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自縄自縛日記

開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』

2011-07-16 08:43:46 | 東北・中部

開沼博『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社、2011年)を読む。

オビの豪華な名前(実は著者の指導教官)のためもあってか、ずいぶん売れている。もともと修士論文として書かれたものであり、学生ならではの気負った発言にかなり苛々させられる(私の苦手とするもののひとつは「謙虚でない学生」である)。学者以外を愚民かなにかだと思っているのかな。

それはそれとして、本書は面白い。

著者がこれまでの原発をめぐる言説の皮相な構図として考えるのは、「抑圧」と「変革」への帰結だ(もちろん、これは米軍基地についても言うことができる)。そこには、経済社会の発展のために仕方がなかった、現地もオカネをもらって栄えていた、といった物言いに含まれる歴史修正主義も見え隠れするのだ、と指摘している。

ここで著者は、保苅実(※本書では苅の字を刈と間違えている)のいう「ラディカル・オーラル・ヒストリー」(>> リンク)における、中央的視点から外れる人々の「経験」を重視し、そこから別の構造を浮かび上がらせている。つまり、中央からの「切り離し」作用こそが、原子力ムラの秩序維持に重要な役割を果たしてきた、ということである。そして興味深いことに、原子力ムラに存在する「反対派」も、「変わり者」として秩序維持に貢献してきたのだ、という指摘もある。

この「原子力ムラの側での自己再生産」、あるいは「原子力の自らの抱擁」は、その姿を変え続けているという。戦後から佐藤栄佐久県政初期までは中央から「地方」という媒介者がムラへの流れを作っていたが、佐藤栄佐久県政の後期から「地方」が媒介者たりえなくなり、その結果、中央とムラとが「地方」を介さずに共鳴しあうようになったのだ、と。「内への植民地化」から「自動化・自発化された植民地化」への変化である。

「・・・少なくとも原子力政策についての「改善への期待」を地方が失うなかで、中央-ムラ関係は直結し、メディエーターとしての「地方」の役割は消滅したと言うことができるだろう。それは、「中央の都合より地方自治が重視されなければならない」という憲法や地方自治法の理念に反す形で、地方やムラが中央との間で純粋な主従関係、支配-服従の関係に至ったと見ることもできるだろう。」

さてこれを米軍基地に置き換えてみるとどうなのか。「基地の町の側での自己再生産」、「基地の自らの抱擁」という言葉をもって論を如何に進めることができるか、考えてみる余地が大きそうだ。既存の「受益-受苦」関係を壊すと基地の町はより大きな苦しみの体系に組み込まれるか、これはそうではあるまい。

しかし、本書でいう「中央というpositionalityへの無自覚」や、「媒介者を用いた下位集団の切り離し・固定化・隠蔽」については、当然ながら、重要な視点である。

●参照
○支配のためでない、パラレルな歴史観 保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』 >> リンク
○『大江健三郎 大石又七 核をめぐる対話』、新藤兼人『第五福竜丸』 >> リンク
○『科学』と『現代思想』の原発特集 >> リンク
○黒木和雄『原子力戦争』 >> リンク
○『これでいいのか福島原発事故報道』 >> リンク
○有馬哲夫『原発・正力・CIA』 >> リンク
○山口県の原発 >> リンク
○使用済み核燃料 >> リンク
○『核分裂過程』、六ヶ所村関連の講演(菊川慶子、鎌田慧、鎌仲ひとみ) >> リンク
○『原発ゴミは「負の遺産」―最終処分場のゆくえ3』 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源 >> リンク
○東北・関東大地震 福島原子力の情報源(2) >> リンク
○石橋克彦『原発震災―破滅を避けるために』 >> リンク
○長島と祝島 >> リンク
○既視感のある暴力 山口県、上関町 >> リンク
○眼を向けると待ち構えている写真集 『中電さん、さようなら―山口県祝島 原発とたたかう島人の記録』 >> リンク


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