(写真:『般若心経絵本』(作諸橋精光 小学館)から
千葉法務大臣が、死刑執行の現場に立ち会いその後インタビューに答えるその姿が、テレビに映し出されていました。
あまりにも残酷な話で、よく平然と報道側が報道できることにも疑問に思います。執行された死刑員、普通ならば1分程度の放送で終了されるのに、死刑制度反対論者の道具とされてしまいました。
私は許可はしないと、拒んでいた人が学生時代の集団破壊活動、火炎ビン闘争さながらの、正当性の履き違いをしているようです。
一見正しい主張のようでも、裏に隠れた蛮行がある、オイルライターを子供の背中にかけ火をつける親、何のためにその蛮行を行うのか、なぜこのようなことができるのか。
人の姿から判断から判断してはいけませんが、千葉法務大臣は平然と淡々とその行為を語り、金髪に頭を染める親は平然と「知らない」と答える。
今朝は、昨日の出来事を思い次のような話をしようと思います。
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宗教の世界に身をおいて「性善説」「性悪説」を語るとなると、愚かなことと指摘されてしまいます。宗教の世界は根源悪の自覚を出発点にして人間として生きることが前提だからです。
悪は罪である。エデンの園を追放されたアダムとイブ、その罪を受け継いでいるのが人間であるとする自覚。キリスト教でいう原罪があります。
これが仏教になると無明であり、自覚の明るさがない、我執を野放しにした状態ということです。
しかし宗教の世界を離れて、乳児を見ます。「いない、いないバー」で微笑む乳飲み子。微笑みの中で、乳の匂いを漂わせる乳児に、どんな原罪があり、無明があるのでしょうか。
またまったく異なる視点から考えてみます。近代的なものの考え方を中心にして、原罪や無明を考えると、精神病理学的な現象と解されて否定されてしまい、現代ではさらに高度な科学的な分析がなされています。
このように考えると 聖人の説かれる教えは、場の教えです。場の教えとはそこにいる言葉を知り、理解できる立場にある者にする説教であるということです。
そのことをまた考えると、聞く耳を持ち、ありがたく聞くことのできる人間には、ほとんど無意味な教えのように思います。要するに罪に陥りやすい人間に対する教えということです。
万人にはその傾向があるとなると、説く人間もその原罪を背負っていることになります。
いま「いない、いないバー」で微笑む乳飲み子の話をしました。先日ラジオ番組でこの話を聞きました。
万人、世界のどこの国の子供でも、どんな宗派の子供でも、どんな民族に属していようが、「いない、いないバー」で笑わない子供はいないのだそうです。科学的にも証明されていない不思議な現象なのだそうです。
また繰り返してしまいますが、乳飲み子の、このケタケタ笑に、どんな原罪がありましょう。またどんな無明を語ればよいのでしょうか。そして、この笑いに言い知れぬ平穏を感じる人間にどんな罪があるのでしょう。
この笑いを持たしてくれた父母がいれば、罪を背負うことはないように思います。
とここまで話して、今朝は仏教学者の紀野一義先生の「わが名を呼びてたまわれ」という文章を紹介したいと思います。
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『いのちの風光』(筑摩書房p89~p91から)
第三章 真実の自己を求めて
わが名を呼びてたまはれ
わたしの好きな詩人三好達治に「わが名を呼びて」という名詩がある。この詩人の詩は、わたしどもに日本語の美しさを徹底的に教えてくれる。三好達治の詩というと、きれいな、センチメンタルな詩だという風に単純に考えている人が多いようであるが、そんなことはない。この詩人は、自分の持っている人間性とか、深い思想を、きわめて少ない、選(え)りすぐった美しいことばに托して歌った。あまりにことばが少ないので、分りにくいのかも知れぬ。
この詩人は、雲門が「十五日己前(いぜん)は汝に問わず」と言ったその「十五日己前」が「十五日己後」にいかに重く、いかに強く生きてはたらいているかを歌った。「十五日己前」が悟りに至る前の迷いの世界であるとすると、その迷いの世界のもう一つ前にある世界、人間の意識がはたらくその奥にある遠い世界から来る呼び声に、耳をかたむけて、こう歌い出したのである。
わが名をよびて
わが名をよびてたまはれ
いとけなき日のよび名もてわが名をよびてたまはれ
あはれいまひとたびわがいとけなき日の名をよびてたまはれ
風のふく日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
庭のかたへに茶の花のさきのこる日の
ちらちらと雪のふる日のとほくよりわが名をよびてたまはれ
よびてたまはれ
わが名をよびてたまはれ
ちょっと見るとなんでもないように見えて、実はなかなか大変なことが歌われている詩ではないかと思う。詩人が「わが名をよびてたまはれ」と呼びかけている相手は、誰であろうか。わたしたちが最初に思い浮かべる相手は、母である。「いとけなき日のよび名もて」というのであるから、それはたしかに母に向かって呼びかけているのに違いない。
しかし、それだけであろうか。「いとけなき日」ということをもっとよく考えてみよう。それは「幼い頃」ということである。その頃はまだ迷いも知らず、苦しみも悲しみも知らず、せつなさも知らない。そんな頃である。ほんとうの意味の深刻な迷いのはじまらない幼な子の頃、その頃の子供は、人の子というよりも仏の子である。仏の子であった頃の呼び名で呼んでくれということは、仏の子の心を今のわたしに呼びさましてくれということかも知れぬ。
「風のふく日のとほくより」という。風は時間の通りすぎる跫音(あしおと)。「風のふく日のとほくより」とは、遠い遠い昔から、ということになる。遠い遠い永劫(えいごう)の過去から、母の、その前の母の、そのまた前の母の、ずーっと、ずーっと昔の遠い遠い、長い長い母の連鎖。その一番遠い昔に「仏の願い」というものがあるのかも知れぬ。そこから来る呼び。迷いも悟りも、世代も飛び超えたはるかあなたから来る仏の呼び声に詩人は耳を澄ませ、訴えているかのようにわたしには思える。
ひとが南無阿弥陀仏と称え、南無妙法蓮華経と唱えずにはいられなかった世界を、詩人は「風のふく日のとほくよりわが名をよびてたまはれ」というのである。
ここには迷いもない。悟りもない。ただ無心にはるかなるものへ訴え、呼びかける祈りのような歌がある。こういう、せつないまでに無心な呼びかけに、仏の声が返って来ないはずはないだろうと、わたしは思わずにはいられぬ。
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心にそっと流れる一陣の風のような文章です。風光、風の光、そんな光や風があるわけではありませんが、どこから来るのかわかりませんが、そっと来て通り過ぎる光です。
通り過ぎる光でありながら、しっかり照らしてくれる光でもあると思いますが、受け取る側に受け取る心がなければなりません。
子供に対する虐待、報道されるとどこでも起こっているような錯覚に陥りますが、多数の人は虐待などはしないのです。
ある日、幼き頃に「いない、いないバー」で微笑みを、母は誘ってくれたからだろうと思います。その母もまたその母も。
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