思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人間が作り出すもの

2018年09月30日 | 哲学

 タイトルを「人間・AIは神になれるか?」と書こうと思いましたが少々誤記が強いように思えたので変更しました。

 「V・E.フランクルの有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端なので・・・」という論を目にして(これはキルケゴールの宗教的実存という視点であると指摘するものであると思うが)人にとっての「神」について考えさせられます。

 「折衷的で中途半端」という論述の背景に、二元的な選別的別思考がみられ、あやふやな、もんもんとした論に、おさまらない不快感が湧くのでしょう。

 西田哲学では、宗教の根底にあるもの、哲学の根底にあるものも、至は同一を成すのではないかという考え方があり、個人的にも同様に考えています。

 フランクルは『心理的告白から医師による魂への配慮』の中で次のように述べています。これは

 (「イザヤ書45・15」に書かれている「隠れたる神」という表現がある)に庇護されていることを自覚している宗教的な人間に対して、われわれは何も言うべきものももたないし、何も与えるべきものも持たないであろう。

と語っています。文中の「われわれ」とは精神科医を指します。私の好きなのはこの文章の「原注」なのですが、次のように書いてあります。

 そもそも神については語りえず、たゞ神に向かって語りうるのみではないか、と言われるが、これはまったく疑問である。われわれはルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せねばならない」という命題を、単に英語から翻訳するだけではなく、次のように不可知論から有神論に翻訳することもできるのである。
 語り得ないものに向かっては祈らねばならない。(上記の文章も含め『実存的精神療法・人間とは何か』山田邦男監訳p383・p412)

 ここに語られる「祈り」という言葉は非常に胸打つものがあります。

 日本人なら型的には合掌の姿で、様態として戦地に向かう息子と背にまなざしを送る母の姿。野仏にそっと手を合わす姿。昇る日にそっと手を合わせる姿。様相と私は何を思うのか。

 「折衷的で中途半端」というまなざしで捉えたくないものがあります。言葉で語れは離れて行く・・・たゞ祈る姿が様態・様相の枠を超え・・・情感として善しとするものがあります。

 精神は、その根源、その根底において、非反省的な、そのかぎりにおいてまさに無意識的な純粋遂行そのものなのである。したがって、われわれは、この精神的無意識を、精神分析がもっぱらかかずらっているような欲動的無意識から厳密に区別しなければならない。ところでこの精神的無意識、、無意識の精神性には、無意識的な信仰、無意識的な宗教性も含まれる。---これは超越に対する人間の、無意識定的で、むしろ往々にして抑圧された生得的な関係がある。(上記書p447)

 私は精神科医ではないので参考にならないとは思えない。個人的に実存精神療法は実存哲学と根底を考察する上において大いに参考にしています。

 人間進化において何か根底に目的論的な何ものかがあるとは思えないが、そう成るような移行が刻まれているように感じます。

 Eテレの「モーガン・フリーマン時空を超えて」という番組がありその中に、

 ・人間にとって“神”とは何か?
 ・神が“進化”を創造したのか?
 ・人間は神になれるか?

というシリーズがありました。今の科学・物理の世界では何が行われているのか、その中で語られる“神”は、精神的無意識や宗教的実存という形而上的な理解にとても参考になりました。

 最近「AIは神になれるか?」と問いを投げかけられました。

 AIは進化における、「縫い針」を作り出したことと同じで道具だということです。人間における他己を形作るのは個々の意思であり意識です。

 神は、思うに画一しない有りて有る存在で、時空において知悉する存在と有るものとして承知したい。

 人間の個別を形作る意識をAIにも作り出そう研究がある。自律的AIの制作であです。

 未来にそのようなものが完成することができたとすると、個々のAIが存在することになります。

 「人間は神になれるか?」「AIは神になれるか?」

 思うに、不可能性が作り出す自由幻想に思える。

 


