思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

鼻濁音と分岐ライン

2005年12月25日 | つれづれ記

 今日の中日サンデー版は「おせちとお雑煮」の特別版であった。この中で丸もち・角もち分岐ラインというのがあって、名古屋を境に九州方面は丸もちで、東北方面は角もちとなっている。

 日本海から太平洋側に縦に引かれるこのラインは、関東関西の文化違いを多く示している。囲炉裏とかまど、畳のサイズ違いなどもありこのラインは民族学上の研究対象である。 生物学的には、モグラの種類の違いもある。地下の地質構造もこのラインは重要な構造帯を示すことを小学生で知っている

 最近はあまり気にする人が少なくなってきているが、日本語の発音に大きな違いを示すラインでもある。方言は、関西風とか関東風の違いというよりも峠を越えただけでも方言の違いがあり大きなライン越えの変化は認められない。

 発音の違いとは、鼻濁音である。ガ行を発音する時に鼻に空気を送りながら出す方法である。「小学校」「にぎる」「夕暮れ」「道具」「おみあげ」「イチゴ」「いなご」などに使われる「ガ」「ギ」「グ」「ゲ」「ゴ」の発音である。

 関東方面は鼻濁音で発音し、関西方面は鼻濁音を使わない特徴がある。
 この違いは、かつては大きな違いで、高貴な方が「おみあげ」を鼻濁音で発音しなかったということで、幼少期の教育者が問題視されたこともあった。が、いまではメディアの発達によりその違いを聞き分けることができない若者が多くなり、将来的には消滅する発音方法であろう。

写真は、中日サンデー版の一部を転写しました。


親しむべからざる機僻の癖

2005年12月18日 | 仏教

 紀野一義先生は、名僧列伝(角川)の「不生の仏心」の盤珪さんの話の中で

 人間が生まれつき持っているのは「不生の仏心」ひとつである。それなのに人間は、我欲で迷い、機僻(きへき)で言ったり、したりする。それは仏心を念に替えることである。念に念がかさなって機僻になり、それを、生まれつきで直らないというのである。
 そんなことばかりやっていると、機が下がる。「機」というのは「心のはたらき」ととっていいであろう。執念に執念をかさねていると、自分の心のはたらきに妙な癖がついてしまう。癖がつくと、その癖に合った者のことをひいきにするようになる。もともとこちらの癖そのものがよくないのであるから、それに合った人間もよくないにきまっている。よくない人間だから悪く言う。自分の気に入ったもののことを悪く言われるから腹を立て、いよいよその人間にひいきして、いい人のように言い立てる。逆に、自分のゆがんだ心のはたらきに合わぬ人間は、よい人間だから人はよく言う。そうすると、あれのどこが良うて、などと悪く言い返すのである。それというのも、念に念をかさねて機僻がついたからである。こういう機僻のある心からひょっと迷いが出るのである。

と述べている。

 当然と思って何気なく行われる日常生活での行動、癖は、いつのまにかその人の人となりを形成していく。
 人には生きるうえにおいて、普遍的な好ましい姿があるはずだと直感的にだれでも感じている。角のない人間、僻みをもたない人間それも好ましい姿のひとつだ。
 そこで参考になるものに、中部経典114経(セーヴィタッパアセーヴィタッパ経)「親しむべきものと親しむべからざるもの」という経がある。
 この経は、釈尊がが比丘たちに法語を語り、サーリープッタが詳しく解説を行うという内容で3つの法話からなっている。
 
 第一の法話は、ある性質に親しんでいると人の不善なるものが勢いづき、善なるものが衰えると解くもので、「身体的行為」「言語的行為」「心理的行為」「心性」「表象の獲得」「見解の獲得」「個性の獲得」の7つの事柄についてである。 

 釈尊が人の日常生活において、親しむべきもの親しむべからざるものがありそれが善の増幅、衰退に関係することを修行僧に語り、これを確認する形で修行僧が答えている。
 その中の「表象の獲得」であるが、

 尊師よ、どのような類の表象の獲得になじむ人にとって、もろもろの不善なることが勢いづき、もろもろの善なることが衰えていくのでしょうか。尊師よ、世のある人々は強欲であり、強欲さを伴った表象を抱いて暮らしています。また、憎しみに燃え、憎しみを伴った表象を抱いて暮らしています。また、攻撃的であり、攻撃性を伴った表象を抱いて暮らしています。尊師よ、このような類の表象の獲得になじむ人にとっては、もろもろの不善なることが勢いづき、もろもろの善なることが衰えていくのです。
 尊師よ、どのような類の表象の獲得になじむ人にとって、もろもろの善なることが勢いづき、もろもろの不善なることが衰えていくのでしょうか。尊師よ、世のある人々は強欲ではなく、強欲さを伴わない表象を抱いて暮らしています。また、憎しみがなく、憎しみを伴わない表象を抱いて暮らしています。また、攻撃的でなく、攻撃性を伴わない表象を抱いて暮らしています。尊師よ、このような類の表象の獲得になじむ人にとっては、もろもろの善なることが勢いづき、もろもろの不善なることが衰えていくのです。

