タイトルを「人間・AIは神になれるか?」と書こうと思いましたが少々誤記が強いように思えたので変更しました。
「V・E.フランクルの有神論的実存主義は思想として折衷的で中途半端なので・・・」という論を目にして(これはキルケゴールの宗教的実存という視点であると指摘するものであると思うが)人にとっての「神」について考えさせられます。
「折衷的で中途半端」という論述の背景に、二元的な選別的別思考がみられ、あやふやな、もんもんとした論に、おさまらない不快感が湧くのでしょう。
西田哲学では、宗教の根底にあるもの、哲学の根底にあるものも、至は同一を成すのではないかという考え方があり、個人的にも同様に考えています。
フランクルは『心理的告白から医師による魂への配慮』の中で次のように述べています。これは
(「イザヤ書45・15」に書かれている「隠れたる神」という表現がある)に庇護されていることを自覚している宗教的な人間に対して、われわれは何も言うべきものももたないし、何も与えるべきものも持たないであろう。
と語っています。文中の「われわれ」とは精神科医を指します。私の好きなのはこの文章の「原注」なのですが、次のように書いてあります。
そもそも神については語りえず、たゞ神に向かって語りうるのみではないか、と言われるが、これはまったく疑問である。われわれはルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインの「語りえないものについては沈黙せねばならない」という命題を、単に英語から翻訳するだけではなく、次のように不可知論から有神論に翻訳することもできるのである。
語り得ないものに向かっては祈らねばならない。(上記の文章も含め『実存的精神療法・人間とは何か』山田邦男監訳p383・p412)
ここに語られる「祈り」という言葉は非常に胸打つものがあります。
日本人なら型的には合掌の姿で、様態として戦地に向かう息子と背にまなざしを送る母の姿。野仏にそっと手を合わす姿。昇る日にそっと手を合わせる姿。様相と私は何を思うのか。
「折衷的で中途半端」というまなざしで捉えたくないものがあります。言葉で語れは離れて行く・・・たゞ祈る姿が様態・様相の枠を超え・・・情感として善しとするものがあります。
精神は、その根源、その根底において、非反省的な、そのかぎりにおいてまさに無意識的な純粋遂行そのものなのである。したがって、われわれは、この精神的無意識を、精神分析がもっぱらかかずらっているような欲動的無意識から厳密に区別しなければならない。ところでこの精神的無意識、、無意識の精神性には、無意識的な信仰、無意識的な宗教性も含まれる。---これは超越に対する人間の、無意識定的で、むしろ往々にして抑圧された生得的な関係がある。(上記書p447)
私は精神科医ではないので参考にならないとは思えない。個人的に実存精神療法は実存哲学と根底を考察する上において大いに参考にしています。
人間進化において何か根底に目的論的な何ものかがあるとは思えないが、そう成るような移行が刻まれているように感じます。
Eテレの「モーガン・フリーマン時空を超えて」という番組がありその中に、
・人間にとって“神”とは何か?
・神が“進化”を創造したのか?
・人間は神になれるか?
というシリーズがありました。今の科学・物理の世界では何が行われているのか、その中で語られる“神”は、精神的無意識や宗教的実存という形而上的な理解にとても参考になりました。
最近「AIは神になれるか?」と問いを投げかけられました。
AIは進化における、「縫い針」を作り出したことと同じで道具だということです。人間における他己を形作るのは個々の意思であり意識です。
神は、思うに画一しない有りて有る存在で、時空において知悉する存在と有るものとして承知したい。
人間の個別を形作る意識をAIにも作り出そう研究がある。自律的AIの制作であです。
未来にそのようなものが完成することができたとすると、個々のAIが存在することになります。
「人間は神になれるか?」「AIは神になれるか?」
思うに、不可能性が作り出す自由幻想に思える。