月影に思う

2018年09月26日 | ことば

 最近の雨降りの天気が続き、夜空を見上げても雲ばかりです。中秋の名月も見ることはできず残念です。
 芭蕉の句に「月影や 四門四宗も ただ一つ」があります。「月影(つきかげ)」は、秋の季語ですがやまと言葉で私の好きな言葉です。

goo辞典では、

1 月の形。月の姿。月。《季 秋》「―をくみこぼしけり手水鉢/立圃」

2 月の光。月のあかり。月光。「淡い月影」
 
3 月光に照らされて映る人や物の姿。

とありました。

 影は影でも西洋的な影(shadow)ではなくあくまでも「光」を意識して語る言葉です。

 先に書いた芭蕉の句ですが更級日記の解説サイトにその意するところが掲載されていました。

 それによると、四門も四宗も意味は明白ではありませんが、四門とは、天台宗の場合、真理に至る四つの立場のことを言い、有門(うもん)・空門(くうもん)・亦有亦空門(やくうやくくうもん)・非有非空門(<ひうひくうもん)のことを示すようです。また密教では、曼陀羅の四方の門。東南西北を修行の段階に配して、それぞれ発心門・修行門・菩提門・涅槃門と名づけているようです。

 別意味では、信濃の善光寺はそもそも4つの寺の綜合であって、此処の門が四方にあって、それぞれ南命山無量寺、北空山雲上寺、不捨山浄土寺、定額山善光寺への入り口となっていてこれを四門というというのだそうです。そして、四宗は仏教における浄土宗・禅宗・真言宗・律宗など四宗 を指したり、顕・密・禅・戒の四つを言う場合もあるとのこと。

 解説サイトの最後に「芭蕉がどういう意図で四門四宗を言ったのかは不明だが、善光寺の甍を照らしている 中秋の名月は、これこそ真如の月。善光寺という四門四宗の寺を一つにして明るく照らしていて、ありがたい。」と書かれていました。

 日の光は遍く照らし、月の光は遍くという程の広がりはなく淡い光ですが深い問いを投げかけるように思います。


V・E・フランクルは有神論的実存主義者か

2018年09月25日 | 哲学

 あるブログの「実存主義とは何か」という小論がありました。個人的に「実存」という哲学用語に興味をもとことから読ませていただきました。このようにわかりやすく解説できるのは専門家の方に違いないと思います。

 最初に「実存の定義」が書かれていて、終わりのほうに「実存主義と言っても、有神論的なものと無神論的なものがあります。一般的に前者で人気なのはV・E・フランクル、後者ならば・・・ニーチェやサルトルなのでしょうか。ただ、有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端なので、・・・・。」と書かれていました。

 この文面から実存分析精神科医のフランクルは有神論的実存主義と読み取れます。キルケゴールは宗教的実存主義者であることは彼の言葉から確かなことですが、フランクルは明確には意思表示していない、研究家の山田邦男先生は「彼がユダヤ教の信者であると思うがはっきりしない。」旨の話をしています。

 精神的無意識という彼の言葉の中には「理性」「愛」等の言葉とともに「神」をも想定できますが、あくまでも個性における特徴のように思えます。フランクル自身が信仰の人であったかはわかりませんが、著作群には「有神」を物語るものはないように思えます。

 フランクルの思想的な「人は期待されている存在」という言葉の背景に期待という言葉の主語に有神論的となると「唯一絶対神」を想定することとなりますが、フランクルは「自然」と真宗のような自然法爾」的な語っています。

 専門家が「有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端」という言説には個人的に大変勉強になります。今後も理解を深めたいと思います。


希望の魔笛が聞こえる時

2018年09月24日 | 哲学

 前回ブログでギリシャ神話の「パンドラの箱(壺)」の話を書きました。パンドラが明けてしまった世の中を最悪な事態にする魔物が入った箱のふたを開けてしまった話です。

 事態の変移に慌てたパンドラは、最後の魔物(希望)が出る前に蓋をし極限的な最悪事態を回避することができた、という話で世の人々は「希望」という言葉があるからどうにか世の中を生き抜くことができると、いわゆる善事に解するのが普通です。

