詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中さとみ『ひとりごとの翁』

2017-11-19 17:17:52 | 詩集
田中さとみ『ひとりごとの翁』(思潮社、2017年09月15日発行)

 田中さとみ『ひとりごとの翁』は読みにくい詩集である。文字が判型の本に比べると小さい。私は目が悪いので、これはとても読みづらい。それが「遠い」という感覚を呼び覚ます。ことばが「遠い」と。
 実際に、「遠い」のだと思う。
 で、その「遠い/遠さ」というのは、どういうことかなあ、というと。
 「鼠浄土」という作品。

歯を梳った
にんげんになるお祝いに
動物は本来は夜行性でしょ
かたいものを食べないとなにも食べられなくなった
鼠浄土
(ゆうきぶつをむきぶつに戻すうんどうを推し進める)
太陰暦に従い
忌み嫌われて、それでも、なお、靴を食べ、
ださんてきな、魚眼を持つ、胸のいたみの、
根の国へ
沈もう

 「鼠」のことを書いているのか。そうでもない。「にんげんになる」ということばが出てくるから「鼠がにんげんになる」ということなのかもしれないが、どうも「逆」に感じられる。「人間がねずみになる」と。「人間が死んで、浄土で鼠になる」という具合に感じられる。浄土で鼠になったにんげんが、にんげんだったころを思い出しながら鼠になって生きている。
 もう鼠なんだから、人間のように「やわらかい」ものは食べられない。「かたい」ものを食べないといけない。それ以外に食べるものがない。たとえば「靴」を食べる。
 (ゆうきぶつをむきぶつに戻すうんどうを推し進める)ということばがあるが、これもきっと逆なのだろう。「むきぶつ」を食べながら、それを体内で「ゆうきぶつ」にかえる。靴は「無機物」ではないが、そういうにんげんの食べない「かたい」もの食べながら、栄養にして(ゆうきぶつにして)いかないといのちが続かない。
 というようなことを田中は書いているのではないかもしれないが、私は、そう読んでしまう。「誤読」してしまう。よくわからないから「誤読」する。
 田中のことばを読んでいると、そこに書かれている「論理」とは別の「論理」が私のなかで動き出し、入り乱れる。
 このときの「よくわからない」が「遠い」である。
 でも、その「よくわからない」という私の書き方は微妙で、完全にわからないのではなく、何かを「わかった」ような気になるのが「よくわからない」であり、そのために「誤読」がはじまる。そして「誤読」がはじまると、「遠い」はずのものが私の「肉体」の内部で動き始め、それが「近い」にもなる。なんといっても「体内」だからね。この変な感じを「入り乱れる」というのだけれど。
 これは、どういうことかなあ。そんなことを思いながら読んでいくと、「人魚の肉」にこんな部分がある。

思い返すのは、道路にいたカエル。
そういえばと思った。
夏の雨の日にカエルがたくさん道にうずくまっていて、
思わず踏んでしまいそうだった。車がわたしの後ろから
走ってくる。カエルの鳴き声が響く。どたどたとタイヤ
がまわればカエルは踏みつぶされていく。逃げればいい
のにと思った。雨の日には道がペチャンコのカエルでい
っぱいだった。

 「思い返すのは」ということば。私は、ここに思わず傍線を引いた。あ、田中は「思い返す」ことで詩を書いている。その「思い返す」には、必ずしも自分の体験のことだけではない。引用部分では、雨の日に道にカエルがたくさんいるのを見たということが思い返されている。そのカエルは車にひかれたカエルである。実際にひかれる瞬間を見たかもしれない。しかし、引かれる瞬間を見なかったカエルも含まれる。ここが、ポイント。「逃げればいいのにと思った」がさらに重要。何かを見て、そこから何が起きたのかを「思う」ことができる。死んだカエルを見て、車にひかれたのだと思う。それ以上に「逃げればいいのに」と思う。このとき「思う」のは「現象」だけではなく、「気持ち」でもある。カエルに「気持ち」があれば、ということだけれど。そして「気持ち」を思うその瞬間、カエルはカエルではなく「にんげん」である。ただ、そのときの「にんげん」というのは微妙で、「にんげん」として思っているのか、逃げるというにんげんの行動を「カエル」として思っているのか、よくわからない。「にんげん」と「カエル」が交錯し、入れ替わる。
 「思い返す」というのは、「過去」を「思い出す」とは違うのかもしれない。「過去」を「いま」に呼び戻し、そこに起きていることを「ひっくり返す」のかもしれない。「ひっくり返す」というのは「起きたこと」を「起きなかったこと」にするというのではなく、「過去」の「できごと」のなかの「主役」を入れ替えるということ。
 「わたし」は思い返す。そのとき「主役」は「わたし」。思い返すのは道いっぱいのカエル。車にひかれてつぶれたカエル。これは「脇役」。思い返した瞬間、「わたし」は「カエル」になっている。そして、「逃げればいいのに」と思い返している。もう死んでいるのだけれど、死んでしまって「あのとき逃げればよかった」と思い返しているということ。気持ちはいつの間にか「カエル」になっている。
 「思い返す」は「繰り返す」でもある。「繰り返す」ことで、「わたし」が「わたし」ではなくなる。「繰り返されている」対象になる。「思い」が対象にのりうつって、それから「対象」の「肉体」になる。そうなることで、入れ替わる。
 たぶん、この「入れ替わり」のために、「遠い」ということがさらに印象的になるのだと思う。田中は田中のことを書いているのだろうけれど、書いている内に田中ではなく書かれている対象になっている。それは田中でありながら、田中ではない。田中ではないけれど、田中である。だから「遠い」けれど、妙に「近い」という感じでもある。

これはだれの思い出か。

 という一行が、詩集のタイトルになっている「ひとりごとの翁」のなかにある。
 まさに、そういう感じ。
 ここに書かれているのは、田中の「思い出」なのか。それとも私が覚えていることが田中のことばをとおして「思い返されている」のか。
 カエルを見て、カエルがどうしてそうなったのか、どうして逃げなっかったのか、というようなことを思ったことがあるでしょ? 鼠は何も食べるものがないから靴までかじったのか、と思ったことがあるでしょ? 道でぺしゃんこになったカエルを見たとき、かじられた靴を見たとき。
 ほら、そうすると、「これはだれの思い出なのか」といいたくなる。
 「遠い」はずのカエルや鼠が妙に「近く」なったりもする。
 これって、「遠い」ままの方が、読んでいて安心するのだけれど、詩集の文字が小さいので、どうしても「肉体」が活字(ことば)の方に前のめりになる。つんのめりながら「遠い」はずの世界へ近づいていく。
 そういう不思議な感覚も誘い出す。
 ある意味で、いやあな詩集だね。私はカエルや鼠にはなりたくない。カエルや鼠の気持ちなんか知りたくないから、というようなことも思ったりする。自分のなかで「遠さ」をつくりだしたい気持ちになる。

ひとりごとの翁
クリエーター情報なし
思潮社


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