場合のように、情動を広く理解することもしばしば行われる。ここでは、情動の範囲を広げて、事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」と呼ぶことにしたい。このように広く理解すれば、価値性質はすべて情動によって「感じる」という仕方で捉えることになる。

 情動は事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える。

ということで、次の二つの価値的性質が書かれています。

 怖いという価値的性質(=危険だという性質)
 
 喜ばしいという価値的性質(=大事なものが実現したという性質)


 ここに説明される「危険だという性質」とはイヌとの出会いでイヌに危険を感じる場合、「大事なものが実現したという性質」とはオリンピックでの日本選手の活躍に喜びを覚える時などで、「怖いという価値的性質」「喜ばしいという価値的性質」はそういうことです。

 話は戻りますが「感情」と「情動」を比べれば、強い高ぶりをイメージします。日常使われることのない言葉でも、いつの間にかそのように意味を感じるようになっている、ということでしょうか。

 著書名は『情動の哲学入門』で「感情の哲学」ではありません。信原さんは次のように「情動」「感情」の違いについて語っています。(同書p5)

 本書では基本的に「感情」という言葉ではなく、「情動」という言葉を用いる。「情動」という言葉より「感情」という言葉の方が言葉の方が日常的におそらく親しみがあるだろう。しかし、あえて「情動」という言葉を選んだのは、無数の名もなき情動たちをそこに含めたかったからである。「感情」という言葉を用いれば、「情動」という言葉を用いるよりもさらにいっそう、意識的に心に感じる状況(日常的な名前をもつ顕著で典型的な状態)だけを意味するように思われがちである。そのような危険性をできるだけ回避して、世界の価値的なあり方を身体的に感じ取る心の状態をすべて包摂するために、あえて多少親しみの薄い「情動」という言葉を用いることにした。(同書pはじめにXI))

 そう考えていると「感情移入(かんじょういにゅう)」という言葉が浮かびました。何も考えることなくその意味するところがわかります。

【ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説】
感情移入(empathy; Einfuhlung; objectivation du moi)
 他人の身振りや表情,あるいは芸術作品などの人間の諸表出や自然対象を把握するとき,自己の内的感情を対象の側に移入し,それが対象に帰属するものとして体験する場合の心的活動をいう。この活動が最も純粋で完全な形で行われるのは美的感情移入であり,ドイツの T.リップス,J.フォルケルトらはこの概念を中心にして感情移入美学を樹立した。フォルケルトは,感情移入は移入する対象の違いによって区別され,人間の諸表出に対する感情移入が本来的感情移入であり,非人間的な形態に対する場合が象徴感情移入であるとした。

【デジタル大辞泉の解説】
かんじょう‐いにゅう〔カンジヤウイニフ〕【感情移入】
 自分の感情や精神を他の人や自然、芸術作品などに投射することで、それらと自分との融合を感じる意識作用。

【世界大百科事典 第2版の解説】
かんじょういにゅう【感情移入】
 他人や芸術作品や自然と向かいあうとき,これら対象に自分自身の感情を投射し,しかも,この感情を対象に属するものとして体験する作用をいう。ドイツ語Einfuhlungの訳語であるが,この心理学用語は英語圏ではempathy(共感)と訳されて定着し,独自の展開をみせている。目に見るものを通じてその心に触れるという体験はどのようにして成立するのか。その根拠をT.リップスやフォルケルトは,経験による類推とか連想の作用でなく,いっそう根源的で直接的な作用である感情移入にあるとした。

 この言葉も明治維新後の学問移入ととともに成立してきた言葉のようです。当然古典に出てくることもなく古語辞典にもありません。

 感情移入の意味を理解できるのは何故かを理解できるのか。学習したことが過去にあるからで私の場合いつとも特定できないある日の出来事だったのでしょう。

 古語辞典を見ていると感情移入ではありませんが次の言葉を見つけました。

 「こころづき」【心付き】という言葉で、気持ちが相手とぴったりと付き、離れない状態になることで共感すること、気に入ることを表す。

という言葉です。「移入」ではありませんが、「気持ちが相手とぴったり」というところが感覚的に似ているように思えます。

 「感情」という言葉も古語ではありませんが、古語類語辞典(三省堂)に「心(こころ)・情(じょう)」とありました。

 ふと、こころ模様という言葉が浮かびます。

 思いつき、思索を重ね、知ろうと心は動きます。「情動」と「感情」という似たような言葉を頭の中で転がします。だからといって結論があるわけでもなく、どこまでもどこまでも思考の世界に迷い込みます。