 箱(壺)の底から聞こえる「私は希望です。」という声、その声は外に聴こえる言葉として存在します。箱(壺)に納められていたものは想像を絶する最悪を招来させる魔物群です。

 外部という空間に放たれ、また時間推移に放たれる。「希望」とは何なのか。今という起点、現在という起点から放たれる善的可能性に思われます。

 感覚的な直感からすると「希望」という言葉の反義語的な様相は現在の只中を表す語ではないかと思います。今現在の不可能性の只中で時間推移に期待する善的様相、それが善的可能性のであるように思うのです。

 人々はなぜ善的可能性を持つことができるのでしょうか。持つことも、持たないことも、関係しないことも選択することをも、今という只中で決意することも、しないことも、傍観することもあらゆる機会を持つことのできる状態に置かれています。

 今現在が不可能性の事態意識にあるからこそ時間推移が可能性を意志させると思うのです。あらゆる方向性を持つ意識、認識の志向性を放つ。選択は自由意志の収斂、集約の一決意ではないだろうか。

 確定されない今現在、未来の事態の起こるであろうという確率。希望はあるのかないのか。

 希望というものが魔笛に聴こえた時、なぜ絶望するのか。

 諦めるか逃避するか、忍従するか。どこに投棄することも自由であるという。

 今現在に立つしかない。

 見極めの覚悟を湧きあがらせたい。


AIの進化

2018年09月23日 | 哲学

 NHKスペシャルで「人工知能(AI)~天使か悪魔か2018~未来予測~」という番組が放送されていました。

1 豪雨災害に新戦力(AIの天気予測)
2 大量はここだ!(漁業で進むAI革命)
3 警察で進むAI革命(未来の犯罪を予測)
4 AIが予測する(未来の犯罪者)
5 東京でも進むAI革命(防犯カメラが犯罪予測)
6 AIが寿命を予測(その時 患者は)
7 アルツハイマー病を予見(あなたは知りたい?)
8 AIが探す未来の伴侶(あなたは知りたい?)

急速に進化し実用化されていくAIの最新情報で上記の8項目についてでした。

 「天使か悪魔か」という言葉に“Laplace`s demon”「ラプラスの悪魔・魔物」という以前ブログに書いた言葉が重なります。

 AIの進化によって行われるさまざまな予測・予知そして臓器移植の優先順位の決定それはまるで天使のようでもあり魔物にもみえます。進化という話は哲学的な問題を提起するもので実際、『進化論はなぜ哲学の問題になるのか~生物学の哲学の現在~(Why does evolution mattere to philosophy?)』(松本俊吉編著・勁草書房)という本も書かれています。その著書の中に「ラプラスの魔物(Laplace`s demon)」が次のように書かれていました。

 ラプラスによると、世界には不確定な要素は一切なく、すべての物体は決定論的に運動する。したがって、もし全知全能者のように完全な知識があれば、世界を記述するのに確立といった不確定的な概念は必要ない。ところが、私たち人間は完全な知識を持っていない。それゆえ、確率概念が必要になるのである。ラプラスはこのように、決定論的な世界観にもとづき、確率概念を私たち人間の無知の表明として解釈した。ちなみに、この全知全能者は「ラプラスの魔物」と呼ばれている。
 しかしながら、量子力学の誕生により、決定論的世界観は大きく揺らぐことになった。量子力学は、肉眼で直接見ることのできないほど小さな対象の変化を扱う理論である。たとえば、一個の電子を壁に向けて発射させ、その電子が壁のどの位置に当たるのかを予測するとしよう。量子力学では、電子の当たる位置を一意的に計算することができない。できるのは確率的な予測である、このことは、発射される電子やその周辺の環境についてどんなに知識があったとしても変わらない。量子力学の誕生以降、量子力学における確率概念の解釈をめぐり多くの議論が繰り広げられてきた。量子力学の標準的な解釈によると、この確率概念は実在の世界を表しており、微視的な世界は非決定論的であるとされる。それに対し、世界はほんとうのところ決定論であり、量子力学における確率概念は世界の実在を表してない、と主張する者もいる。アインシュタインはその一人である。このように、確率をどう解釈するかによって、世界に対する理解は大きく変わるのである。したがって、世界を正確に理解したいのであれば、確率概念の正しい解釈が必要になってくる。

