Sightsong

自縄自縛日記

崎山多美講演会「シマコトバでカチャーシー」

2015-07-05 00:30:12 | 沖縄

立教大学において、日本文学会の主催により、崎山多美さんの講演会「シマコトバでカチャーシー」が行われた(2015/7/4)。

崎山氏は、「シマクトゥバ」という用語を、昔からの「ウチナーグチ」よりも比較的新しく流布されているものであり、そこにはイデオロギーと権威付けがあるという。それへの加担を拒む氏は、14歳まで西表島で育った。身体化したことばは、いかに「日本人化」しようと、外部との交換に際してつねに「引っかかり」や「溝」を意識させずにはいない。山之口貘も、その違和感を詩にうたった。

「生活のため」に、崎山氏は、予備校の講師を30年も続けている。教えた生徒の2割くらいは「本土」へと旅立ち、しかし、戻ってきて話をすると、自分自身を「やはり日本人ではない」と認識することが多いという。人の目を見て話さないといった身振り、ことばのトーンやリズムやスピードの違い。そんなとき、氏は生徒たちに「もっと日本語を学べ、慣れろ」とは言わない。違和感を、溝を、大事にすべきだと考えているからだ。同化ではないのだ。

そのうえで、ことばを字面ではなく音やリズム感で伝えたいということに、希望を見出している。沖縄では日本と違い、アジアとのつながりも感覚的に濃密である。さまざまな硬直の溶融という希望の種があるというわけである。まさにこれが、氏が呼びかけて創刊した『越境広場』創刊0号のテーマでもある。

『越境広場』創刊0号には、北島角子『ウチナーグチ版・憲法九条』も収録されている。意訳であり、崎山氏が「わったー日本国民のー」(私達日本国民の)と朗読しはじめると、確かにうたのようだ。ことばの異化とフリクションを敢えて起こすことによって、壁を溶かす。さらには、崎山氏は「お笑い」も重視する。

さて、カチャーシー。何でもかんでも最後にカチャーシーで「混乱させておしまい」か、いやそうではない。お互いに動きを誘い、盛り上がっていけば、ハグしたくなるのだという。ことばの遣り合いによって、わからないことを前提に交流し、抱きしめたくなること。ずいぶんと前向きで希望に満ちた「野望」である。謎めいた作品を生み出してきた崎山多美という小説家に親近感がわいた。

●参照
崎山多美『ムイアニ由来記』、『コトバの生まれる場所』
崎山多美『月や、あらん』
『現代沖縄文学作品選』(崎山多美)
『越境広場』創刊0号


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