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自縄自縛日記

吉本隆明『南島論』

2011-01-23 09:25:18 | 沖縄

吉本隆明『南島論』(猫々堂、1988-93年)を読む。主に『文藝』において1989年に連載された未完の同論が収録されている。吉本の沖縄論は『共同幻想論』の中で久高島の母系社会を論じたもの、それから吉田純写真集『沖縄・久高島 イザイホー』の解説(古本屋で見つけて躊躇しているうちに無くなった)のみ記憶していたが、こんなものもあったのだ。なお後者も収録されている。

言語の特徴や遺伝子のひとつの側面をのみつまんできて(専門でもないくせに)、沖縄と北海道のアイヌは違うのだとする主張、自然や都市の段階論をアフリカ的だとかアジア的だとかするセンスにはアホらしいを通りこして呆れる他はないが、ざっくりとおかしな串刺しを行うのが吉本隆明、それは別に気にならない。

『南島論』において興味深いのは、久高島の琉球開闢神話と琉球の民話的な伝承(南島神話)とを比較し、前者を権力と結び付けていることだ。すなわち、アマミキヨらを始祖とする神話は天からの視線を持ち、あまりにも抽象的であり、琉球王権を支えるためのものだとする。議論は当然ながら、日本の権力にとって同じ意味を持つ『記紀』神話と重ね合わされていく。

「・・・南島神話(民話)ははじめに、この宇宙はどうなっていたか、そこから天地がどう分かれてきたかといった宇宙や世界の生成に類する物語を欠いている。それは、南島神話が村落共同体やその連合体のレベルで流布された民話の世界を離脱して、国家をつくる方向をもたなかったからだとおもえる。国家を形成しない共同体は天地開闢や創世の物語をもつ必然はないといってよい。必然ならそんな物語をもった部族国家の宇宙観や世界観を受容すればよかったからだ。村落共同体が連合してはじめて部族国家を形成したいというモチーフは、ちがった次元へ跳躍したい願望を意味している。そこでは眼にみえる共同体の習俗とはちがった拡がりの彼方に眼にみえない共同と連合の契機をつくりあげるモチーフが萌している。南島神話ではそれがなかった。たぶん征服王朝の進出よりほかに国家をつくる必然がなかったのだ。」

それはそれとして、神話にもあるような兄弟姉妹関係が夫婦関係よりも強かったとする構造が、沖縄の社会構造を考える際に大きな指標となるという指摘は、ちょっとよくわからない。

吉本の南島論は、国家を越え、天皇制を無化するヴィジョンを持つものであった。それは現実的・政治的なものでも、ましてや暴力革命を論じるものではなく、神話や民話を掘り下げていって共通項を求め、基層に至ったところで国家と象徴天皇制の無化へと進もうとするものであった。その意味では、沖縄を特権化した視線は基層への掘り下げにとって邪魔なものとなりうる。これも刺激的ではあるが・・・、それでは以下のような共通項の探りだしはどう捉えるべきか。

「つまり神聖にして侵すべからずという憲法の規定があって、戦争中の日本の天皇はそのとおりに考えられていたわけです。そしてそのとおりに振る舞ったわけです。神聖にして侵すべからずは、たぶん南島におけるキコエオオキミのあり方が神格化されていて、神様の意向を受託する神聖なる女性だというかんがえが歴史的にあって、その通り尊重されていたとすれば、天皇制とおなじ意味をもっていたとおもいます。そこから受けた被害もまた、おなじことがあるはずです。」

●参照
吉本隆明のざっくり感(『賢治文学におけるユートピア・「死霊」について』)
伊波普猷『古琉球』
村井紀『南島イデオロギーの発生』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
由井晶子「今につながる沖縄民衆の歴史意識―名護市長選挙が示した沖縄の民意」(琉球支配に関する研究の経緯)

●久高島
久高島の映像(1) 1966年のイザイホー
久高島の映像(2) 1978年のイザイホー
久高島の映像(3) 現在の姿『久高オデッセイ』
久高島の映像(4) 『豚の報い』
久高島の猫小(マヤーグヮ)
久高島で記録された嘉手苅林昌『沖縄の魂の行方』、イザイホーを利用した池澤夏樹『眠る女』、八重山で演奏された齋藤徹『パナリ』


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