
久しぶりに「ハーバード白熱教室」をアップすることにしました。はじめにNHKの解説を引用します。
第9回 「入学資格を議論する」
Lecture17 私がなぜ不合格? アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)を議論する。サンデル教授は、1996年にシェリル・ホップウッドが起こした訴訟を取り上げる。彼女はテキサス大学ロースクールを受験したが、白人女性である彼女は、合格したマイノリティの出願者よりも成績がよかったにも関わらず、不合格となった。サンデル教授は、アファーマティブ・アクションの是非を議論していく。私たちは教育環境の不平等を是正するために、人種を考慮するべきなのか?そのような方法で、奴隷制や人種差別のような歴史的不正を償うべきなのか?人種など多様性を増すという大学側の論理によって、白人を不合格にすることは権利の侵害になるだろうか?
Lecture18 最高のフルートは誰の手に 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの正義論を紹介する。アリストテレスは、正義とは人々にふさわしいものを与えることだと考える。正しい分配をするためには、分配される物の目的を考えなければならないと論じる。最高のフルートは、誰の手に渡るべきだろうか。アリストテレスの答えは、最高のフルート奏者である。すばらしい演奏がなされることが、フルートの目的だからだ。目的から論じることは、正義について考えるには不可欠だ、と言ったアリストテレスの正義論を理解した上で、サンデル教授は再度、アファーマティブ・アクションの是非の議論を振り返る
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今回の講義は、現在アメリカで行われている、大学進学における合否判定基準のアファーマティブ・アクション、差別の是正措置の問題点から論議が進められた。
過去の過ちに対する償いか、社会の多様性をもたらすものか、富の分配にかかわる重要な問題として論議されました。
種類が異なる二つの主張
道徳的な対価
正当な期待に対する資格
との間のロールズの引いた区別について論じられ
ロールズは、分配の正義を道徳的な対価の問題と考えたり、その人間の美徳に従って報いるものだと考えることは誤りである。
と論じている点をから、今回は、「道徳的な対価の問題」が「分配の正義」とどのようなかかわりをもつのかということを、アファーマティブ・アクションという点の問題点を追求することで明らかにしていきます。
アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)、こんな措置があるのかと驚かされるのですが、アメリカという国の持つ、歴史的差別問題が引き起こした事実が、今日的な論議の中で扱われて、また学生が、積極的に自由に自分の主張ができることに驚かされました。
大学の進学の合否が、成績のみではなく、人種や宗教の違い、レガシー・アドミッション(自分が入りたい大学に親も通っていた出願者は入学に際して有利に扱われる)、また大学の社会貢献にふさわしい人材育成の見地からその合否が決定される、このアファーマティブ・アクションの支持の論拠は、
1 是正---教育的背景の格差のため
2 償い---過去の過ちのため
3 多様性---教育的経験のため(人種等の違いのある学生と生活する)
---社会全体のため(例大学の地域貢献にふさわしい人材教育)
の三点なのですが、実に鮮やかに学生間の論議の中で明らかにされていきます。
、ハーバード大学の過去の入学審査の主張は、
「我々は多様性を重んじる。学術的な優秀さが、ハーバード大学入学審査の唯一の基準であったことは、今までに一度もない」
というものですが、多様性とは都会人、農場出身の少年、バイオリンニスト、画家、フットボール選手、生物学者、歴史家、古典学者を意味し、この多様性のリストに、今では人種と民族が加わってる、とのことなんとも驚きです。
したがって、優秀な成績を期待できる多数の志願者を審査する際は、人種がプラスに働き、それはアイオワ出身(農村部)であることや、優秀なフットボール選手やピアニストであることと同じことを意味することになります。
白人と黒人がともに同じ成績ならば黒人のほうが有利ということになるようです。差別された白人が訴訟を起こした例が提示されていましたが、なる程です。
さらに、多様性の評価は次のように説明されます。
アイダホの農場の少年は、ボストン出身者にはできない何かを大学にもたらす。
同様に、黒人学生は白人学生にはできない何かをもたらす。
全学生の教育的経験の質は、それぞれの学生に固有のバックグランドの違いや、ものの見方の違いに負うところも大きい。
というものですが、この論理には、個人の権利の侵害という大きな問題が横たわっています。
またカントの個人を道具として「利用する」という道徳的に認められない問題にも抵触してきます。
しかし、アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)というものは、個人の努力や優秀さ、功績の正当性を一切考慮に入れない事実があるのです。
前半では、これが、道徳的な対価、分配の正義の問題として論議されていました。
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後半がまたすこぶる面白い。多様性の論拠は、社会の使命、公共の利益の名のもとになされていますが、公共の利益ないし一般的福祉促進するための過程で、明らかに個人の権利の侵害があってもそれを善します。
そこに多様性の論拠の問題点があるわけで、個人の権利、自分の力が及ぶ範囲の権利の考察が重要になってきます。
白人であることの事実は、自分では変えようがない事実です。ハーバード大学の場合は、私立ですから自由に求めるべく学生の資格を自由に規定することができます。
大学が社会的使命を決めそれにふさわしい資格を規定すれば、いかなる権利も侵害していないということになるのですが、これが正しい考え方か、学生にサンデル教授は考察させます。
歴史的にみると、大学の入学資格で、過去には黒人差別、ユダヤ人差別も、大学の果たす社会的な役割の中で行われ、、原理的には現代と同じように社会的な役割に基づいて行われていました。
これを学生に論議させています。
