新年を迎え紙面を開くと何かと今後の日本あるいは世界の動向を語る記事を目にするようになります。
占いにも似た未来予想ですが、毎年くり返されどの時点をとらえて結果と言えるかわかりませんが、大きく外れることのほうが多いような気がします。
米朝の危機が問われ北の国家消滅をあるのかと思うと、まったく事態は急変し真逆の事態のように見えてしまいます。
中国は、過去の歴史から統一国家の長く続かないものだと思えば、あっという間に世界一の大国になり崩壊することもなく存続しています。共産国家は幸福社会と思うと監視カメラは街頭にあふれ昼夜警察国家とも呼べそうな監視社会になり、国民の不満や反体制活動は表には出てきません。
日中国交回復のころにこんな中国をだれが予想したでしょう。共産主義と言うよりも党員家族の安全を第一に考えればこれが一番いいのかもしれません。
国外へあふれ出る旅行客の裕福層もあれば、時々報じられる山間地や荒れ野に住む人々の超貧困層もあり、中国は、底知れぬ不思議な国になっています。
実現可能な未来はあるのか。建設中のオリンピック関連の施設のように時が来れば完成するものと違って、個的に関係してくる未来像を描くことは不可能であるように思えてきます。
一般的に幸福像は描きにくく、不幸せな危機的事態は描きやすいものです。個々の今ある状態から幸せ像を描くとするとまさに自由選択と決断、努力という方しかなく、棚からぼた餅的な偶然性はまさに偶然で可能性は全くないに等しいものです。
危機的事態はどうでしょう。自然災害から戦争・・・。彼女ができないという危機は宿命であって受忍する以外に方はありません。
しかし、自然災害や戦争というものはどうでしょう。活断層の上に建造物を建てなければ大丈夫。大津波に対応できる防波堤があれば大丈夫。地震の起きる場所からは離れる。原発からは遠ざかる。軍事力を持たない。過去の歴史から学ばれることを実践することで避けられる。とそれぞれがその思いを語ります。
現実はどうでしょうか。個人的に昨日から今日は大きな差はなく推移しています。5日ほど前の地方紙に記者が松本市出身の社会学者大澤真幸さんと対談した内容の「混迷を越えて1989からの社会」という記事が掲載されていました。
そこで、大澤さんは戦後日本の時代を三つに区分し「理想の時代」「虚構の時代」を経て現在は「不可能性の時代」であると語っています。いつ頃からその「不可能性の時代」に入ったのは、その端緒は1989年に起こったオウム真理教信者による殺人事件だと言います。
そして、「不可能性の時代、僕たちは自分が何者なのか分からなくなってしまった。30年間、それがどんどん深刻化してきているように見える」と言っています。
記者は最後に大澤さんの語りとともに次のようにまとめています。
<どうしたら理想を取り戻せるのか。私たちは主催者の一人としても「国際社会の中で日本がどういう世界観を持って臨むのか、その上で、自分はどういう選択肢に、どういう貢献をしようかと考えることはできないでしょうか」と大澤さんは提言する。「50年先、100年先の世界のために、最も重要な選択肢は何なのか、まず模索することです」>
大澤さんが3.11が起こる直前に語っておられた「裏返しの終末論」を思い出します。フランスの政治哲学者ジャン=ピエール・ジュビュイの未来における人類の破局という視点にたっての現在という未来にとっての過去における自由選択という問題考察をする中に現在における”正義 ”論を構築する考え方です。
どういう話かというと未来において、その破局は起きてしまっている、と仮定してみます。ということは、その未来の方を現在とする時点において、その破局までの過程が、必然であり不可避の宿命であったと感じられているということになります。「不可避の宿命」ということばにすごく納得します。
そしてそこで重要な目覚めは、その破局までの過程、つまり未来にとっての過去に、私たちの実際の現在が含まれているということです。
偶然の選択が必然性を生み出すという原理が効いてきます。つまり未来に想定された破局の位置からは、その破局にいたる宿命自体が未来にとっての過去、つまり私たちの実際の現在の自由の選択の産物である、と見えているということです。
もっとも正しい選択肢は何か。それは破局を帰結するような宿命、とは別の選択肢で、私たちはその別の選択肢を取るべきだということです。つまりわざと破局的な終末が到来してしまった。と想定し逆にその終末を回避するような選択肢への想像力・イマジネーションを回復することが重要だといいます。大澤さんはそれを「裏返しの終末論」と呼び物語が困難な時代の”正義 ”の第一歩は、この裏返しの終末論にあるとそこでは語っていました。今回の「不可能性の時代」に関係した話、個々人の想像力・イマジネーションの回復、非常に難しく感じられます。いい話であるのに思考力がついていけません。
このようなことを書いていると哲学者の梅原猛さん死去のニュースが報じられました。
梅原さんで思い出すのは、3.11東日本大震災の原発事故後に強調され語られていた『勘定草木成仏私記』の「草木国土悉皆成仏」という言葉に意味するところです。元をたどればアイヌの人々にみる縄文文化、狩猟採集民族であったころの日本人の「こころ」の延長線上に仏教伝来後重なった言葉で、今後の社会の中で自然との共存、人と人との共存に欠かせないものだと話されていました。
民主主義の国家で当然法治国家、良し悪しの判断ではなくある意味形式的な意味の正しさで未来への道筋がひかれていきます。
妥協の選択、絶対確信の選択それが現在の各自の終末論で描かれる世界に見合う最良の選択となるのか。
それは各自の「こころ」の延長線で描かれて行くのか。
改元とともに新しい時代が・・・とマンネリ化した発想(願掛け)をしてしまいます。
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