この文章は上記書『進化論はなぜ哲学の問題になるのか~生物学の哲学の現在~(Why does evolution mattere to philosophy?)』の第4章に書かれている森元良太氏の論文からの引用です。

 AIは、情報の集積から予測を引き出すもので、数多くの符合状態が重なれば起きる可能性を結論付けます。

 量子力学の微視的な世界は非決定論的であるということはグローバルな世界のあり方は微細物の集合体で構成された静的動的な現れです。

 ここで思うのは非決定論的な現象が世界の実在の根源的な位置におくことができるかどうか。実に興味を持つところです。

 さて上記の4番目に「AIが予測する(未来の犯罪者)」があります。テレビドラマでも未来に犯罪を敢行する者としてAIがはじき出した人物の犯罪防止を話題にした番組がありましたが、現実になりつつありそうです。

 犯人は供述します、「するしないは私の勝手でしょう」とその自由意志を強調します。しかし、AIは、はじき出すのです、「お前の行動はお見通し」と。

 自民党総裁の継続が党員、関係国会議員によって決められました。この継続決定に関与しない人は国民の大半でAIの予測を聴くまでもなく決定されていたと言えるでしょうが、関係ない人々の淡い希望が報道の内に現れます。

 選択する、選択しない、関与しない、全く関係ない。

 選択のチョイスは三択ばかりではなく無限の事情の内にあります。世の中の理は限りなく確定的ではなく、可能性の期待はそもそも実現不可能を予測しているかのようです。

 パンドラの箱(壺)に残された「希望」という魔物の意味するところは何を意味しているのか。

 信じることと知ること。「信」と「知」とは反義語であることは、小林秀雄先生の言葉を待たずして理解できますが、世の理を知悉できたとしたら何が見えるのでしょう。


気がつけばそこにある存在として

2018年09月15日 | 哲学

 無から有は出ませんが、現れているものは既に有ったものとして存在します。

 私はいつの間にか「われ思う」を感覚し「ゆえにわれ思う」などという言葉を理解できるようになります。

 理解以前の理解が記憶され引き継がれ連続した記憶が思考する私を作ります。今以前の私も今の私も同一人物だと身体の内で感覚します。そういう意味で私はいつの間にか私でした。

 Eテレで放送された「モーガン・フリーマン~時空を超えて~」で放送された「『私』は何者なのか。」という番組について前回書きましたが、より具体的な内容について話を進めたいと思います。

 番組の最初に登場するのはカルフォルニア大学の児童心理学者アンソン・ボブニック、彼女は「人間が初めて自分を認識するのはいつなのか?」という問題について研究を続けています。

 私達は一生をかけて自分は何者かを探求していきます。でも最も重要な部分は人生のかなり初期の段階で学びます」と彼女は言います。1分前の自分と現在の自分が同じ人間であることを大人は当たり前のように受け入れていますが、子供の場合は必ずしもそうではないことを彼女は発見したのです。

 子供は自分が自分であることを理解するのに多くの時間をついいやします。子供が毎日遊んだり冒険したり何かの真似をしたりすることは自我の形成には欠かせない行為で、ボブニックは、自分を一人の人間としてとらえる道すじを探っているのです。

 およそ生後六か月から子供は「鏡像段階」という時期にさしかかります。鏡に映った自分の姿を自分であると認識できるようになるのです。個人差はありますが、およそ3・4歳くらいになると鏡に映った姿と自分自身の体の感覚が一致していることを理解できるようになると彼女は発見しました。

