金子鉄夫『ちちこわし』(思潮社、2012年04月25日発行)
金子鉄夫『ちちこわし』は冒頭から魅力的な詩行が展開する。
「ほほの皮をめくってまで」。わかる? わからないねえ。ほほの皮を私はめくったことがないから、わからない。--のだけれど、わからないといいたいのだけれど、わかるなあ。この感覚。
まあ、「誤読」なんだけれど。
「ほほの皮」。人間の皮膚。肌。人間は、皮膚によって輪郭がつくられている。それは輪郭によって自分を守っているということでもあるかもしれない。その皮をめくるとは、自分の輪郭を脱ぐということだね。
で、そういう抽象的なことは脇においておいて。
「ほほの皮」を私はめくったことがないけれど、手の皮(指の皮)、足の皮というのは、めくるではなく、はがれるときがある。そうすると、その皮の下には皮になりきれない「肉」がある。濡れている。(ような感じがする。)--これは人間だけではなく、いろいろな生き物も同じだ。鶏の皮を剥ぐ。剥き出しの肉が出てくる。木の皮を剥ぐ。剥き出しの、木の肉体のようなものが出てくる。それは、妙に濡れている。そして、そういうものは手に吸いついてくる。--というのは、違うかなあ。手で触って、手を吸いつけたく(?)なる。
何かわからないけれど、剥き出しのものはなまめかしい。刺激的である。くっつきたくなるのである。
この感じ--悲しくなると、誰かの裸とくっつきたくなる、という感じにどこか通じない?
で、わかるというのは、そういうこと。
「誤読」を承知で書くのだが、金子の書こうとしていることを無視して、私は私の感覚がどこかへ暴走しはじめているのを感じるのだが、こういう暴走を誘われるとき、「わかる」という感じになる。私の場合は。
簡単に言うと、金子を、ではなく、自分を、自分の気持ちをみつけたような気持ちになるのである。
このあとも、とてもおもしろい。
「あな」はどうしたって、人間の穴、膣だね。肛門だねえ。肛門を膣と間違えたのか、膣を肛門と間違えたのか。--と書くと(書いていると)、あなは女の穴? おとこの穴? という疑問がふいに浮かんでくるのだが、まあ、どっちでもいい。
私がおもしろいと思うのは「まちがう」ということば。
愛するというのは、だいたい「間違い」である。誰でも、間違って愛するのである。間違っているから、愛は憎しみに深まり、憎しみは愛に高まる。というのは、また抽象になっておもしろくないが……。
ようするに、愛というのは、わけがわからなくなることである。そして、そのわけがわからなくなるというとは、自分の「枠(輪郭)」がなくなるということである。「皮膚」が剥がれ(剥がされ)、剥き出しになった肉が、肉の表面にある粘液のようなものにまみれて、べったり他人の肉とくっついてしまう。
これは汚い。
汚いけれど、そういう汚いことを人間はしたい。(私は、したい。)
汚いことは、どこか気持ちがいいからである。
汚いことの中には、なにか自分が遠ざけようとしているも--遠ざけることで自分をまもろうとしているものが含まれていて、その汚いものにまみれると、自分の「防衛本能」のようなものがくずれ、自分の内部に隠れているものが噴出してくるような感じがする。これは、うれしい。
「皮をめくって」から「まちがう」までの間には、そういう野蛮なよろこびがあふれている。「皮をめくる」は暴力である。「まちがう」も暴力である。その暴力の炸裂が、野蛮で、輝かしい。
どこまでもどこまでも暴力を暴走させ、間違えつづけるのが、きっと人間として、人間の肉体として正しいことなのだと思う。このときの正しいは、エクスタシーという意味である。自分を突き破って、自分でなくなってしまう。そこにだけ、「いのち」の正しさがある。可能性がある。
「正しい」とは「可能性を切り開く」ということなんだねえ。
「皮」(皮膚)へのこだわり、皮を突き破って、皮の内部を外に出してしまう--という欲望が、金子にはある。
「捲くれば」は「めくれば」と似たようなものである。すくなくとも「めくる」「捲くる」ときの人間の動きは同じだろう。「吐きそう」は内部にあるものを吐き出すということだろう。この内部を外へ出すという運動と「皮を捲くる(めくる)」がつながっているのが金子の特徴だろう。
「マリー」とか「ニシオギクボ」という突然の固有名詞。この突然さのなかにひそむ暴力が、「めくる(捲くる)」→「(内部を)吐く」という肉体の暴力・反乱と直結し、そこに輝きに満ちたリズムをつくりだす。
で。
私はここで、そうなんだなあ、セックスって結局暴力なんだなあ。人間は暴力が大好きなんだなあ、とふと思うのである。
金子さん、暴力好きでしょ? セックス好きでしょ?