と解かれている。

 一般人ならば少し変であると思うことも、その人の縁(よ)って出逢う人達の中では、全てが当たりまえの思考で当たりまえの結果となる。
 「親しむべきもの親しむべからざるもの」見極めて生きたいものである。

 12月16日内閣府に申し入れを行ったグループがある。申し入れ内容であるが、犯罪報道における被害者の実名発表を求めるもので、被害者保護の立場から匿名発表を警察判断に委ねるという政府の犯罪被害者等基本計画案に反対する立場から行われた。

 提言理由は、「実名発表でないと背景や事実確認の検証が困難で真実が伝わらない。原因究明に障害が生じ、事件の再発防止に影響を与える。捜査ミスに恣意的に使われる可能性がある。」というものである。
 最近の年少者殺害事件連続発生や愉快犯など似た犯罪が連続発生すりのをみていると、テレビなどのメディアの閲覧自由は聴取する我々にあるとはいえ過剰なように思えるし、被害者の周辺での聞き込み、生前の姿が映っているビデオ使用など非常に被害者が報道機関による別な意味の被害を受けているような気がする。


年少者殺害と仏心、仏性

2005年12月10日 | 風景

仏心、仏性という言葉がある。フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」では、

 仏心(ぶっしん)とは、仏(ほとけ)のこころ。大慈悲のことをいう。また、一切衆生に本来備わっている仏性のこと。仏心とは主体となる心(さとり)のこと。心主、心王(しんのう)ともいう。禅においては仏の悟りを指して仏心と呼ぶ。禅宗は仏の悟りを直に体得することを求めるので、経宗に対して別名仏心宗を称する。

と解説されている
 
 大乗仏教の特有の言葉で、原始仏教、初期仏経では、無我の世界でありアートマン、霊魂などはないとすることから上座部(小乗仏教)は、仏心、仏性を説くことは仏教でないという。
 私は、あるなしの有無世界は分別にほかならず、人間の直感は、釈迦の存在が示すととおり、「色」という形の世界を離れた何かをつかむようになっていると考えるのが自然であるような気がする。

 「仏性」については、涅槃経のサンスクリット語経典で語られ原始涅槃経のパーリ語経典には存在しないことから上記の上座部からの批判にもなる。今から5年程前NHK教育で田上太秀教授の「ブッダの最後のことば 涅槃経をかたる」という講座があり「仏性」について詳しく語られ、その後大蔵出版から「仏性について」という本が出版されている。

 田上教授によるとこの「仏性」という言葉は、「ブッダになる可能性」「ブッダになる素質」を意味すると解説されている。
 ブッダは、釈迦が「さとり」をひらかれ「釈尊」になられたことを意味する言葉であるから、人間は、釈迦と同じように心の深層にその可能性をもつ存在ということになる。
 さきほど「形の世界を離れた何かをつかむようになっている」と述べたが、ここでいう「その可能性」を意味している。

 人間は、現世という相依の世界、縁起の世界にあって(存在)何かを経験し、何かに遭遇しないと何かを得られないように創造されている。
 「原始涅槃経」は、諸行無常、一切行苦、諸法無我と説法している。これは創造されているが故の結論で、「何かになる」可能性があるからそのように説法されていると理解したら、上座部、大乗の区別がないことが分かるような気がする。

 年少者に対する殺人などの報道を見ると自身も含め、「諸行無常」という現実を目にしなければならない時がある。
 殺害という事実
 報道にみる、「見せる者」「解説する者」「それを聞く私」がいることの事実
 このような事実から「正常異常の世界」を突然考えさせられるという事実
 そのような現実が身近で起きていなければ、その事実に囚われることもなくお笑い番組を見ながら笑うこともできるという事実

限りがないが、人間はそういう現実の中で生きるように創造されている。
 「四門出遊」釈迦の出家動機を知る時、その「世の生老病死」の目撃、「諸行無常」が示すものが出家の動機になる素質を「何人」も持っていることを思う。
 そしてそれが「仏心・仏性」であり、神や仏、魂や霊魂でもないことを知る。


いま、この瞬間

2005年12月09日 | 古代精神史

 「生きがい創造」をはじめ多くの「生きがい論」関係の本を書かれている飯田史彦氏監修によるエックハルト・トールの「さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる」という書籍がある。
 この本は、この本の実践コンパクト版の「わたしは『いま、この瞬間』を大切に生きよう」という本の題名が示すとおり、「一夜賢者の偈」「吉祥なる一夜」という中部経典の聖書版ともいえる一刹那のさとりの解説本となっている。

 洋の東西を問わず、「一大事とは今日ただ今のことなり」の正受老人の言わんとするところの境地を、人は必要としているようである。
 おそらくスペンサー・ジョンソンの「人生の贈り物」という児童書は、エックハルト・トールの影響を受けてのものと思われる。