 いつの間にか作られた私は、作るものへと変位し、また作られたものへと変位し連続体の現れとして空間と時間に有ります。過去の経験は話し、未来を語ることのできる連続体である私は、ある意味歴史的身体をもつ現われです。歴史的私は、どこまでも作られたものから作るものへと変位し細胞の朽ちるまで続きます。心の意を作り、思いの意を作り過去を未来を認識します。心の意は過去をふり返り、心の思いは未来の私を作り出します。

 意識は無意識を作り、無意識のうちに日常を歩みます。身体の動作を含め全ての行為が意識によってもたらされるものであったならば百取り虫のような私は一歩も動かないでしょう。動けないのはなく、動かない。意識から無意識へという経過や、意識起点が次々と視座を移行されるから自らの認識ある行為が成立するのでしょう。もしも複数の意識起点が同時に成立するとなると離人の複合体になり「私」はどこにあるのかをも認識することのない病的な状態になってしまいます。

 この意識と無意識の関係や意識の視座の移行はある意味、時間・空間を生みだすのかもしれません。

 常に意識は開かれています。意識清明の状態で認識し認容し敢えてする行為は、不作為は自由意思決定に基づくもので、結果については責任を負うことは自明の事実で、客観的相当性、社会的相当性においても是認されるものならば、異議を唱えるを唱える他人はないでしょう。


西田幾多郎先生の著作を読んでいると、

「歴史の進行は何処までも不可逆的である。作られたものが作るものを作るという歴史的世界は、物質の世界から生物の世界へ、生物の世界から人間の世界へ発展するのである。現実は何処までも決定されたものでありながら、現実は現実を越えて現実から現実へ行く。そこに歴史の動きがある、弁証法的一般者の自己限定の方向があるのである。一が多、多が一ということは、上に云った如く、一と多とが(形相と質料とが)一つのものの程度的差だというのではない。絶対弁証的自己同一として、一が多、多が一なのである。そこに矛盾的同一がなければならない。矛盾的自己同一ということは、作られたものが作るものを作るということである。そこにいつも絶対的方向がなければならない(歴史的自然の方向がなければならない)。」(西田幾多郎全集哲学論文集第二、三種の生成発展の問題から)

という言葉に出会います。

 人間は歴史的身体をもつ歴史的自然の方向に有る実存のように思えます。

 最近では個々のアイデンティティーから沖縄の知事選で話題になる沖縄のアイデンティティーと、「アイデンティティー」という言葉が社会集団、共同体、至っては国家まで拡張されるような使い方がなされています。

 このような言葉使用を耳にすると哲学者田辺元が戦前に書いた『種の論理』の「種」(民族)と同種の思考に思えます。『種の論理』は、個(個人)と普遍(国家)とを媒介する種(民族)の意義を重視するもので「社会存在の論理」について言及するもので、戦後反省するところとなりました。

 人間は石ころやナイフのようにその場に置かれて変位しないものではなく、自分自身として変わらぬ存在であると意識しながら、新しき時の刻みに常に自分の在り方を模索、選択し可能性に向かって投企する存在(実存)です。成すことも成さないことも自由です。

 そのような個々が共同体組織員として総合的な組織体制に組み込まれ、当然個々の自由は制約を受け、共同意識の一員とし一致化のための意識修整がなされていきます。そして時が過ぎ、ことが終わり、その時代は、ふり返れば悪夢のような時代であったと語るようになるのです。