「御坐(おわ)す」という「存在」について

2018年10月20日 | 哲学

 「空間は実在するか?」と題したブログを目にし、内容はともかくこの「実在」という言葉(漢字)に何故か「存在」という言葉が浮かびました。

 「空間は存在するか?」ではなく筆者は「実在」という言葉を選び使用したわけです。自己の疑問を問いの構文で表現するときに「実在」以外の語は発想されなかった、ということで、これまでの経験から他の人も「空間」の「ある」「なし」に対しては「実在」を使用していたという知識が自然に記憶として記名されおのずから想起されたのでしょう。

 「空間」には「実在」が似合う、と言ったところでしょうか。

 「実在する」と「存在する」という言葉どこがどう違うのでしょう。世の中には同じ疑問を持つ人もいるのは同然で、このぎもんをねっとけんさくしました。するとYAHOO!知恵袋に“「実在する」と「存在する」の違いは何ですか?”という問い合わせをした人がいました。

 そこでのベストアンサーではどう解説されていたかというとデジタル大辞泉の内容が引用されていました。

●じつ‐ざい【実在】の意味
[名](スル)
1 実際に存在すること。現実にあるもの。「実在の人物」「この世に実在しない生物」
2 哲学で、
①意識から独立に客観的に存在するもの。
②生滅変転する現象の背後にあるとされる常住不変の実体。本体。

●そん‐ざい【存在】の意味
[名](スル)
1 人間や事物が、あること。また、その人間や事物。「神の存在を信じる」「歴史上に存在する人物」「クラスの中でも目立つ存在」
2 《being/(ドイツ)Sein》哲学で、あること。あるもの。有。
①実体・基体など他のものに依存することなく、それ自体としてあるもの。
②ものの本質としてあるもの。
③現実存在としてあることやあるもの。特に、人間の実存。
④現象として主観に現れているものや経験に与えられているもの。
⑤判断において、主語と述語とを結合する繋辞(けいじ)。「sはpである」の「ある」。

と書かれています。

 この中の「実在」の解説に「実際に存在すること」と「実際」という意味も絡み、さらに「あること」「あるもの」などという言葉もあり「モノコト論」に興味を持つ私はさらなる深みにはまりそうです。

 中にひとつ気になる用例がありました。「存在」の解説の中の「神の存在を信じる」という用例です。「空間」の「ある」「なし」ではなく、「神」は「いる」「いない」の問いの表現に「存在」を使用しているわけです。

 「神の実在を信じる」でもよかろうと思うのですが、「存在」という言葉の用例としてしか出ていませんし、個人的にもなぜか「神の実在を信じる」という表現には違和感を感じてしまいます。

 考えてみるとこれまでの哲学的な課題としての「神」の「いる」「いない」は「神の存在証明」と言われるように「神の実在証明」という言葉を見たことがありません。

 何ゆえに「神」には「存在」が適合するのでしょう。日本語ではどこまでも神には「存在」が適合するからでしょうか。

 時代をさかのぼって、やまと言葉(古語)ではどうなのでしょうか。そうです。「神はおわします」です。現代では聖書の中に「天にまします我が神」として使われているように「おわす」や「まします」が使われ、いまでもその意味は通じます。この言葉を漢字で書くと「御坐(おわしま)す」「坐(ま)します」となります。

 その存在は立像・座像のイメージではなく「御(お)なりになっている」という感覚での理解です。

 明治維新後、西洋文化の流入とともに、「存在」「実在」という言葉が定着していく中で、神には「存在」という言葉をつかうことが普通になったなった気がします。「存在」という言葉の根底には「御坐す」「坐します」という感覚的感得があり、「存在する」ところの「そういうもの」という理解の内におのずから神と接しているように思います。

 「神」が「いる」「いない」という問い

これは、

 「神」が「おわすか」「おわさないか」という問い

に違和感なく重なるかというと個人的にすっきりしません。

 古語では初期の段階は「坐(いま)す」で、「中古のの和文では「イマス」に代わってオワシマス(御座します)」となったと言います(大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版)。

 同辞典には上代に神や天皇などに用いた最上級の尊敬語にオホマシマス(大坐します)が宣命にあるといいます。

 「存在」という言葉は、八百万の神が、万物に神が宿りというような凡神論的な感覚的理解をするものも使用し、特定の宗教に属する唯一絶対の神を信仰する者も使用します。そして無神論者も「神の存在証明」などと常識のように「存在」という言葉を使います。

