個人のブログを立ち上げてからもう何年が過ぎただろう。若いころは365日書き続けたこともあったが、今では月に1回程度アップすればまだよい方でほとんどアップする気概が失せてしまいました。
哲学的な課題を思考しなくなったわけではなく、その熱はいまだ健在です。日々起こる現象に目を向ければ課題は向こうから問いかけてくれます。
哲学的な課題を思考しなくなったわけではなく、その熱はいまだ健在です。日々起こる現象に目を向ければ課題は向こうから問いかけてくれます。
今月もあと4日ほどで終わりますが、今月の100分de名著は「河合隼雄スペシャル」でした。20歳ころから河合先生の著書に接しており4回100分の番組とテキストを読み、私の思考の根底には河合先生からの影響がかなりあると思いました。
Eテレのこの100分de名著ですが再放送の月もあるものの欠かさず見ており、個人的な知識欲を満たしてくれています。NHK出版ではこの番組関連で時々別冊を刊行しており今月は『集中講義宮沢賢治』が出ています。
宮沢賢治の世界も私の興味を持つところで今月はブックオフで偶然格安の『グスコーブドリの伝記』(くもん出版)に出会い購入、共時的な経験をしていました。
別冊の『春の修羅』の解説を読んでいると次の記述が気にとまりました。
・・・「わたしといふ現象」と言っているところがやはり特殊です。「わたしは」現象にすぎず、本質は別であるというのです。・・・
著者の日大芸術学部山下聖美教授の意見ですが「本質は別」という言葉に人間存在の本質の主張を賢治は主張しているかのように読み取れますが、どうも違和感を持ってしまいました。
実存における「本質」の後先(あとさき)を語るようで、どうも西洋的な哲学思考が先行しているように思えます。
先の「河合隼雄スペシャル」の最終では『ユング心理学と仏教』が語られましたが、華厳経の世界では「無自性」という思想があります。まさに「わたしといふ現象」はうつろいゆく現象そのものであるという話で、確たる本質なる概念が成立しません。根底の「理」が「事」という現象を作り出し、作るそのことさえも主語なき動的な現象ということです。
賢治の表現では、
わたしといふ現象は
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
仮定された有機交流電灯の
ひとつの青い照明です
となり、個人的に
「明滅する白熱電灯」
と読み替えます。
風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
という賢治の言葉がそのように読み替えさせます。
自我意識が、何事かを確定させなければ気が済まない衝動に駆り立てます。人間の創造する癖は苦悩という病を招来させ河合先生は、フロイトもユングもこの「創造の病」からその心理学を構築してきたと言います。
明滅する白熱電灯と内に自覚するか、それともそこを起点に志向性を外に向けるか。
創造の病は、前回の「本当というのは一番最後にあるという錯覚」にも通じるところがあります。
本人は錯覚とは気づきませんが、確信の中に身を置くそのこと自体から逃れることはなかなか難しいところがあります。
オウムの死刑囚の全員執行
するものされるもの
本当というのは一番最後にあるという錯覚
どこまでもどこまでも人間というものは、明滅する白熱電球です。