 過ぎ去れば反省と悔悟の感情が湧き、懺悔の哲学を語ることとなるわけです。

 人類進化における共同体行動は生きる為の共同意思を形成しどこまでも作られ、作るものへと個々の意識は変位します。意識も行動形式も姿も同化して行きます。

 他者も同様な思いをもつ存在と他者のこころを推し量るのです。他の動物にはない忖度とでもいった感情の現れでしょうか。

 作られてある現実存在は、その存在事実に本質を見出そうと思考しなければいられない衝動をもっていますします。

 生きる意味、私は何者なのか、何故そのようになるのか、そのような問いを発する過程を持つ、時を刻む存在として、たゞあるのではないかと思ってしまいます。


「私は、何者なのか」という問い

2018年09月09日 | 思考探究

 「私は、何者なのか」という問いをもつ。過去にEテレ「モーガン・フリーマン~時空を超えて」という番組で放送されていたことを思い出します。意識清明状態にあれば私の氏名も答えられますし、鏡に映った自分の姿を認識し化粧を施すこともできます。ところが個人差のある話ですが、3・4歳が境でその年齢に達するまでは、鏡に映った自分の姿を自分であると認識できないようです。

 そこに映る人物が私であるということが認識できるようになると他者の目からも自我を持った一存在者に見えてきます。そこで重要なのは記憶機能でそれが連続して脳内に記憶されることで自分という認識できる意識清明が確立していきます。

 「私は何者なのか?」とは記憶機能が正常であればこそ可能な問いにもなるわけです。

 何かの理由で海馬機能が低下し、また他の脳機能部位と切断すると意識はあるものの自分という認識が一夜で消えていき、寝覚めとともに再度自分のその時の思いや体験を記述するなどして新しい自分作りをしなければならないことになります。

 脳科学の進歩によって私という存在認識は脳全体で作り出されるもので、時間と空間に生まれる「成りて有る」現われということができます。原始仏教では「炎」とも表現されています。

 総じていえばあらゆる物質が複合的に関係し連鎖し形成されるのが「私」ということになるわけです。

 「私が私でなくなる時とは?」脳機能が正常に機能しないときで精神的な機能障害もあれば、物理的な障害もあり、供給物質の消滅もあるわけです。

 前回の「ラプラスの悪魔」の話に重ねますと、私を形成する物質と活動エネルギーを究極まで知悉できそれを認識できれば時間の流れに解き放された私の生命活動時間は予測でき、死も予想できるわけです。

 しかし人間はそうなってはいません。食事をする、運動をする、供給と消費は常に移り行き生命力が持続するまでくり返されます。

 日本の歴史上には、生き仏と称される実際に食事を制限し仏になろうとした僧侶がいました。利己的な存在から利他的な救済の祈願を永遠の生命の獲得と重ねたのでしょう。祈念の思想は他者の心には残り、肉体は枯渇し残ることになります。

 「人間一人一人は彫刻される石であると同時に彫刻するノミである。」

 「夜が明ける。そこが意識である。」

 シュレーディンガーはこのような言葉を残しています。(湯川秀樹随想集『こころゆたかに』シュレーディンガーの世界観)

 目覚めた私は、無意識化された日常行動を開始し意識の連続の中に私をはじめます。

 個人的な思考の探求課題に「実存」という言葉があります。感覚的なつかみを多分に含む言葉で、ある人は世界の内にあって、刻一刻と自ら決断をしながら生きていく宿命を負った人間の存在のことを哲学では実存という特別な言葉で呼び、単なる物ではない者としての人間の存在を強調している、言葉だともいいます。

 宿命か、運命か、意図なき時の流れに置かれていると、そのリアル感に圧倒されるとき実存という言葉が意味を成してきます。そこに人間の本質を問う以前の偶然性の成りて有(あ)る様にわたしは実存という言葉を重ねます。