 「実在」という言葉は、辞書にもあるように

 実際に存在すること。現実にあるもの。

 意識から独立に客観的に存在するもの。

に対して使用します。森羅万象に宿る神を感得できる者も、唯一絶対神の信仰者も、また無神論の哲学者もみな「実在する神」がよかろうと思うのですが、どこまでもどこまでも「存在」なのです。日本語であり、日本語訳であるから「存在」にするのだろうか。

 感覚的にとらえることができるものが実在なのか、それとも頭の中に考えたものが実在なのか。

 どうも天皇制のという表現が正しいかわかりませんが、古代から日本列島は密接に「天皇」と関りをもつ歴史があり、上位にあるものは「カミ」であり「オカミ」でもありました。

 当然西欧流の「神」も古神道からの「神」も「御座します」であって賛否の枠内に収まらないことのように思います。

 観念論に至る流れの中でギリシャ時代から「人間の頭の中で考えられたものこそ本当の実在である」とし頭の中で展開する数学というものが論理的に美しく、その数学の体系が頭の中で考えれたものが実在だとされていました。その後キリスト教の信仰が盛んになると神というものを中心にしてこの世の説明をするにはこの考え方は密接に関係していきリアルな実在と信仰されていたわけです。その後神が死すという潮流があると「実在」は「存在」に変化します。

 日本語の場合は今も昔も「神」は「オワシマス」であって日本語の「存在」は西欧流の理解と日本古来のとらえ方の両意義が共存しているように感じられます。

 「存在」という言葉に比べると「実在」という言葉はあまりにもリアルな現実表現で当たり前にあるものに対してエネルギーを使います。

 当然にあるものについては「イマス」であり、否定・肯定はなく問う必要を感じません。

 錯覚である。誤謬である。認識不足である。知識不足である。軽薄である。

 と言われる以前に、己に宿る性(さが)に思う。

 このように語ってしまう私。私自身は唯一絶対の神を信じる者ではなく、ある意味無神論者です。しかしそういう私ですが、日の出に手を合わすこともあれば、仏に手を合わすこともあります。合掌の向こうに神の存在、仏の存在を感覚的に有形的に在るののとして認識しているわけではなく、「そういうもの」として体得しており体現しているわけです。

 言葉を変えれば精神と身体のおのずからの体現です。

 それはある意味現実にみる働きの様とでも表現できるでしょうか、語れないものを語ろうとするジレンマがそこにあります。

 高名な西洋の哲学者は「論理空間は、可能性として成立しうる総体」だと語ります。そして「論理空間の限界こそ思考の限界に他ならない。」とも言います。現実というものは可能性の内に表出しており、顧みれば“こんなこともありえた”“あんなこともあった”と可能性の内に刻まれた現実認識です。

 ある哲学者は「現実を取り巻く広大な可能性を了解し、そんな可能性の中のひとつがこの現実なのである」とも言っています。

 高名な哲学者とはウィトゲンシュタインで、ある哲学者とは「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」(哲学書房)を書いた野矢茂樹さんです。

 「事物が自立しているのは、可能なすべての状況で登場するのだ。しかしこの自立の形式は、事態とのつながり形式であり、非自立の形式なのだ。(言葉が、2種類の仕方で----つまり「単独で」と「文中で」----登場することは、不可能である)」(ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』丘沢静也訳・光文社文庫 2.0122)

 「オワス」という日本語、今は「イマス」ですが、今まさにそこに有る現象を表象し語ります。認容し認識する以前にそう語ります。

 今まさに体験する精神と肉体が味わうその時

 「論理空間は可能性として成立しうることの総体」

とウィトゲンシュタインは言うが、「可能性」という言葉は対概念の「不可能性」がなければ語れない。確実か不確実か、確定か不確定か、と確かさの尺をどこまでもどこまでも堅持すると「世界は現実に成立している総体」としか解せなくなる。

 現実化の中に確定されるもの、確実なもの、可能なもはあるのか、と問うこと自体が後付けの語り。

 現実を可能性で支配することができるかという疑問を持ちます。可能性で満ち足りているのが現実。視点の置き所(視座)がつかめません。

 可能性とは確実性の内にあり、不可能性とはその逆で不確実性の内に意味が生まれます。

 量子力学では不確定性が語られますが、現実には確定されたものとして認識、理解されるものが数多くあります。それはどこまでもどこまでも「不確定」という対語があってのことです。

