Sightsong

自縄自縛日記

「岡谷神社学」の2冊

2016-09-15 07:46:00 | 思想・文学

岡谷公二『原始の神社をもとめて 日本・琉球・済州島』(平凡社新書、2009年)、同『神社の起源と古代朝鮮』(平凡社新書、2013年)を読む。本のオビには「岡谷神社学」とある。

最初の本では、済州島には「堂」という聖地が多く、それらは社殿を持たずして傍目には森としてあること、それが沖縄の御嶽とも共通していること、済州島と琉球とは昔から交流があったこと、日本の神社ももとより社殿を持たない存在であったこと、それらのルーツが朝鮮に見出されることなどが書かれている。

次の本では、近江や敦賀や出雲には新羅をルーツとする神の信仰が多くみられること、スサノオもそうであったために勢力争いがあり、記紀神話には書かれているのに『出雲国風土記』では不自然にスサノオの存在が薄められていること、三輪神社近くには出雲の縁が多く、これは製鉄技術を持った渡来人たち=「穴師」たちが鉄をもとめて東漸したのだということ、などが書かれている。

最先端技術を持った渡来人たちの影響はかつて非常に大きかったであろうし、かれらの存在が日本神話に与えた影響もまた非常に大きかったことも想像はできる。しかし、紀行文と文献の引用と推測と結論とをぐちゃぐちゃにして書き連ねるスタイルはまったく好きになれない。

琉球の御嶽に傾倒するのはいいのだが、ヤマトと異なり、アマミキヨの琉球開闢神話を中心とした正史だけに依拠しているようである。これはヤマトにおける記紀神話と同様に権力を支えるものとして位置づけられるものであり、その構造を(ヤマトについての分析のように)相対化せず、御嶽を視て「何もない」ことに感嘆するのでは、沖縄をわがものとした岡本太郎と何が異なるのだろう。

●参照
原武史『<出雲>という思想』
溝口睦子『アマテラスの誕生』
「かのように」と反骨
三種の神器 好奇心と無自覚とのバランス
仏になりたがる理由
鶴見俊輔『アメノウズメ伝』
久高島の映像(5) 『イザイホー~沖縄の神女たち~』
吉本隆明『南島論』
柳田國男『海南小記』
伊波普猷『古琉球』
伊佐眞一『伊波普猷批判序説』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』


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