 ひと昔の哲学者九鬼周造は次のように語っています。

 哲学的人間学は要するに人間の本質を把握することを中核的目標としている。それに反して実存哲学は存在問題それ自身を解決するために実存を解決のカギと見做しているのである。実存は現実的存在として可能的存在とともに広義の存在の態様である。実存哲学は実存によって存在一般への通路を求める哲学である。・・・・<略>・・・・哲学的人間学は或る意味で実存哲学よりも広い領域または見地を有すると言える。他方にあって、実存哲学が存在一般を視野に有つ限りに於いて、実存哲学の領域または見地は哲学的人間よりも広いと言える。結局いずれを広いとも狭いとも一概には極め難い。のみならず、哲学的人間学が人間の本質を把握する場合に、苟くも哲学的である限り、存在一般との関連を無視することは出来ぬ。また実存哲学が存在一般へ行く通路として選ぶところは外でもない人間的存在である。斯くして実存哲学と哲学的人間学とはやや視点を異にするに過ぎぬほぼ同型の哲学であると考えるのが至当であろう。(九鬼周造全集第三巻『人間と実存』p94、文庫p103-p104)

 哲学的人間学と実存哲学を九鬼先生はやや視点が異なるに過ぎないと言います。個人的には先に言ったように「実存」という言葉に惹かれます。実存哲学の何が私を惹きつけるのか。

 この方も過去の哲学者ですが高山岩男は、

 ギリシャ哲学以来理論性によって厳密な学を構成するのが西洋哲学の伝統であるのに対し、実存哲学が学よりも生を重んじ、哲学を哲学するという実存の内的行為と考え、哲学と実存、知と行との間の内的統一を重視する点をとってみれば、東洋哲学は概して実存的哲学であり、東洋哲学の方こそ却って実存哲学的であるとさえ考え得るのである。
 この意味では宋の儒学、仏教諸派の哲学、皆、実存哲学であると言ってよい。仏教は宗教と考えられているが、哲学を棄てる宗教でなく、むしろ哲学と融合している宗教であって、宗教で同時に哲学、哲学で同時に宗教であるようなものである。
 仏教は哲学的に存在の無常性を即ち諸行無常を観じて本来の自己の自覚に至ることを要求している。ただ仏教はこの本来的自己、自己本来の面目を「無我」に見出すものである。
 ここに今日の実存哲学と著しく違ったものが見られるが、実存哲学は実存の究極自覚をどこに置くかで異なるわけであって、この実存の自覚の深まる段階に応じて同じ実存哲学内部に色々なものが現れて来ると考えて一向に差しつかえない。
 仏教は仏教たる限り無我を根本立場を逸脱することはないが、無や空の哲学的思索は仏教の発展と共に深まり、小乗仏教より大乗仏教へ、更に禅仏教や浄土仏教へと、あたかも一個の世界哲学史の如き観を呈する発展を行うにつれて、仏教的実存の自覚もまた一様のものではなくなるに至った。そして仏教哲学自身の内部に於いて特に実存哲学的な立場さえ成立するに至ったと見る事ができるのである。併しとに角、仏教が本来の自己の自覚覚醒を根本義とし、この哲学的要求と宗教的要求とを内面的に統一することを根本性格としていることは明白で、その意味で実存哲学の風格を濃厚にもつものと言える。(『実存哲学』宝文選書1969・p15-p16)

 個人的に仏教学にも興味があり「無常」という概念に思索を重ねるものとして「実存」という言葉が浮き出てくるのは当然のようです。

 禅僧の南直哉さんは『「無常」をめぐる仏教史~超越と実存~』を書かれていますが、まさに高山先生のこのことを語っているように思えます。

南さんは、

 仏教では、「無常」と呼ぶ「実存」には存在根拠が欠けていると考えるが、仏教以外の思想は根拠があると考える。その根拠を押さえれば、実存の「核心」を理解できると信じている。
 このとき、そういう根拠は、当然「実存」ではない。あるいは「実存」には含まれない。根拠が実存の内部にあっては、根拠として機能しない。
 「根拠」とされるものは、実存の外部から、実存の仕方に対して決定的に作用しなければならない。それが「超越」的存在であり、古今東西で答えのごときものとしてされてきたアイデアである。
 「超越」的存在は、時には「本質」や「実体」などと呼ばれ、その存在を前提とすれば、無常の実存は「現象」とか「属性」などと規定される。(『超越と実存』新潮社・p24-p25)