 可能性とはそもそも確実性が約束された現われで現実了解されるのだと思います。しかし現実には確実性で約束されないものごとが総体としてあるわけで、過去における不可能性の顕現化が現実ともいえるわけです。

 只中という一刹那の今は、確定されないものが生(あ)る事態でもあり、確定されたものが在(あ)ることでもあるのです。したがってその逆も刻まれているということにもなります。

 「実在」と「存在」から離れた話になってしまいました。

 日本語の「坐(イマ)す」「有(あ)ります」という言葉は、主語なく会話に登場させることができます。この世は論理空間である必要はなくありのままが現実を支配するからなのだと思う。

 意味不明な話をしてしまいましたが最後に、日本人は「神は存在する」以前にやまと言葉では「神は御坐(おわ)す」といい、聖書には「まします」などと訳されます。このような表現は否定の問いを発する以前の表現に思えます。森羅万象に観るもの、八百万の神々の対して存在否定を伴わない表現で捉えていた、そういえるのではないでしょうか。

※思いつくままに綴る癖があります。


年輪のない生物は存在しない

2018年10月13日 | 哲学

西田幾多郎先生の詠んだ歌に

あさに思い 夕に思い 夜におもう思いにおもう 我思(わがおもい)かな

人は人 吾は吾なり とにかくに吾がゆく道を 吾はゆくなり

というものがあります。

 この歌について「人からどう思われるかはともかく、自分の道を歩みながら、自分にとっての問題を考え、そして論文を書き続ける。そんな西田の姿と心意気が伝わってくるような歌ではないか。」と教育哲学者櫻井歓さんは著『西田幾多郎~世界のなかの私』(朝文社)で語っています。

 明治・大正・昭和の時代を生きた一人の哲学者。西洋哲学を理解しながら己の魂の中から沸き上がる情念と表現できる叫びのような文体に見えます。『善の研究』には「情念」という言葉がところどころに記述します。言葉の選びは個性です好き嫌いがあって当然な話です。

 西田先生の有名な言葉に、「哲学の動機は“驚き”ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。」(「無の自覚的限定」)という一文があります。自己の人生において起きる出来事、そこには精神的、肉体的な情動が浮き出し、感慨を込めた哲学が現れたということでしょうか。

 各個人の持つ観照機能が何事かをとらえたとき、哲学を試みたくなります。小林秀雄は西田先生の論文を日本語とは思えないと評するも一流の哲学者とも評価しています。そして最晩年小林が興味を持っていたと思われるフランスの哲学者メルロ=ポンティの思想は、どこか西田哲学に重なるところがあることを前回書いたところです。 

 メルロ=ポンティは、「存在するという語には二つの意味があり、そしてこの二つの意味しかない。物として存在するか、意識として実存するかのいずれかである。この考え方に対して、自己の身体の経験は、両義的な存在様態があることを告げ知らせる。もしも身体を三人称のプロセス、たとえば「視覚」「運動性」「性」などのプロセスの<束>として考えようとしても、こうした「機能」を互いに結びつけるもの、こうした機能の外部に結びつけるものは、因果関係ではないことに気づく。これらの機能は一回限りのドラマの中で、互いに関連した区別しがたいものとして存在しているからである。」と『ちかくの現象学』の中で語っています。思うに一回限りの人生ドラマは精神と肉体に何事かを響かせ、何事かを告げているように思います。


 精神と肉体という分別した二元的なところに視点を置いているのではなく、西田もポンティも一括存在を語っているように思います。樹木に刻まれる年輪、そこには宇宙が刻まれているといいます。動物の爪痕もあれば、当然、暑さ寒さの気候変動も細胞の変形として刻々と残されます。刻むという言葉はまさに刻々であることに気づきます。

 最近武田鉄矢の三枚おろしというラジオ番組で「情動」という言葉を聞き頭の片隅に置いていると、最近放送されたEテレの「人間て何で?超AI入門~第1回会話をする」の中でロバート・プルチックによる人間の8つの基本の感情が生まれる情動が紹介されていました。

 喜び・信頼・心配・驚き・期待・悲しみ・嫌悪・怒り

これらの情動が組み合わさって感情は生まれるというのです。情動というものは人間の肉体的な変化と密接に関係し、脳内機能だけで形作られるものではありません。

 胃の痛みを感じストレスを思い、ストレスを持続させると逆に痛み、精神も病み、まさに身も心もボロボロになって行きます。

 AIは人間になれるか? 

