「和の心」というと日本人の古代から培われた精神性とでもいうのであろうか。四季の花鳥風月にふと思う。
和洋、和風、和式いずれの言葉も日本的という意味になります。それぞれ、形、様式、生活になっているものを表しますが、その元には、「和」という言葉に表現される日本人の精神性があります。すなわち、「心を大切にする」という伝統です。和風、和洋、和式のすべてにおいて、「和」という言葉に込められた深い意味合いを知り、それをバックボーンに、今日の生活を豊かなそれにしていきたいものです。
と、加藤ゑみ子さんは、「和のルール Discover」の冒頭で述べている。
善し悪しを考えることなく、過去から今日に至る歴史の中で消え去り、また再生されていくもの、変化していくもの、それらを「今」に個人的に見つめることも必要に思う。
その中でわたしは、「やまと言葉(ヤマトコトバ)の世界に志向性を向けている。
哲学者梅原猛先生は、「[森の思想]が人類を救う 小学館P174」で次のように述べている。
私は、大乗仏教のほうが釈迦仏教より優れていると思うのです。釈迦仏教はやはり紀元前五世紀という啓蒙の時代を反映して、人間中心的な宗教であることをまぬがれませんでした。しかし大乗仏教は、この人間中心的仏教をもう一度世界の方向で、あるいわ宇宙の方向で再構成しようとするものであります。この極限において、華厳仏教でいう毘盧遮那や、密教でいう魔訶毘盧遮那、大日如来が出現したわけです。もはやここでは仏はたんなる人間ではなく、太陽に象徴される宇宙の中心にあって、万物をそれによって生ぜしめるものになるわけです。日本の仏教の合言葉になった、「山川草木悉皆成仏」ということが、まさにこの自然中心の宗教となった仏教のあり方を示しているのです。人間だけが仏になるのではありません。生きとして生けるもの、動物も植物もあらゆるものが仏になれるのです。
「大乗仏教のほうが釈迦仏教より優れている」という主張は梅原先生の主張であり、この点については「無記」としたい。
西暦552、548、538年の諸説があるが500年代前半に日本へ仏教が伝来し、途次の廃仏毀釈を乗り越え今日あるのは前回のブログでも述べたが日本の古代精神の流れを大幅に修正するものでなかったからであると思う。
前書きが長くなったがここから本論に入るとして、さて「やまと言葉」の「もの」という発音は、「も」と「の」を組み合わされた言葉である。「の」については音韻に関する問題はないが、「も」については甲類乙類の区別がある。それも古事記には、はっきりとした区別が認められる。
「日本語の世界1大野晋著 中央公論P223」に次のように書かれている。
つまり、ヲ・ホ・モの甲類乙類の区別について古事記の表記を分析すれば、唇の合わせ方の最も弱いヲには、区別はすでに失われ、次に唇の合わせ方の少し弱いホにおいては、過去に区別があったらしい名残が見られ、はっきり唇を合わせるモには古事記に明確な使い分けが存在する。
したがって「もの」という「やまと言葉」といった場合、そこには古代人の明確な区分けが存在することになる。
古代に「森羅万象」を表現する「自然」という言葉がない、それは「もの」である言葉であろう。
という考えを元に古代精神を探ろうとしてもかなり奥深く探求すべき事柄であることが解る。
いったい「もの」とは何であろうか。
「ことばと文化 鈴木孝夫著 岩波新著」では、次のように述べられている。
世界には、はたして何種類のもの(事物や対象)や、こと(動き、性質、関係など)が存在するのであろうか・・・・
言語を単に「もの」「こと」という表見的な区分けで見ると、この二方向に思えてしまうが、言語のもつ深層に迫ろうとするとき、異なる志向性をもたないと納得いく見解は得られない。その点、荒木博之先生の主張は、今の私には合う。
荒木先生は、「やまとことばの人類学 朝日新聞社」P86で「さだめ」という言葉を語りながら次のように述べている。
日本人はそれに加えて、「共同体の(集団)の論理」や「宿命」だけでなく、さらに広義の不動の原理をも指示するきわめて重要な表現をもっていた。それは「もの」という言葉である。「もの」は、神の論理としての共同体(集団)の論理だけでなく、人間存在を貫いてある恒常不変のものとしてとらえることのできる具象物、までを広く指示することばである。
従来、この「もの」の原義とでもいうべきものを探る試みは、その多様性にさまたげられてほとんど見るべき成果をあげてこなかった。しかしながら、一見多義的に見える「もの」という語も、それを日本文化の中核としてあるパーソナリティと重ね合わせることによって、その意味素とでもいうべきものをおぼろのなかに次第に明らかにしてくれるはずである。
同書P108では、
日本人はみずからをとり巻く世界のひとつの側面を「もの」としてとらえ、もうひとつの側面を「こと」としてとらえてきた。
と述べられ、同書では文例が示され興味深い。
われわれは「人生は空しいもの」といって、「人生は空しいこと」とはいわない。「何と馬鹿げたことをしでかしたものだ」とはいうが、「何と馬鹿げたものをしでかしたことだ」とはいい得ない。われわれの言語中枢はそれを見事に選択して誤ったことはないのだが、いったい「もの」と「こと」はその意味の深層においてどのような本質的差異を秘めているのか、どうして日本人は「もの」と「こと」とをかく厳密に区別しようとするのか、こういったことについてこれまで説得力ある議論がなされたことはなかったといっていい。 こうした形式名詞としての「もの」と「こと」だけでなく、終助詞といわれる「もの」と「こと」についてもわれわれは同様の選択をする。「だって教えてくれないんですもの」、「まあ、きれいなチューリップだこと」を「だって教えてくれないんですこと」「まあ、きれいなチューリップだもの」などとは絶対にいうことはできない。
このように日本語の「もの」と「こと」という言葉は実に面白い言葉である。
荒木先生は同書で、「もの」という「やまと言葉」について
原理をさす「もの」
「ものいう」「ものおもう」
「もののあはれ」について
「もの」の属性
超自然的な「もの」
接頭語としての「もの」
その論を展開している。
この中で「和の心」である「もののあわれ」については、
「人間存在を貫いてある恒常不変の原理、さだめにふれて起こる情感」
と規定する。
超自然的な「もの」については、源氏物語から例を引いて、
使「京にも、この雨風、いとあやしき物のさとしなりとて、仁王会など行はるべしとなむ聞えはべりし・・・・・・」。(京でもこの雨風は何とも不思議な神仏のお告げだというので、仁王会などが行われるだろうということでございました)
ここでの「物さとし」の「物」は一方において「集団の論理」「世間一般の条理」の意をその意味のambiguity(両義性)において指示しているとともに、「集団の論理」が「神」そのものであるという日本的共同体の構造的あり方からするならば、こういった文脈における「物さとし」は、同時に「神の論理に基づく教え」をも意味しているのである。
と述べている。
荒木先生は、源氏物語から「神の論理」を導き出すが、これはあまりにも時代が新しい「やまと言葉」ではないだろうか。
ここで思うに、「もの」と「こと」という言葉で、古典で思い当たる古い用例は「大物主」「事代主」の神である。記紀においては「物」「事」は、大和政権へ地神の帰順で相当に重量感のある言葉なのである。そしてまた「物」は「物部」氏という部族の存在理由とともに重みのある言葉だ。この点について津田左右吉先生は「日本上代の研究 岩波書店 『大物主・事代主』については第一篇上代の部研究第二章子代名代研究P71、『物部』については同第一篇第四章伴造の勢力の変遷P141~P142」で論及している。