思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

明滅する白熱電球

2018年07月28日 | 哲学
 個人のブログを立ち上げてからもう何年が過ぎただろう。若いころは365日書き続けたこともあったが、今では月に1回程度アップすればまだよい方でほとんどアップする気概が失せてしまいました。


 哲学的な課題を思考しなくなったわけではなく、その熱はいまだ健在です。日々起こる現象に目を向ければ課題は向こうから問いかけてくれます。

 今月もあと4日ほどで終わりますが、今月の100分de名著は「河合隼雄スペシャル」でした。20歳ころから河合先生の著書に接しており4回100分の番組とテキストを読み、私の思考の根底には河合先生からの影響がかなりあると思いました。

 Eテレのこの100分de名著ですが再放送の月もあるものの欠かさず見ており、個人的な知識欲を満たしてくれています。NHK出版ではこの番組関連で時々別冊を刊行しており今月は『集中講義宮沢賢治』が出ています。

 宮沢賢治の世界も私の興味を持つところで今月はブックオフで偶然格安の『グスコーブドリの伝記』(くもん出版)に出会い購入、共時的な経験をしていました。

 別冊の『春の修羅』の解説を読んでいると次の記述が気にとまりました。

 ・・・「わたしといふ現象」と言っているところがやはり特殊です。「わたしは」現象にすぎず、本質は別であるというのです。・・・

 著者の日大芸術学部山下聖美教授の意見ですが「本質は別」という言葉に人間存在の本質の主張を賢治は主張しているかのように読み取れますが、どうも違和感を持ってしまいました。

 実存における「本質」の後先(あとさき)を語るようで、どうも西洋的な哲学思考が先行しているように思えます。

先の「河合隼雄スペシャル」の最終では『ユング心理学と仏教』が語られましたが、華厳経の世界では「無自性」という思想があります。まさに「わたしといふ現象」はうつろいゆく現象そのものであるという話で、確たる本質なる概念が成立しません。根底の「理」が「事」という現象を作り出し、作るそのことさえも主語なき動的な現象ということです。

賢治の表現では、

 わたしといふ現象は
 仮定された有機交流電灯の
 ひとつの青い照明です

となり、個人的に

 「明滅する白熱電灯」

と読み替えます。

 風景やみんなといっしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける

という賢治の言葉がそのように読み替えさせます。

 自我意識が、何事かを確定させなければ気が済まない衝動に駆り立てます。人間の創造する癖は苦悩という病を招来させ河合先生は、フロイトもユングもこの「創造の病」からその心理学を構築してきたと言います。

 明滅する白熱電灯と内に自覚するか、それともそこを起点に志向性を外に向けるか。

 創造の病は、前回の「本当というのは一番最後にあるという錯覚」にも通じるところがあります。

 本人は錯覚とは気づきませんが、確信の中に身を置くそのこと自体から逃れることはなかなか難しいところがあります。

 オウムの死刑囚の全員執行

 するものされるもの

 本当というのは一番最後にあるという錯覚

 どこまでもどこまでも人間というものは、明滅する白熱電球です。

本当というのは一番最後にあるという錯覚

2018年07月19日 | 哲学
 テレビのクイズ番組で写真と画像が時間経過とともに変化した場所の発見を競ったり、モザイク場所のモザイクごとの面の明暗が異なるように見えていても実は同じ色調のものであるという視覚の不思議を語り、人間の「錯視」「錯覚」を話題にするものがよくあります。

 他に山道に落ちている小枝やツタが蛇に見えたり、日の出の太陽、昇る満月が大きく見える現象も人間の視覚の錯覚によるものと説明されます。

 見たものが実際とは異なるという誤りの認識が生じることがよくあるのは何故か。事実そのままに見えればそれでよいのに、何故か、人間の日常生活に必要な認識回路、思考回路は誤ることを前提になっているようで、人間は誤れる存在として進化してきたように思われます。

 言葉を変えれば進化論における利便性による淘汰を考えると錯視、錯覚は生命存在にとって効率的、合理的な選択であると考えてもいいのではないかということです。

 ものを認識するという場合、個々のもつ知識や経験則によるが、直感という短時間の反応が先立ち、自己保存において危険性の認識には緊急の直感が必要だと考えられます。
 危険からの回避は善し悪しを異なる次元の錯視、錯覚、錯誤が不効率と思われますがより速い事態認識にとってなくてはならないことのようです。

 そう考えると人間には視覚上で起こる錯視、錯覚だけではなく、ものの考え方、捉え方でも錯覚のようなことが起こります。詐欺の被害に遭うということも詐言による錯覚が次々に頭の中で物語を形成し、オレオレ詐欺などは相手の声そのものが実の子や孫の声に聞こえ、身内が金銭トラブルに巻き込まれているという状況を創ってしまいます。

 そこには被害者の暗黙の「正しい」判断が行われます。

 まさに「人間とは想像する存在」であって正誤判断でいうならば「正しさ」の物語が錯覚により現れるのです。

 又吉直樹さんのヘウレーカ「本当のことは目で見えない」(Eテレ)で視覚の錯覚からこのような思考における錯覚の話になり、そこで又吉さんが、

「本当というのは一番最後にあるという錯覚」

ではないかということを話されていたが、真面(まとも)で、真っ当な生き方は個人の錯覚による現れとも言えそうです。

 善人にも見え悪人にも見える。救世主にも見え悪魔にも見える。心ゆり動かされて時々の最終判断の形がそこに創り出されているということになります。

 番組タイトルの「ヘウレーカ」は雑誌の「ユリイカ」とともに「何かが解った」という意味があるらしくアルキメデスが浮力の発見したさにに裸で街中を「ヘイレーカ!ヘウレーカ!」と叫び回ったことに由来するそうである。

 そもそも事態の状況判断の過程で紐解かれて行き、「分かった」「判った」「解った」と紡ぎだされ成り立つことが錯覚の最終章と言われても、この錯覚それ自体は私の使用語ではなく第三者の解釈や指示説明です。

 「本当というのは一番最後にあるという錯覚」

という又吉さんの言葉自体、他者からの視線で解されています。

 最近話題になったオウム信者の死刑執行、心の平安を求めて信じ切る。洗脳されたといわれても錯覚でもなく教祖様の言葉は詐言ではなく「まとも」なものでしかなかった。
 苦しみから逃れるためには最終の錯覚に陥るのも一つの術。信仰というものが形成されるのも人間の存在には不可欠なものということになりそうです。