Sightsong

自縄自縛日記

大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」

2011-07-14 02:00:00 | 沖縄

大田昌秀講演会「戦争体験から沖縄のいま・未来を語る」(2011/7/10)に参加した。言うまでもなく元沖縄県知事・参議院議員にして反軍反基地の人であり、いまなお精力的な活動を続けている。

主催者側を代表して、杉並区議の新城せつこ氏とけしば誠一氏が挨拶をした。

また、ひめゆり学徒と同等の戦争体験をされた上江田千代氏も立った。上江田氏は先月腰痛で入院をされていたとき、大田氏から、「戦争を生きた者はいかなる困難にもくじけない」とのメッセージを貰い、ことばの深さを感じたのだと言った。

講演会の最後には保坂展人・世田谷区長も駆けつけた。


新城せつこ氏とけしば誠一氏


上江田千代氏、保坂展人氏

以下、大田氏の講演要旨。

○かつてイタリアの社会運動家ダニーロ・ドルチと『世界』で対談した際、「日米政府の壁は厚く壊せないが、壁の向こうに友達をたくさん作れば、壁を無化できる」と言われたことがある。しばらくしてベルリンの壁が壊され、ドルチの先見性を感じた。沖縄の外で頻繁に沖縄の実情を話し続けているのはそのためでもある。
○沖縄人は基地のため、自分たちの意思に反して、米軍の戦争における加害者であり続けている。
○「平和の礎」には、強制連行されてきていたために亡くなった朝鮮人たちの名前も刻んでいる。その際には、創氏改名の前の名前に戻す作業が大変だった。しかし、いまだに、「それによってことが済んだと思うな」と飛びかからんばかりだった女性や、会っていてもそっぽを向いて顔をそむける女性たちがいた。戦争被害とはこのようなものだ。
○沖縄戦が1945年4月1日に始まった(沖縄本島に米軍上陸)とするのは間違いである。3月26日には慶良間諸島に上陸し、それにより多くの住民が「集団自決」によって命を落としている。このことにより、「集団自決」が沖縄戦の歴史から消えてしまう。なお3月23日の空襲をもって沖縄戦のはじまりだと見なす意見もあるが、沖縄戦の特徴は日本で唯一の地上戦だったことにあり、やはり3月26日とすべきだ。
○沖縄戦が1945年6月23日に終わったとするのも間違いである。八原博通高級参謀が、「読売新聞」に、牛島中将らがその日に自決したと書いたことがその発端だが、米国で調べると、本当は6月22日であった。八原参謀は牛島自決前に壕を出ており、確認していない。また、牛島中将が切腹後、副官が介錯したこととされているが、米国に残された写真で確認しても、切腹した様子はなく、首もつながっている。実際には青酸カリを使ったという衛兵の記録のほうが信用性が高い。「武士道」を良しとする美的感覚があるためだ。
○実際には牛島中将自決後にも戦争は続き、例えば、40名の犠牲者中20名の住民が日本軍に殺された「久米島事件」も起きている。つまり6月23日は誤りであるばかりでなく、そのように定めることで、多くの犠牲者が歴史からもれてしまう。
○沖縄の施政権返還に大きな役割を果たした若泉敬(政治学者)は、結果的に基地が減らないという責任を感じ、大田氏宛てに遺書を送った。そこには、「武士道に則って自裁する」とあった。(その時には自殺を思いとどまったが、後日、青酸カリでの服毒自殺をしている。)
○沖縄戦に従軍記者として参加したハンセン・ボールドウィンは、「沖縄戦は醜さの極致だ」「かくも残酷な死闘をしたことはかつてなかったし、これからもあるまい」と言っている。沖縄戦は、生きるために戦う者=米軍と、死ぬために戦う者=日本軍とに分けられた。
石井虎雄陸軍大佐は、沖縄連隊区司令官として「沖縄防衛対策」をまとめ(1934年)、東京に電報で送っている。その重要な点は4点ある。①戒厳令を敷き、民間人の権限を軍隊に委ねよ。②島々を大海軍で対処しなければ、日本がやられる。③沖縄はもともと琉球王国であり、天皇のために命を捧げるようなことはしないため、寝返らないよう日頃から監視する必要がある。④沖縄の生活必需品の8割は県外から調達しており、敵が来る前に自滅するだろう。
首里城の地下30-35mに地下壕があり、守備軍司令部が置かれた。多い時には3000名ほどの軍人がいた。そこから、米軍上陸後に大政翼賛会の国頭支部(名護市)に届けられた命令文書には、住民の標準語以外の使用を禁止することや、沖縄語を使う者をスパイと見なすことが書かれていた。
○沖縄県知事は那覇空襲時には普天間の自然壕に逃げて閉じ籠った。そのため、県職員は決裁をもらうために毎回那覇から12kmを歩く破目になった。その後知事は理屈をつけて東京に出て、神奈川に転居してしまった。このように県の上の人間はほとんど本土に逃げた。そのことをまとめた『消えた沖縄県』という本がある。
○ジャーナリスト長谷川如是閑による「戦争絶滅受合法案」という案があった。これは、政治家が宣戦布告をしたら自ら一兵士として10時間以内に戦線に送り込まれ、またその妻たちも10時間以内に戦場に看護婦として送り込まれる義務があるとするものだ。こうすれば戦争は起こらないだろう。実際に、米軍上陸後にはそのような者たちはまったく現場を視察しなくなった。
