Sightsong

自縄自縛日記

伊波普猷『古琉球』

2010-09-13 00:18:35 | 沖縄

インドからの帰路、伊波普猷『古琉球』(岩波文庫、原著1911年)を読む。

かつての浦添の繁栄(那覇との間は干潮時にのみ往来できたという)、那覇の久米にあったチャイナタウンと北京への派遣、琉球音楽の始祖アカインコ久高島古宇利島の開闢神話、向象賢(羽地朝秀)蔡温といった琉球王国の政治家など、歴史や民俗の分析は非常に興味深い。

しかし、どこを切っても滲み出てくるのは、日琉同祖論を中心に据えた揺れ動きである。伊波の日本から琉球へのかつての移動を説いた日琉同祖論は、琉球から日本への流れを構想した柳田國男のそれとは正反対ながら、共鳴してもいる。

「思うにこれらの言葉はたしかに琉球人の祖先が大和民族と手を別ちて南方に移住したころに有っていた言葉の遺物である。琉球の単語は十中八九までは日本語と同語源のものであるといっても差支はない。」

それは日本による支配の歴史と無関係ではありえない類の歴史だ。琉球処分に関しては、歴史的必然だと言わんばかりの客観性の装い、あるいは諦念のようなものが見え隠れする。同祖に向けられた願望も読むことができるかもしれない。それが向けられた先は、「ピープル」ではなく「ネーション」であった。

「沖縄人が嶮悪なる波濤と戦いつつ、いわゆる三十六島の民を率いて、一個の王国を建設したということは、政治的人民たることを証して余りがある。この点に於ても彼らは北方の同胞に酷似している。」

「沖縄人は過去に於てあれだけの仕事位はなしたから、他府県の同胞と共に二十世紀の活舞台に立つことが出来るのであります。アイヌを御覧なさい。彼らは、吾々沖縄人よりもよほど以前から日本国民の仲間入りをしています。しかしながら諸君、彼らの現状はどうでありましょう、やはりピープルとして存在しているではありませんか。あいかわらず、熊と角力を取っているではありませんか。彼らは一個の向象賢も一個の蔡温も有していなかったのであります。」

政治的人間であることが、日本という大きなネーションへの合流という「歴史的必然」への条件であるかのようだ。例えば、廃藩置県という琉球処分に関しては、沖縄をフジツボになぞらえている。政治的圧迫という嵐に耐える生物、それは適切な行動であったとしながらも、「進化」「改造」を必要としている。さらに遡り、1609年の島津侵攻については、安穏と暮らしていた民を襲った倭寇、それまでの本島による先島支配・収奪の加害者が被害者になったのだとの第三者的な観方も繰り返し提示している。

「それはそれとして、赤蜂を誅戮し、空広を威圧した沖縄為政者の後裔が、一世紀もたたないうちに、島津氏に征服されて、先島人と運命の類似者となったのは、いささか皮肉である。」

だからこそ、身の置き所の揺れ動きが目立つのである。伊波が「日本民族の一分派なる沖縄人」と表現するとき、そこには生存弱者としての認識と、その裏返しの強者への願望があった。

冨山一郎『伊波普猷を読むということ―――『古琉球』をめぐって』(『InterCommunication』No.46, 2003 所収)に、興味深い指摘がある。現在の『古琉球』のヴァージョンは伊波本人により幾度もの改訂がなされたものであり、例えば、以下の言葉も現在のヴァージョンには存在しない。

「只今申し上げたとほり一致してゐる点を発揮させることはもとより必要なことで御座ゐますが、一致してゐない点を発揮させる事も亦必要かも知れませぬ。」

一致している点とは「同祖」、それでは一致していない点を発揮させると言った伊波のマインドも、揺れ動いていたということである。そして、伊波後の知識人のマインドも、島袋全発のそれを見てわかるように、やはり揺れ動いていた。

●参照
村井紀『南島イデオロギーの発生』
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』
屋嘉比収『<近代沖縄>の知識人 島袋全発の軌跡』
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』
島尾ミホさんの「アンマー」
与那原恵『まれびとたちの沖縄』
伊波普猷の『琉球人種論』、イザイホー
齋藤徹「オンバク・ヒタム」(黒潮)
由井晶子「今につながる沖縄民衆の歴史意識―名護市長選挙が示した沖縄の民意」(琉球支配に関する研究の経緯)


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