 エックハルト・トールは「大いなる存在とのつながり」を瞬間にもとめる。
 エックハルトはこの本の中で
 
 「大いなる存在が、自分とともにある」という感覚を保ちつづけることが、「さとり」なのです。
 
 と語る。
 「大いなる存在」とは、「神という表現と等しく」と語るとともに、「人間の本質」というのである。
 神とは「キリスト教」の神ということになるわけで、訳者である飯田氏は、コンパクト版の中で

 キリスト教的な思想を暗黙の大前提として書かれており、キリスト教でいう「唯一絶対で全能の神創造主」に匹敵する「大いなる存在」を全面的に信頼していることが、著者の主張を実践するための必要条件だということです。この点で、「万物神」という曖昧な観念や「無神論」「唯物主義」で生きている人が多くの日本人にとっては、この本を理解することは難しいかもしれません。

と日本人には、「いま、この瞬間」大切さが理解しがたいのではと語る。

 日本の古代精神史から日本人の神概念を見ると「和御魂」「荒御魂」から分かるとおり神なる存在は、畏敬の念として「祈り」の中に「柔和な願いと」「神鎮めという鎮魂の願い」の二作用を対象にした存在である。
 信仰の深層にこのような分別があるのではなく、統一体として、存在として無分別の存在として「ある」のである。

 その点キリスト教は、唯一絶対で全能の神創造主としながら「サターン」という悪はその中に組み込まれてはいない。
 「万物神」は、決して曖昧な概念ではなく、日本の古代人は、直感として「自然の中」に「善」「悪」と分別しない、「大いなる存在」を感じその中に生きていたのである。
 
 これに反しキリスト教文化圏の「唯一絶対で全能の神創造主」を創り出す過程は、思考であり道徳律の絶対性、法律(王と人民との契約)の絶対性と同じくこれに反することは、「悪」と定義することと同じである。
 したがって、人間の感性でつかめないことから、何人にも有効な、普遍的な「形」に表現せざるを得ないことになり、ここで「神」は、存在すると信じる以外につかむ方法はない。

 しかし神道や仏教では、無分別の「神」「無」の存在を直感でつかんでいる。瞬間の重要を「さとり」への過程に求めるとき飯田氏の指摘は大きな誤りである。


人間関係は、さとりをひらくチャンス

2005年12月06日 | つれづれ記

 教育者とはどうあるべきかと問うとき、片岡仁志先生の「さとりの境地で教育者は、子供たちと相対するべきだ」という話を思い出す。片岡先生の追悼書「禅と教育」の中で、先生は、 

 西田幾多郎先生はよく言われた「他の中に自己を見、自己の中に他を見る」「自他一如」です。この自己の中に他を見る、他の中に自己を見る。他の憂いが我が憂いであり、他の喜びが我が喜びである。それを他のまた同じ無媒介の媒介がつなぐならば、自分の一喜一憂が、わが友の一喜一憂であり、友の一喜一憂がまたわれ自身の一喜一憂である。友の憂いに泣き、我が喜びに友は舞う、というような友情の愛も、男女の愛も、親子の愛も、実は無が根本でなくてはならない。人格の根底において、無によってつながる。そのつながりがあればこそ、親にとって、この一喜一憂が、親の一喜一憂となり、親の一喜一憂が子供にとって一喜一憂となる。互いに親を思い、子を思うという愛もまたそこから成り立つものです。

と述べている。

 小生も「人と相対するときにはその人になれ」と思う。人の気持ちになるとか、その人の立場を考えるという次元ではなく、大いなる手のひらの中にあるものにとって自他はなく、無分別の中の垣根のない存在同士という感覚を持つことではないかと思う。
 言葉にすること自体無理があるが、あえて言うならば今のところこのように表現したい。

 「いま、この瞬間」の大切さをかたるエックハルト・トールは、「大いなる存在」に、意識的につながっていることを前提に、「人間関係は、さとりをひらくチャンス」と述べている。
 「さとりから」とは逆に、人と接する、対話する、生活をともにするという社会に生きているということは、当然ながら、返りて「大いなるもの」を学べということになる。

人権週間を前に宇都宮市で、「人権シンポジウム」が開催された。「思いやりの心、かけがえのない命を大切にし、こどもたちとともに輝く未来をつくろう」ということである。
 4日付けの大手新聞に、この特集記事が掲載されていた。「自分だけの世界 問題」「こころのふれあい 薄い」「いつか解決は危険」「家庭で対等に接する」と題し4人の著名人のコメントが載せられていた。
 これはどれもそのとおりかもしれないが、「だからどうすればいいのか」が一番知りたいところで「子供の人権を大切に」は答えではないような気がする。

 「いま、この瞬間」を大切に熱心に、大人も子供も生きること。
 一刹那の中に「大いなる存在」か「無」を体得し、そして現実に生きることが、もっとも大切ではなかろうか。