掻きむしるものは、たいていが「肌(皮、皮膚)」。掻きむしるとき、「皮」は「痒い」。掻きむしるのは、いわばその「痒い皮」をめくって、まくって、剥がして、捨てることである。それは「皮」を「脱ぐ」ことでもある。
そうなったら、もう「私」は「それまでの私」ではない。つまり「ガキ」ではない。人間が「ガキ」でなくなるのは、
セックスのあとだねえ。
犯す--という暴力をとおして、人間は優しさを知る、というのはマッチョ思想?
まあ、いいか。
私は自称「フェミニスト」なんだけれど、きっとどこかでマッチョ思想を隠していたんだろう。
ちょっとどうでもいい補足。
私は実は、この詩集の前半部分は好きだけれど、「ちちこわし」以後はそれほど好きではない。「上手」に「現代詩」になりすぎているように思う。
この「隠喩」さえも「比喩」にしてしまうことばの運動。「頭」がよすぎていやだなあ。「頭」でセックスすると、あなを間違えても、頭が勝手に修正しちゃうよ。間違えるよろこび、とんでもないところに射精してしまって、そこから自分の肉体が増殖し世界を壊していくという楽しみと恐怖が消えちゃうよ。
もっと乱暴に暴走してほしいなあ。
「おまえら、ここまで暴走できないだろう。追っかけられないだろう。ざまあみろ」という詩を書いてほしいなあ。悔しがらせてほしいなあ。
金子鉄夫『ちちこわし』は冒頭から魅力的な詩行が展開する。
なぜひとはかなぁしくなると
ほほの皮をめくってまで
うみへゆくのさ
(へらへらわらってんじゃねぇ)
(「うみなんていくな」)
「ほほの皮をめくってまで」。わかる? わからないねえ。ほほの皮を私はめくったことがないから、わからない。--のだけれど、わからないといいたいのだけれど、わかるなあ。この感覚。
まあ、「誤読」なんだけれど。
「ほほの皮」。人間の皮膚。肌。人間は、皮膚によって輪郭がつくられている。それは輪郭によって自分を守っているということでもあるかもしれない。その皮をめくるとは、自分の輪郭を脱ぐということだね。
で、そういう抽象的なことは脇においておいて。
「ほほの皮」を私はめくったことがないけれど、手の皮(指の皮)、足の皮というのは、めくるではなく、はがれるときがある。そうすると、その皮の下には皮になりきれない「肉」がある。濡れている。(ような感じがする。)--これは人間だけではなく、いろいろな生き物も同じだ。鶏の皮を剥ぐ。剥き出しの肉が出てくる。木の皮を剥ぐ。剥き出しの、木の肉体のようなものが出てくる。それは、妙に濡れている。そして、そういうものは手に吸いついてくる。--というのは、違うかなあ。手で触って、手を吸いつけたく(?)なる。
何かわからないけれど、剥き出しのものはなまめかしい。刺激的である。くっつきたくなるのである。
この感じ--悲しくなると、誰かの裸とくっつきたくなる、という感じにどこか通じない?