 人間になるには、肉体を持ち、感覚、感情をもって、心の痛みの理解ができなければならないでしょう。二分化されない一括存在でなければならないと思う。

 AI研究を書いた書籍は数多くありますが、その中の一冊に三宅陽一郎著『人工知能のための哲学塾』(BNN)という書籍があります。別に東洋編もあるのですがこの本は西洋編で西洋の哲学者の思想をAIの制作に応用できないかというもので個人的に興味を持ちました。

 注目するのはこの本の最後に登場する哲学者で、それがメルロ=ポンティなのです。別本の東洋編があるのですが西田哲学は登場せず残念ですがその視点の置き所が素晴らしいと思いました。

 たらたらと訳の分からない話を毎回書き綴るのですが、思うに、AIに「情動」が組み込められなければ人間にはなれないように思います。年輪のない樹木はないように、生命体には刻みが必要不可欠に思います。そしてある意味、情動がなければ人間になれずで、

 年輪のない生物は存在しない。

ということになるのではないでしょうか。


あらたうと刻々に感ずることもある

2018年10月09日 | 哲学

 今日も夜明けととも目覚めます。部屋に目を向ければそこには本などが存在し、難しく表現するならば意識として実存する私が仰臥から起き上がります。刻々とことは進み一日が始まる実感を得ます。

 当然のことですが過去・現在・未来という言葉があり、私はよく時間が流れるなどと表現し、今現在が大切などと文章を書くことがあります。頭の中にそのような表現に値するものごとを表象し書いているのですが、時間は全く個人的な感覚時間で過去は止まった映像の連続のように想え、未来は止まっているようですが映像は過去よりも動きがあるように思います。

 刻々の今は、正確(時計の刻みに身を置いて)な時の刻みの中に体感し病的な夢心地や飲酒によるゆがみも、今現在ありません。パソコンを開きある弁護士さんのブログを読む。そこに評論家の今は亡き小林秀雄の『モオツァルト・無常という事』に書かれている次の文章が幼少期より気になっていた、ということが書かれていました。

それは次のような文章です。

「…思い出が,僕らを一種の動物である事から救うのだ。
 記憶するだけではいけないのだろう。
 思い出さなければいけないのだろう。
 多くの歴史家が,一種の動物に止まるのは,頭を記憶で一杯にしているので,
 心を虚しくして思い出すことが出来ないからではあるまいか。
  上手に思い出す事は非常に難しい。だが,それが,
 過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という
 蒼(あお)ざめた思想(僕にはそれは現代における最大の妄想と思われるが)
 から逃れる唯一の本当に有効なやり方の様に思える。…」

特にこの中に書かれている、

「過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼ざめた思想」

が意味するところが解せずに気になっていたようです。

 最近この長年の疑問を心中に置きながらも忘却してしていたのですが、弁護士さんの大学に通う娘さんから授業で西田幾多郎の『善の研究』の中の「純粋経験」について問う宿題を出され困っているという相談を受けたことから、再度西田哲学を復習したそうです。

 弁護士さん小林秀雄が西田哲学の文章を日本語ではないと酷評していたことを知っていたこともあるのですが、それは小林が語る次の話です。

 「西田氏は、ただ自分の誠実というものだけに頼って自問自答せざるを得なかった。自問自答ばかりしている誠実というものが、どのくらい惑わしに満ちたものかは、神様だけが知っている。この他人というものの抵抗を全く感じ得ない西田氏の孤独が、氏の奇怪なシステム、日本語では書かれておらず、勿論外国語でも書かれていないという奇怪なシステムを作り上げてしまった。氏に才能が不足していた為でもなければ、創意が不足していたわけでもない」(「学者と官僚」新潮社版全集第七巻短文)

 「飴の様に延びた時間という蒼ざめた思想」という話は上記の話とは重なるものではありませんが、ブログ作者の弁護士さんは次の西田の文章を重ね合わせるとその意味するところがわかったといいます。その西田の文章とは、

「…過去は現在に於て過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らないものであり,
 未来は未だ来らざるものであるが現在に於て既に現れて居るものであり,
 現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し,時というものが成立するのである。
 而してそれが矛盾的自己同一なるが故に,時は過去から未来へ,
 作られたものから作るものへと,無限に動いていくのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。…」(「絶対矛盾的自己同一」1939)