○沖縄戦では13-19歳の若者が法律のないまま戦争に送りだされた。これも沖縄戦の特徴である。法律となったのは、16歳以上の男性、17歳以上の女性を戦場に送りだすことができる「義勇兵役法」(6月23日その日に公布)であった。
○首里城地下の本部には「情報部」が設置され(1945年1月)、33名の「国士隊」が任命された。彼らは校長、議員、医者など普段多くの人と接する者たちで、反戦・厭戦の人びとを密告し、処罰させる役割を担っていた。彼らが十分に活動せず敗戦したのが不幸中の幸いだった。
陸軍中野学校の卒業生11名が「残地諜報員」として任命され、島々で住民を監視・情報部に密告して殺させた。例えば大本営から派遣された「山下」(偽名)は、軍隊の食糧が不足するため、食糧豊富な波照間島の住民を西表島に強制的に移し(日本刀で脅した)、その結果、多くの住民がマラリアで亡くなった。これは、その後「星になった子どもたち」という歌になった。
○現在那覇新都心の「シュガーローフ」での激戦により、ごく短い間に1800人もの米兵が精神異常をきたした。沖縄住民はそうではなかった。ジェームズ・クラーク・マロニー(精神科医)は『The Lesson of Okinawa』という本において、沖縄には個室がなく緊密な人同士の感覚があるために戦争でも精神異常を引き起こさなかったのだと結論付けている。その一方で、「子どものときに戦争体験をしたら、大人になって精神異常をきたすだろう」とも指摘しており、実際にその通りになった。いまも沖縄戦は続いている。
辺野古では老人たちが生活を犠牲にし、朝から晩までの座り込みを15年くらいも続けている。二度と戦争を起こしてはならないという強い気持ちによるものだ。感動してしまう。
○辺野古はもともと貧しい地域で、海での漁でオカネを稼ぎ、子どもを学校に行かせていた。もし大浦湾を基地建設によって失うと、戦争のときに生きていけない。
○地政学的に沖縄に基地を置くべきとの説明は全くのウソであり、反証は多い。米軍基地の存在が国益となるなら、本土で基地を引き受ければよい。こんな主権国家はあり得ない。
ライシャワー元駐日大使は(後で開示された文書でわかったことだが)、嘉手納以南は人口稠密地域であり、日本復帰して沖縄人の権利意識が高まったら困る、何とかその後も嘉手納基地を維持したい、と考えていた。ライシャワーはCIAからの72万ドルを用いて立法院(のちの沖縄県議会)における基地反対議員を懐柔し、また、屋良朝苗が行政主席・知事となった際には日本政府からの88万ドルを用いて基地反対の候補を潰した。屋良朝苗は、高等弁務官と何度も会い、もし当選しても反米運動をやらないとの言質を取られていた。ライシャワーはゼネストもオカネを使って潰した。
稲嶺知事が大田知事を破って当選したときも、官房機密費3億円(あるいは10億円)が使われた(鈴木宗男による)。
グアムのアンダーセン基地嘉手納基地の13倍の面積を持ち、ガラ空きである。普天間だって全て移すことができる。辺野古は運用40年、耐用200年と言われている。そのような新基地を作らせてはならない。
○おそらく嘉手納統合は無理だろう。マケインら米上院議員はそのことを知らない。
○仮に普天間が固定されまた事故があったら、住民はコザ暴動のように怒りを爆発させるだろう。そうしたら、自衛隊は米軍を護るため、住民に銃を向けるだろう。最悪の事態は避けなければならない。
○今では沖縄の基地収入は6%程度に過ぎず、返還された基地跡地ではことごとく雇用人数も経済効果も激増している。また、観光産業が沖縄のひとつの目玉であり、大浦湾であればエコツーリズムも良いだろう。
○政治家は誰も自分の利益や選挙区のことしか考えておらず、多数決による差別的構造が温存される結果となっている。本土で1人でも多くが理解することが唯一の道である。
○沖縄独立論がまた力を付けてきている。

終わった後に、阿佐ヶ谷の「ぐるくん」にて、大田氏を囲む。稀有な機会だった。


大田氏、後ろには上江田氏

●参照
大田昌秀『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題―最善・最短の解決策』


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2 コメント

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Unknown (ひまわり博士)
2011-07-15 01:15:22
さすが見事にまとめられましたね。
感服です。
「ぐるくん」ではもう少し鉄血勤皇隊のことについて聞き出したかったのですが、あの状況では難しかったです。大田さんと話し始めると邪魔が入るし。
この日の話の内容は、佐藤優と共著の『沖縄の未来』とけっこうオーバーラップしています。この本、もし未読でしたらおすすめです。
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Unknown (Sightsong)
2011-07-15 08:13:53
ひまわり博士さん
愉しい飲み会でした。お誘いいただきありがとうございました。
> 佐藤優と共著の『沖縄の未来』
軽い対談かと思っていたのですが、それならば読まなければなりませんね。
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