Sightsong

自縄自縛日記

三種の神器 好奇心と無自覚とのバランス

2007-07-04 23:59:00 | 思想・文学
天皇家のシンボル、三種の神器。鏡と剣と玉である。

神話がしばしば権力により形成されているように、これらは中世に大和王権によって一定の形となった日本神話(主に記紀)とともにある。興味深いのは、この長い天皇制の存続、紆余曲折とともに、三種の神器についても様々なストーリーが付与されていることだ。

たとえば草薙剣は、スサノオノミコトが出雲でヤマタノオロチを退治したときにその尾に入っていて、それが姉のアマテラス(高天原)に渡り、その孫のニニギノミコトが宮崎に降臨するときに渡され、さらにヤマトタケルが戦いの道中に尾張で置いたものが、いま、愛知県の熱田神宮にあることになっている。しかし、実は分身が宮中にでき、それは平家没落のときに山口県の壇ノ浦の海底に沈む。なぜか新たな分身は、いま、皇居にある。熱田に行ったとき、私には、もっとも声高に言っていいはずの草薙剣のことを、何故かほとんど宣伝していないように感じられた。

鏡は、アマテラスが天岩戸にこもったのを誘い出すのに使われたものだが、いまは伊勢と皇居の両方にある。玉は、神話上、その重要性がいまひとつ希薄であるが、いまは皇居にある。

いろいろな話はあっても、「何だかよくわからないし、曖昧なままになっている」のは、「見てはならない」ものであることが、その根本的な理由としてありそうだ。実際、民間人は当然のこと、天皇ですら見てはならないものとされている。また、歴史上形作られてから千数百年の間、壇ノ浦の合戦の際や泥棒、見たくなった皇族などが見ようとすると、白い煙が出たり、眼が眩んだり、鼻血が出たりしている。(ということになっている。)

『三種の神器』(稲田智宏、学研新書、2007年)では、そのあたりを整理し、どんなストーリーが付与されてきたのかを俯瞰できるようになっている。結局どういう話なんだっけ、とモヤモヤと好奇心から思っている私のような人にはおすすめではある。

ただ、ほぼ全編にわたって、かなり平板で退屈なところが多い。なぜかと考えるに、「神話というもの」、「政治というもの」、さらに「現在における政治と神話との関係」といったことを、意識的に相対化できていないからではないか。要は、専門として情報を並べて整理したいのはわかるが、これは学術論文ではない一般向けの書物であるし、そうだからこそ、相対的な位置づけに無自覚であっては困ると思うのだ。

著者は、このような長く伝統ある文化であるから、尊重し、それに携わる人は私人ではなく公務員を超えた立場であるべきだと考えているようだ。

伝統と文化だけを取り出すことができるなら、そうだろうと思う。しかし、特に明治維新以降、さらに戦前に政治の道具として日本神話が利用されてきたことや、現在の揺り戻し状況を考えれば、「国体護持」とやら、と一線を画した歴史・文化であってほしい。そんなことが可能かどうかわからないが。

ところで、読んで思い出したこと。スリランカ・キャンディの仏歯寺にある仏陀の歯は、ポルトガル統治時代、海に捨てられている。しかし、現在のストーリーとしては、シンハラ人がポルトガル人に「偽物をつかませた」ことになっている。

それが本当か嘘かは本質的なことではない。現在の宗教と文化において、そのように信じられていることのみが重要なのである。しかし、一方で、外部の人間が感じるそのような突き放した視点は、内部においても持って欲しいものだと思う。「胡散臭い話」と外部の人間に感じ取られるかもしれない、という視点である。特に、それが政治利用される恐れがあるとき、自分たちの挙動を鳥のように上から眺めるためだ。

余談ながら、私が仏歯寺で何重にもくるまれた「それ」の周りを廻っていたら、寺の方が「仏歯を見るか?」と真顔で聴いてきた。確か定期的に実物を公開するものであるから、「三種の神器」ほどの秘密性はない。動揺して、即座に断ってしまった。見せてくれと答えていたら、どうなっていただろうか、と思い出したりする。


『三種の神器』(稲田智宏、学研新書、2007年)


キャンディの仏歯寺(1997年) Pentax ME Super、FA 28mm/f2.8、Provia100、ダイレクトプリント

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