詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

2010-12-22 11:23:34 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(164 )

 『豊饒の女神』のつづき。「あざみの衣」は、とても好きな詩である。どこが好きなのか--説明するのはむずかしい。

路傍に旅人の心を
悲します枯れた
あざみのうすむらさきの夢の
ようなものが言葉につづられる
あざみの花の色を
どこかの国の夕陽の空に
たとえたのはキイツという人の
思い出であつた

 2行目がとても不安定である。不安定--というのは、「悲します枯れた」ということばが「意味」をもたないからである。この1行だけでは何のことかわからない。わからないけれど、「悲します」は1行目につながっていることはわかる。「旅人のこころを/悲します」であることはわかる。そして、「枯れた」は次に登場する何かを修飾することばであることも想像できる。「意味」はわからないが、この1行のなかで、ことばが普通とは違うスピード(普通よりは早いスピード)で動いていることがわかる。「か」なします「か」れたという頭韻がスピードを加速させていることもわかる。--わたしは、きっとこのことばのスピード感が好きなのだ。
 そして、西脇のことばのスピードは、直線の高速道路を走るようなスピード感ではない。複雑な街角を曲がっていくときのスピード感である。急ブレーキと一気にエンジンを噴かせる燃料の爆発のようなものが同居している。ブレーキの音や道に落ちているものをはねとばすノイズのようなものも混じっている。しかし、それはすべて「軽快」である。そこが好きなのだ。
 よく読むと1行目から、とても変なのだ。

路傍に旅人の心を

 「路傍に」を受け止めることばが1行目にはない。1行目は1行として独立していない。詩の1行目が1行として独立していなければならないという理由などないけれど、たとえば1行目が「路傍に」だけであるとか、あるいは「旅人の心を」だけであると仮定してみると、西脇の書いている1行の特徴がよくわかる。
 「路傍に」あるいは「旅人の心を」は、それぞれ独立している。けれど「路傍に旅人の心を」は独立していない。なにかしら次の行をせかせるものがある。「路傍に」どうしたんだ、「旅人の心を」どうしたんだ(どうするんだ)とふたつの思いがことばを駆り立てる。「路傍に」か、「旅人の心を」が1行だったら、それはどちらかの思いがことばを駆り立てるだけだが、「路傍に旅人の心を」だと、ふたつの思いがことばを駆り立てる。
 駆り立てるものが「ひとつ」か「ふたつ」か。
 西脇のことばは「ふたつ」を駆り立て、そして、そのどちらに重点があるかを明らかにしない。「あいまい」である。これが、たぶん、おもしろさの「秘密」である。詩の「秘密」である。
 「散文」だと、こういう文章は嫌われる。ある事実を踏まえ、その先にことばを動かしていく。ふたまたの道を用意していては、ことばはどちらへ行っていいか迷ってしまう。読者はことばの動きを予測できない。したがって、読むスピードが落ちる。これは散文にとっては不幸である。迷いながら長い文章、積み上げられた文章を読むのはつらいからね。
 ところが詩ではこういう運動が逆の効果を産む。ふたまたの道によって、どっちへ行ったっていいじゃないか、という「自由」が生まれる。どうせ「長旅(長い文章)」ではない。ぶらぶらしていけばいい。そのときそのとき、道草をする楽しみを味わえばいい。
 「ふたまた」は、また方向性が見えないことをとらえて「不安定」と呼ぶこともできる。そして、そう考えるとき、2行目が、その構造がより鮮明に見えてくる。2行目「悲します枯れた」は「ふたまた」を加速させる「ふたまた」である。このときの「また」は「またがる」の「また」でもある。「ふたつ」を「また」いで、「ひとつ」にし、その「ひとつ」のなかへ加速して飛びこむのである。
 「ひとつ」って、どっち?
 わからないねえ。
 わからなくしているのだ。わからなくて、いいのだ、そんなことは。
「ふたつ」を「また」いで「ひとつ」にして、その「ひとつ」をさらに突き破っていく。そのスピードの中に詩がある。
 「わからない」ものをあれこれ分析して「意味」にしてしまったら、「ふたつ」を「ひとつ」にする強引な喜びが消えてしまう。

 たとえば川がある。あるいは深い深い溝がある。それを跳び越す--そういう危険なことをせずに橋を渡ればいいという考えもあるけれど、この「跳び越す」よろこび、ね、味わったことがあるでしょ? 何でもないことなのだけれど、「肉体」に自身があふれてくる。「できた」というよろこびがあふれてくる。
 これに似ているのだ。西脇のことばの運動の、不安定なよろこび、不安定なスピードの加速は。どうしようかな、跳べるかな、ちゃんと着地できるかなという不安と、「ほら、やれ、がんばれ」という悪友のはげましが交錯する中、ともかくやってしまうのだ。

 跳び越してしまって、後ろを振り返ると、不思議なものが見える。走ってきて、跳び越す瞬間に見えた何か--それは障害物だったのかな? それともジャンプ台だったのかな?
 たとえば、この詩では「ようなものが言葉につづられる」という1行。前の行からわたってきた「ようなもの」という行頭のまだるっこしさ。それは「障害物」? それとも「ジャンプ台」? 「キイツ」は? それは「障害物」なのか、それとも「ジャンプ台」なのか。
 わからないけれど、そのわからないものが全部「背景」になって輝いている。
 それは、どうやっ跳べたのかわからないけれど、跳び越してしまったときの「肉体」のなかにあふれてくるよろこびの輝きに似ている。




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西脇 順三郎
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