という有名な文章で、小林が語るように「考えなければならない」調の奇怪なシステム文章で、確かにここでの「時」は小林秀雄が語る「過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼ざめた思想」はここにあるのではないか、弁護士さんはそう思ったそうです。

 私のこのブログの最初に書いた時間表現も考えてみれば飴が延びた時間的表現と言えるかもしれません。

 話は変わりますが以前ブログにも書いたことですが、小林秀雄は没後自宅の書籍を整理していた関係者が、書棚にメルロ=ポンティの著書を発見しそこに小林の書き込み等があったことを確か『思想』か何かの小論に書いてあったことを思い出しました。生前は一切メルロ=ポンティについて書いたことも話tこともない小林、何が彼を惹きつけたのか。

 メルロ=ポンティといえば身体図式、両義的という言葉が浮かび、身体それ自身が存在した時点で、主体もあり客体でもあると語っている。時間に関しては「各時点の過去と未来とを統一的に通覧することはできない」ともその思想っていることから、飴の延びた時間はメルロ=ポンティ愛すべき思想と、彼をひきつけるものがあったことは確かに思えます。

しかし西田哲学を愛する私からすると、西田哲学は「奇怪なシステム、日本語では書かれておらず、勿論外国語でも書かれていないという奇怪なシステムを作り上げてしまった。」「過去から未来に向かって飴(あめ)の様に延びた時間という蒼ざめた思想」なのかという疑問がわきます。

 個人的理解においては西田哲学に重なるものをメルロ=ポンティの思想は持っていると思うのですが、小林秀雄はその後西田の著作には触れずことなく、過去文書が旧態依然、小林の語りを継承しているように思います。

 敬愛する藤田正勝先生の書かれた著書に次の西田論があります。

 西田によれば、現在とは、過去や未来から切り離された単なる現在、弁証法的な歴史の一地点ではなく、そのなかには無限の過去と未来が、つまり時代を形成する種々なる傾向が同時存在的に含まれている。円のなかにさらに円が描かれていくように、現在のなかにさらに現在が限定されていくと言ってもよいであろう。「無限なる世界の重畳」とはという表現はそのことをいい表している。過去や未来が、あるいはそのなかにある種々のなる傾向が同時的存在的であるが故に、時代はつねにそれ自身のうちに自己矛盾を含み「自己自身の中から自己自身を越えていく」(新版『西田幾多郎全集』第8巻p217)。この世界の無限な重畳とその超越、つまり弁証法的な歴史とを指して、「無限に広がる無限の現在」ということが言われていると考えられる。(藤田正勝著『西田幾多郎の思索世界』岩波書店、p268-p269)

ある体験の中にその時その瞬間にハット合点を感じることがあります。

 一刹那の合点は、「無心即全心」(鈴木大拙)の現れとも言えるかもしれません。「無限に広がる無限の現在」「永遠の今」とも・・・。

 古典の話になりますが、松尾芭蕉が日光東照宮に参詣したときに詠んだ

あらたうと青葉若葉の日の光

という句があります。

 あらっ、なんと尊いことだ。この日光の地に、青葉も若葉も日の光を一杯に受け、輝いている。

 古語の「あら」は、今もハット何事かに気づく時の「あらっ」と同じ、まさにその瞬間。そこに西田流に言えば永遠の今が感じられたわけです。青葉若葉日を浴び輝いている、そこに尊さが現れる、句は二重の表現だと批判的な方もおられるようですが、私は意味を与えてくれる句です。

 「純粋経験」は『善の研究』に語られる西田哲学の初期段階の言葉、寺院の鐘の音と解釈する以前に聴覚に響く「ゴォーン」の只中。それは一刹那に現れる体感でもあります。

 V・E・フランクルならば体験価値というでしょう。信原幸弘著『情動の哲学入門』は事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」と解します。「情動」は芭蕉に現れ、体験価値はフランクルとともに体験群類の様態として学ぶ側で理解されます。

 思考視点をどこに置き、何を志向するか。実に人間とは面白い。


悲劇的ディレンマから思いつくままに

2018年10月05日 | 哲学

 Eテレのモーガン・フリーマン「時空を超えて~AIは“神”になれるか?」の中で「AIが寿命を予測(その時 患者は)」と題して取り上げた話をこの項目だけを書きましたが、内容はAIが関与する心臓移植希望の老人の移植優先順位の話でした。

 似たような年齢の男性患者のどちらかを抽出するかをAIが選び出す、というもので拒否反応の条件もクリアーした二人の男性のどちらかが移植手術を受けることができ、施術後の様子も放映されていました。