過去には「悪意」的なきめ付けがあったが、現代の選抜の方針が、人間をその機関の社会的使命にとって貴重な存在として尊重されて行われているかぎり許される。アファーマティブ・アクションは支持される、ということになります。
さらに、次の問題点ですが上記の入学志願者を「利用」という観点からの論議です。この利用は道徳的な対価としての利用ではありません。
ここで分配の正義が道徳的な価値でなされるべきか否かの問題が出てくるわけです。
ロールズの「正議論」では、分配の正義は、階級や収入、財産、地位、立場であれ道徳的対価の問題であることを否定しています。
ここで「正義」というこの講義の主題が見えてきます。
「分配の正義」の問題を道徳的な対価---美的な問題殻切り離したよいのであろうかという哲学的な大きな問題が提示されます。
ロールズが「分配の正義」を道徳的対価から切り離す理由の根底には、平等主義的なもののようであるとサンデル教授は語ります。
道徳的な問題を脇に置くことで、平等的な視野はかなり広くなります。ロールズの「分配の正義」における正義が明らかにされていくのですが、切り離しの視点は平等とは異なるところにあるようです。
リバタリアニズムの立場をとる権利中心の理論家達
平等主義をとる権利中心の理論家達(ロールズそしてこの場合はカントも含む)
は、分配の正義や福祉国家については、意見を異にするものの、「正義」とは、美徳的・道徳的な対価に報いたり、賞賛すべきものと理解するものではない、という点では一致しています。
全員が平等主義者でないので、平等的な考え方からきていないことは明らかです。しからば「正義」とは何ぞや・・・・ということになります。
そこには、自由という概念がでてきます。美的・道徳的な対価の考慮は自由から遠のくことを意味すると考えているようです。
ここで登場するのが、ギリシャ時代の哲学者アリストテレスです。アリストテレスは、正義を名誉や美徳、真価、道徳的対価に結び付けています。
ここでアリストテレスの正義をより具体的に説明するために、文頭にあるLecture18 「最高のフルート」に書かれているアリストテレスのフルートの目的性の話がなされます。
アリストテレスの「正義」とは、
正義とは二つの要素がある。一つは物、もう一つは物が割り与えられた人々だ。
平等である人々には、平等な物が割り与えられるべきである。
ここでまたしても問題が出てきます。「平等」とは何に関する平等なのか?
アリストテレスは、それは分配されるものの性質による、と説しています。 フルートを例にとった場合、その性質、音楽を奏でるという目的性によることになります。
フルートを与えられる人は、奏でるのが一番の者であり、その際の人の選別はにおいての正義については、アリストテレスは「すべての正義は差別を内包する」と説きます。
フルートを持つにふさわしい美徳を持っていること。その外の方法によることを否定します。地位や階級による分配は許されないということです。
ではその美徳はどこからくるのか、それがフルートの持つ目的性になるのです。
フルートが、うまく奏でることができる人に使われることが目的であるからということです。
これは目的を見ることから正義を見るということになるわけで、アリストテレスは、「物事のテロスを考えなければならない」といいます。
テロスとは「意義・目的・目標」で、目的が明確になってはじめて正義に適った「分配」がなされたということになるわけで、正義に適った差別が可能になるということにもなるわけです。
テロス、目的というものかが逆算して物事を考えることを「目的論的論法・テロス(目的・目標)からの論理」といいます。
これがアリストテレスの有名な思考法になるわけです。サンデル教授はこの考え方には直観的な説得力があると述べています。
さらにサンデル教授は、この目的的論法・目的的説明の背景が古代ギリシャの自然観の中で展開されている論理であることを指摘します。
私もそのように思うのですが、場の論理、説かれる論理がどのような時代で、どのような場でなされているものなのか、それをしっかり理解していないと愚かな論理の転換になってしまいます。
アリストテレスの論理は直感的には正しいように見えても、現代を考えると少々疑問も出てくるわけです。
サンデル教授は、この後、「くまのプーさん」の話もされ目的的論法・目的的説明の問題点を説明していきますが、今回の「ハーバード白熱教室」は、さらに「正義」を深化させていきます。 このブログは、ブログ村に参加しています。
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アリストテレス
「白熱教室」の存在を本日初めて知りました。
金曜日夕方の食事会、その後の2次会の深酒で土曜日終日ダウン。漸く元気を取り戻したのが日曜日未明で、午前1時からの再放送を何気なく視聴。
理系人間として30年間の研究者生活をしてものにとって、米国屈指のエリート校の文系の講義は新鮮で強烈な印象でした。
特に、学生とのディベート形式の講義、学生のディベート力には、将来の世界のリーダーを生み出す米国のエリート校のパワーを見た思いでした。
日本の教育に決定的に欠如しているもの、日本の政治・リーダーの未熟さとの絶望的な格差の背景を見る思いでした。
そして、「くまのプーさん」のエピソードへの学生達の無邪気な表情・反応に、彼らの健全な心、資質、将来性を見る思いでした。
いうなれば白人の自業自得であり自己責任です。
どうしても文才がなく、表現力に乏しく、言葉を飲み込んで書く癖があります。
サンデル教授が公共哲学における「正義」を求める議論において、主張する側がどのような哲学的知識を有して、それをどのように応用展開してゆくか最も魅力的なところです。
カントは資本主義を否定しない。
相手を手段としてのみ扱ってるからロールズよりも資本主義に対して寛容である。
カントの倫理論は現代社会を考えるにも使える。
よい社会を実現するためにはロールズよりも、アリストテレスを参考にしたほうがよい。カントの定言命令は「神の代替物」サンデル教授のコミュニタリアニズムはそれを批判的に乗り越えようとしている。
そう論評した人がいましたが、そのような理論の展開を見るのが主眼で結論はありません。
自分おしっかりした意見を持ち討議に参加するそして相手の言葉も聞き入れ理解してゆく、そこにサンデル教授の白熱教室の面白さがあると思っています。
書き方に難問があるかもしれませんが素人ですのでご理解してください。
コメントありがとうございます。