で、わかるというのは、そういうこと。
「誤読」を承知で書くのだが、金子の書こうとしていることを無視して、私は私の感覚がどこかへ暴走しはじめているのを感じるのだが、こういう暴走を誘われるとき、「わかる」という感じになる。私の場合は。
簡単に言うと、金子を、ではなく、自分を、自分の気持ちをみつけたような気持ちになるのである。
このあとも、とてもおもしろい。
あな
あなまちがうほどあいしたひとに
うらぎられたって
どんつきの沈んだ浜辺で
本日のて、あしを散らすのは惜しい
「あな」はどうしたって、人間の穴、膣だね。肛門だねえ。肛門を膣と間違えたのか、膣を肛門と間違えたのか。--と書くと(書いていると)、あなは女の穴? おとこの穴? という疑問がふいに浮かんでくるのだが、まあ、どっちでもいい。
私がおもしろいと思うのは「まちがう」ということば。
愛するというのは、だいたい「間違い」である。誰でも、間違って愛するのである。間違っているから、愛は憎しみに深まり、憎しみは愛に高まる。というのは、また抽象になっておもしろくないが……。
ようするに、愛というのは、わけがわからなくなることである。そして、そのわけがわからなくなるというとは、自分の「枠(輪郭)」がなくなるということである。「皮膚」が剥がれ(剥がされ)、剥き出しになった肉が、肉の表面にある粘液のようなものにまみれて、べったり他人の肉とくっついてしまう。
これは汚い。
汚いけれど、そういう汚いことを人間はしたい。(私は、したい。)
汚いことは、どこか気持ちがいいからである。
汚いことの中には、なにか自分が遠ざけようとしているも--遠ざけることで自分をまもろうとしているものが含まれていて、その汚いものにまみれると、自分の「防衛本能」のようなものがくずれ、自分の内部に隠れているものが噴出してくるような感じがする。これは、うれしい。
「皮をめくって」から「まちがう」までの間には、そういう野蛮なよろこびがあふれている。「皮をめくる」は暴力である。「まちがう」も暴力である。その暴力の炸裂が、野蛮で、輝かしい。
どこまでもどこまでも暴力を暴走させ、間違えつづけるのが、きっと人間として、人間の肉体として正しいことなのだと思う。このときの正しいは、エクスタシーという意味である。自分を突き破って、自分でなくなってしまう。そこにだけ、「いのち」の正しさがある。可能性がある。
「正しい」とは「可能性を切り開く」ということなんだねえ。
「皮」(皮膚)へのこだわり、皮を突き破って、皮の内部を外に出してしまう--という欲望が、金子にはある。
びよーん、びよーん
いちまい皮を捲くれば
その(企み)をもったマリーたちが
金属バットを振り回して
増殖している
おれのからだ
今晩も吐きそうさ、ニシオギクボ
(「吐きそうさ、ニシオギクボ」)
「捲くれば」は「めくれば」と似たようなものである。すくなくとも「めくる」「捲くる」ときの人間の動きは同じだろう。「吐きそう」は内部にあるものを吐き出すということだろう。この内部を外へ出すという運動と「皮を捲くる(めくる)」がつながっているのが金子の特徴だろう。
「マリー」とか「ニシオギクボ」という突然の固有名詞。この突然さのなかにひそむ暴力が、「めくる(捲くる)」→「(内部を)吐く」という肉体の暴力・反乱と直結し、そこに輝きに満ちたリズムをつくりだす。
で。
私はここで、そうなんだなあ、セックスって結局暴力なんだなあ。人間は暴力が大好きなんだなあ、とふと思うのである。
金子さん、暴力好きでしょ? セックス好きでしょ?
おれたちにくるえる体位なんていまさらどこにある
掻き毟って、ただ掻き毟りましょう
(「アダルト通信」)
いちまい捲ってはノド締められる秋空
今日も、この街道の膚が痒い痒いって
(「ヒャクニン」)
あっあっとつまるおまえを尻目に
おれは烏賊を脱ぐ
(脱いだらもうガキじゃない)
(「烏賊脱ぎ」)
掻きむしるものは、たいていが「肌(皮、皮膚)」。掻きむしるとき、「皮」は「痒い」。掻きむしるのは、いわばその「痒い皮」をめくって、まくって、剥がして、捨てることである。それは「皮」を「脱ぐ」ことでもある。
そうなったら、もう「私」は「それまでの私」ではない。つまり「ガキ」ではない。人間が「ガキ」でなくなるのは、
セックスのあとだねえ。
犯す--という暴力をとおして、人間は優しさを知る、というのはマッチョ思想?
まあ、いいか。
私は自称「フェミニスト」なんだけれど、きっとどこかでマッチョ思想を隠していたんだろう。
ちょっとどうでもいい補足。
私は実は、この詩集の前半部分は好きだけれど、「ちちこわし」以後はそれほど好きではない。「上手」に「現代詩」になりすぎているように思う。
電柱のしたには
肉のうすいうすい昨日の隠喩が
くさってくさっていてさ
(「肝、もえ(くずれる)まちにて」)
この「隠喩」さえも「比喩」にしてしまうことばの運動。「頭」がよすぎていやだなあ。「頭」でセックスすると、あなを間違えても、頭が勝手に修正しちゃうよ。間違えるよろこび、とんでもないところに射精してしまって、そこから自分の肉体が増殖し世界を壊していくという楽しみと恐怖が消えちゃうよ。
もっと乱暴に暴走してほしいなあ。
「おまえら、ここまで暴走できないだろう。追っかけられないだろう。ざまあみろ」という詩を書いてほしいなあ。悔しがらせてほしいなあ。
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