 選択し決定する。決めて選ぶ。伝えるのは医師で、決定者はAIです。

 何が選考における条件かというと、術後の命の長さ、余命の長い人はどの人かということが重要なこととされているとのことでした。

 このような現実を見ると、いっときの本能や感情に左右されことなく、物事を論理的に考え、自己の行動を律するといういわゆる理性がそこに働いているということなのか、と思ってしまいます。

 命の尊さは長短ではないことは誰でも知っています。それが理にかなっているから万人がその言葉が意味するところを承認します。

 人間の目からすれば悲劇的ディレンマです。有名なトロッコ問題やナチスの親衛隊に捕らわれたソフィーと2人子供(男・女)に「ガス室送りは1人だけ」とその決定権をソフィーに告げるという創作物語、受ける衝撃度は多少差がありますが、第三者の目からすると悲劇としか言いようがありません。

 先の心臓移植、移植を受けた人はテニスを楽しみ長命を願い、受けることができなかった人は悲観し、見るからに余命を気遣ってしまいます。

 心臓移植の件ですが、「情動」はどこに現れるのかと考えてしまいます。AIの結果発表に機械ですから「情動」はありません。伝える医師が単純な伝達者として「AIはそのように結論付けました」と言えるものは別格として、血も涙もある医師ならば受けることにできない方の面接時には相当な精神力を必要とするように思えます。

 AIは指定された条件で情報からその結論を抽出したわけですから、価値判断を下したように見えますが、価値などと表現するのは私の勝手であることに気づきます。

 AIはひたすら計算しそのような結果を導き出すだけです。「命の尊さに長短はない」という聖なる言葉が通じる相手ではありません。ナチスのアイヒマンが語った自己の機械論みたいな冷酷さが重なってきます。

 気象現象の予測、多くの人命や財産に被害を発生させる自然災害の現実に「情動」という言葉を探します。「情動」が起きるのは対する人の中にしかないことに気づきます。AIも自然現象も同じではないか。ある人には恵みを与え、ある人には災厄を与える。

 AIは情報ネットワークを通じて導き出し、自然は動きの易きで展開します。地震などは地盤のズレを易き所とし、ままに動く。雨雲は気圧、気温等の動き易さの中で生まれ、難さがあればなにもないままに、です。

「悲劇的ディレンマ」から何事かを語ってきましたが、生物の進化には意図があるのか。機械論で説明がつくのか。別な問題にスイッチが入ります。

 何を信じ、何を知ろうとするのか。

 不確定で満たされたありのままの存在。動静は前方に現れる。

 実存主義の創始者とも言えるキルケゴールは「幸福という部屋の扉は外側に向かって開く」という言葉を残しています。

 外側の意味するところはおのずとわかると思いますが、不確定で満ちるこれからです。

 扉を開くのも自由、これからするも、しないも自由。

 


祝福され、清められたるもの

2018年10月04日 | 哲学

 山本七平さんの『ある異常体験者の偏見』(文春文庫)に「不確定要素」という言葉が書かれている。
 昭和の大戦経験からのある意味情動の姿に見えます。挙国一致、八紘一宇、皇軍の進軍と歴史を刻んだ時代、そこには「民衆の燃えたぎるエネルギー」という不確定要素も何らかの方程式で確定要素に直す。「精神力」も「武器」というわけのわからない方程式により確定要素として盲目的に突き進んでいた。

 パワハラ問題が話題になりますが、精神力で戦うこと、相手を倒せという不確定要素が前面に押し出されると、もう一切の分析も計算も討論も不可能になり、無防備な相手を押し倒す。

 当時マッカーサーは「天皇は十二個師団に相当する」と言ったそうだ。彼は天皇という不確定要素を十二個師団という確定要素に換算しただけと、。山本さんはいいます。

 確定要素とは確かに科学的にも物理的にも形として現れますが、不確定要素は形として具体的にそこに現れるものではありません。したがって不確定要素は、「ある」といえばあり、「ない」といえばないわけです。

 神国日本であるという虚像と民衆の燃えたぎるエネルギーという不確定要素が兵力という確定要素に化けてしまう。疑う余地がないほどに勝敗はわかっていても一抹の不安を払拭してしまう。

 この情動は、何を価値あるものと選択したのでしょう。理性を持ち出すまでもなく当たり前のこととして時を刻む、気がつけばその愚かさに打ちのめされ、そういう教化があったから、と語ることになります。