 南さんは若いころから

 〇 死とは何か
 〇 私が私である根拠は何か

という問いに取り憑かれてきた、と言います。

 答えがあるわけではなく、都度の今という現象に応じる他に何もなく、何もないといっても応じる個(存在)に言葉を添えたくなります。

 人類進化は裸の実存を造形し、知覚器官は喜怒哀楽を生み出す。実存的虚無や実存的空虚ばかりがあるわけではなく実存的歓喜もあるわけで、舞踏しかり、音楽しかり、絵画しかり、です。

 発掘される装飾品、洞窟壁画に描かれた動物等の絵。

 人類は何を継承し成りてあるのか。

 夜明けとともにこの世に解き離されると「わたし」は「わたし」によって刻まれていきます。


ラプラスの悪魔

2018年09月08日 | 思考探究

 地震、台風、大雨そして土砂崩れ、多くの人々の財産や生命が奪われ、ライフラインは停止、日常生活や経済活動も脅かされる事態が続いています。

 日本列島は地震列島で火山列島でもあり緑豊かで水清き場所のように思われますが、大昔からいつ起こるかもしれない自然の猛威にさらされてきました。

 大地に存在する者は、この猛威と被害に対して集団で耐え忍び、生き残った個人は、個人の自覚において耐え忍びその血は今日まで受け継がれています。

 地震の予知も含め、科学技術の発展と共に気象学が発達し自然災害はある程度予想され予報、警報等で人々に知らされます。台風の進路やその周辺地には災害の爪痕を残しています。被害が全く発生しなかったということはなく、程度の差はありますが必ず被害が発生します。

 このような被害を避けるには、被害発生が予想するおそれのある地域から離れることが一番ですが、経済的な問題もありそのようなことは出来ず、「ここでは発生しない」と根拠なき希望を抱くか、なかばあきらめに近い無視的態度に出るないように思います。

 このような書き綴る私自身も、多数の人々と同様な態度で特別警戒心を起こすことはありません。

 『ラプラスの悪魔』という邦画がありましたが、フランス・天才数学者ピエール=シモン・ラプラスが提唱した映画題名と同じ「ラプラスの悪魔」仮説があります。

 瞬間の物質の力学的状態とエネルギーを知り計算できる知性が存在するならばその知性には未来が全て見えているはずだ。

という仮説で、神の如き知性の存在を仮定しています。

これは、運動量と位置が初めから分かっていれば予知できるという話ですが、量子力学が進む中この二つが同時に確定することはないというのが一般的な話になっています。

 不確定時代といわれますが物質の微分を極めればそこに現れるものは不確定そのもので、そこから生成されるモノゴトはこれまた不確定な産物となるわけですが、現実はある程度予測可能性において起こるべくして起きています。

 AIのディープラーニング( deep learning)は進みラプラスの悪魔に近づきつつあります。車の自動運転などは、100%の安全性を未来予想し現実化の過程になりつつあります。

 自動運転車に試乗した乗客の話では、ただ一つ違和感がある事態はブレーキのかけ方で人が運転するよりもやや前のめり感を感じるという話を聞きます。

 それを聴いて前後左右の安全確認は視覚認識と周辺からの情報収集解析でできそうですが、乗客の感覚的な個別性を推し量ることはことはできないようです。

 しかし違和感という言葉の概念を多数人の個別的情報を収集し平均化すればこれも最小限に緩和することはできることでしょう。

 全ての物質の力学的状態とエネルギー量を知悉できるAIが存在できるとなれば不確実なことは何もなくなり未来の状態がどうなるか完全にわかる、未来が来るか私には確定できませんが、そうなると私自身は一歩も身動きできなくなるような妄想にかられます。

 全てが確定の中で存在する。量子力学の救いがない限り一歩も身動きできないのです。

 考えてみると量子力学は救いの神に見えてきます。

 不確実、不可能なモノゴトであって、それで善い。無常観にあふれる言葉です。