詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(158 )

2010-12-08 11:44:27 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『豊饒の女神』の巻頭の「どこかで」。

どこかでキツツキの音がする
灰色の淋しい光が斜めにさす
コンクリートのせまい街を行く
アンジェリコの天使のような粋な
野薔薇のように青ざめた若い女が
すれちがった--ゆくりなく
ベーラムがかすかにただよう
この果てしないうら悲しさ
「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 「淋しい」と「うら悲しさ」と、どう違うのだろう。はっきりとはわからない。けれど、もし、「この果てしない淋しさ」だったら、この詩の印象は違ってくるだろうと思う。「うら悲しさ」、とくに「悲しさ」の「か行」のことばが、次の「おどりのけいこ」の「けいこ」ととてもいい感じで響きあう。「この果てしない淋しさ」だと「おどりのけいこ」とはうまく響き合わない。遠く離れてしまって、音楽が生まれてこない。
 この「か行」はどこからきているか。

すれちがった--ゆくりなく

 この1行の、とくに「ゆくりなく」の「く」からきている。「ゆくりなく」の「ゆくり」は「ゆかり」。「ゆかり」がない。「縁」がない。そこから「思いがけない」という意味が生まれているのだと思うが、「ゆくり」と「ゆかり」には音のすれ違いがある。「く」という音を意識しながら、どこかで「か」の音を聞いている。そのすれ違いの中に「か行」の意識が強くなる。
 「か」すかにただよう。(音楽なのに、かすかに、かおる、そのかおりのようなものもある。)「こ」のはてしないうら「か」なしさ。おどりの「け」い「こ」にいって「き」たのよ。
 「この果てしないうら悲しさ」はまた、このはて「し」ないうらかな「し」「さ」であり、その「さ行」の動きは、「さ」びしいを呼び覚ます。
 「この果てしないうら悲しさ」という1行には「かなしさ」と「さびしさ」が出会っているのだ。
 けれど、そういう「意味」を突き放して、

「おどりのけいこに行つて来たのよ」

 という1行でおわる。
 「おどりのけいこに行って来」て、それがどうした? どうもしない。一瞬の「すれ違い」のおもしろさがあるだけである。それは、「無意味」かもしれないが、その「無意味」が詩なのである。




詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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