 人間存在と問い、その本質を問いたくなります。そして賢い自分でありたいと希求するわけです。

 漢字学者の白川静先生と哲学者の梅原猛先生の対談集『呪(じゅ)の思想』(平凡社)の中で白川先生が「存在」という漢字の成り立ちについて説明される個所があり、

 「存在」というのは、神聖化された土地と人、という意味。単にある、というのではなくてね。「祝福されたるもの」、「清められたるもの」というような意味です。

と語っています。意味するところはその本質は「祝福され、清められ」のたる「もの」ある、ということのようです。

「在(あ)る」ことは「有(あ)る」である、ということでしょうか。日本語では「そんざい」で、現代中国語では「シェンツァイ」と発音したと記憶しています。

 対談の中では梅原さんが「西洋哲学で一番よく読んだのがマルティン・ハイデッガーの『存在と時間』で、「存在」にそういう意味があるとしたら、大変面白いです。」と応えていましたが、「存在」についてはしばしば言及したくなる哲学の思索課題です。

 祭事から成立した漢字ようですが、人間存在と問うとき宗教的実存の「祝福」「清」を考えてしまいます。

 今の世の中、民衆の力とは票数という確定要素で決まります。「絶対阻止という民衆の声」という不確定要素は一部では確定要素として顕現しますが、それは全体の確定要素にはならず、背景の一部として不確定要素に還元してしまいます。

 「ある」ようでいて「ない」もの。

 人は常にまどろ(微睡)む、有りて在り、成りて在るものなのでしょうか。


情動について

2018年10月02日 | 哲学

 個性的な俳優の武田鉄矢さんのラジオ番組に「武田鉄矢の三枚おろし」というものがあります。武田さんの人生語りが面白くて時々この番組を聞くことがあるのですが、個人的には用語として使わない「情動」という心理学用語について最近語っていました。

 哲学者信原幸弘先生の著『情動の哲学入門-価値・道徳・生きる意味』(勁草書房)を参考に「情動」についてとても面白い内容でした。

 「情動」という言葉を耳にして快不快の感情的な起伏の動静を意味するのかと思うのですが、

この著は第一章「立ち現れる価値的世界」の文頭から引きつけるものがあります。

 「私たちに立ち現れる世界は、色や音、匂いなどに満ちあふれている。真夏の公園の木陰で涼んでいると、サルスベリの赤い花が見え、池を泳ぐ水鳥の鳴き声が聞こえ、バーベキューの肉の匂いが漂ってくる。しかし、私たちに立ち現れるのはこのような事物の事実的性質だけではない。それに加えて、さまざまな価値的に性質も現れる。・・・略・・・私たちに立ち現れる世界は事実的性質で満ちあふれているだけではなく、価値的性質も満ちあふれている。」

 現象学における立ち現れに向き合った時の表現を見るようで面白い。実存は本質に先立つなどという思考視点とは離れ、事実的性質、価値的性質をそこに感じ取るところがいい。

 個人的に「情動」という言葉は使うことがないといいましたが、一般的な辞書では

 恐怖・驚き・怒り・悲しみ・喜びなどの感情で、急激で一時的なもの。情緒。

などと解説されています。感情の起伏、情緒不安など心の様とも言えそうです。

 信原先生は、この本を書くにあたって「情動」について次のように説明しています。

 魅惑感や渇望感などを含めるためには、情動の範囲をかなり広く理解することが必要である。しかし、快感や苦痛、嫌悪感などを情動に含める場合のように、情動を広く理解することもしばしば行われる。ここでは、情動の範囲を広げて、事物の価値的性質「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」とよぶことにしたい。

そして、「理性は情動の補佐役」とも言います。そして事故などで小脳の機能を失った人は、情動を失いおとなしい性格になってしまい、物事を行う上の判断能力が落ち、なかなか決定できない人になるとのことで、情動は価値判断とも密接に関係があるとも言います。

 争いごとは理性的に回避したいと思いますが、人はどうしても自分の価値判断を先行させるようで情動を抑えがたくなるようです。

 「悲劇的ジレンマ」の話も実に興味深い。ウィリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』を例にそこでくり広げられる母の葛藤、息子と娘どちらを引き渡すか理性・本能が荒れ狂う。結局そこに価値判断で選択された結果が現れる。小説とはいえ凄まじいものがあります。

 武田さんは本当に学ぶ人ですね。