Sightsong

自縄自縛日記

『東京のコリアン・タウン 枝川物語』

2011-07-09 08:42:20 | 韓国・朝鮮

枝川に焼肉を食いに行こうと思い続けているうちに時間が経ってしまった。興味があったので、江東・在日朝鮮人の歴史を記録する会『東京のコリアン・タウン 枝川物語』(樹花舎、増補新版2004年)を読む。大阪の鶴橋(猪飼野)済州島四・三事件(1948年)と切り離せないように、枝川の成り立ちは東京都(東京市)の差別的政策に因っている。

1910年、韓国併合。1919年、三・一独立運動。1923年、関東大震災。このとき東京府に居住するコリアン5500人のうち1300人が数日間で虐殺された。そして1941年、東京市により枝川に朝鮮人集合住宅が建設され、江東区内のコリアンが強制的に1ヵ所に押し込められた。枝川の敷地の一角には「隣保館」が建ち、そこでは同化・皇民化教育の強制がなされていた。当時の枝川は劣悪な環境の埋立地であったという。このように、一貫して排外的、蔑視的、監視的な政策が取られてきた歴史がある。

日本の敗戦後は、韓国への帰国や1959年からの「北朝鮮帰国事業」などにより急減することはあっても、枝川はずっとコリアンタウンであり続けている。皇民化教育を行っていた「隣保館」が現在では「東京朝鮮第二初級学校」となっているのは皮肉なことに違いない。2003年に石原知事の東京都がその土地明け渡しと地代の支払いを求めるという、歴史的文脈を無視した提訴をしているが、2007年には和解に至っている。

このような弾圧政策は石原都政ではじまったわけではない。そのあたりの実態が、本書に多く収められた聞き書きにある。

1949年、深川事件(成田事件)。捜査のために集落に入った警官が被疑者を至近距離から撃った。住民が怒り、それに対し警官600人が集落を包囲、6人を逮捕。
1952年、メーデー参加の容疑者捜査という名目で警官1000人が集落を包囲、21人を逮捕。

行政の差別政策であるだけでなく、メディアも「事件」や「集落」をセンセーショナルに書き立て、差別感情を煽っていた。程度はともかく、その構造は現在につながっている。参政権の問題もその文脈で考えるべきだろう。

ところで、興味深い話があった。唐辛子豊臣秀吉の侵略戦争とともに朝鮮半島に伝わったとされている(>> リンク)。一方、チェサ(朝鮮の祭祀)の儀礼準則ができたときには唐辛子伝来前であり、当然キムチもなかった。そんなわけで、キムチを供えては駄目だとする家もあったそうである。

●参照
赤坂コリアンタウンの兄夫食堂(赤坂)
林海象『大阪ラブ&ソウル』(鶴橋)
『済州島四・三事件 記憶と真実』、『悲劇の島チェジュ』(鶴橋)
梁石日『魂の流れゆく果て』(鶴橋)
鶴橋でホルモン(鶴橋)
野村進『コリアン世界の旅』
朴三石『海外コリアン』、カザフのコリアンに関するドキュメンタリー ラウレンティー・ソン『フルンゼ実験農場』『コレサラム』
『世界』の「韓国併合100年」特集
尹健次『思想体験の交錯』
尹健次『思想体験の交錯』特集(2008年12月号)
金石範『新編「在日」の思想』
李恢成『沈黙と海―北であれ南であれわが祖国Ⅰ―』
李恢成『円の中の子供―北であれ南であれわが祖国Ⅱ―』
李恢成『伽�塩子のために』
李恢成『流域へ』
朴重鎬『にっぽん村のヨプチョン』
高崎宗司『検証 日朝検証』 猿芝居の防衛、政府の御用広報機関となったメディア
菊池嘉晃『北朝鮮帰国事業』、50年近く前のピースの空箱と色褪せた写真
宮里一夫『沖縄「韓国レポート」』(唐辛子伝来)
朴寿南『アリランのうた』『ぬちがふう』
『弁護士 布施辰治』
布施柑治『ある弁護士の生涯―布施辰治―』


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