浦歌無子『夜ノ果ててのひらにのせ』(弦書房、2017年11月25日発行)
浦歌無子をはじめて読んだのは「骨」の詩だった。人間の体にはいくつもの骨がある。そしてそれぞれの骨には名前がついている。なぜ、人間は、骨というだけでは納得できずに、それぞれに名前をつけたのか。無意識のなかの意識に入り込んでゆくような詩だった。その印象が強いせいなのか、その後の詩の展開(ことばの運動)は、どうも刺戟が少ない。いわゆる「詩(現代詩)」という世界におさまってしまっている感じがする。
ことばは、やっぱり、ことばのなかへ入っていかないとおもしろくない。
という不満を持ちながら読み進んで、「弟八夜」。
ここで、私は立ち止まった。浦は「砂の音が貼りついてとれないので/耳を捨てに行く」と書いているのだが、「砂の音」と「耳」が、私の中では「交錯」する。
と、どうしても読んでしまう。
なぜだろうか。
「砂の音が貼りつく」というときの、「貼りつく」という動詞のつかい方のせいなのだと思う。書いている「意味」はよくわかるが、でも、何か違う。
何が違うのか。
私は、砂の音が「貼りつく」というつかい方をしたことがない。たぶん聞いたこともない。ふつうに聞くのは「音がこびりつく」である。「こびりつく」というのは、たとえば濡れた体に砂がこびりつく。それは体が乾くと、剥がれる。払い落とす(拭い落とす)ことができる。
「貼りつく」は、たぶん、そう簡単には「剥がせない」ものである。貼りついてしまったら、剥がせない。
だからこそ、ある音が「耳にこびりついて、離れない」という具合にもつかう。
そして、こういうときの「耳にこびりついて」は、実は「耳」にこびりついているのではなく、「耳の内部」、たとえば「鼓膜」、いや「意識/頭/脳(こころ、というひともいる)」を指す。「肉体の内部」に「こびりつく」、「肉体の内部」に入り込んでしまう。本来、分離できるはずのものが分離できないような状態になったときとき、それを「耳にこびりつく」というのだと思う。
でも、浦の書いているのは「こびりつく」ではない。「貼りつく」である。
そして「貼りつく」は、どうしても「表面」を印象づける。何かの「表」に何かが「貼りつく」、あるいは何かの「表」に何かを「貼りつける」。この「表」というのは、「内部」とは違う。
「内部」ではなく「表」、あるいは「外」。
この感じが、「耳」が「肉体」の外に飛び出していることと結びついて、「耳」が「肉体(顔、頭)」に「貼りついている」という印象と重なる。「肉体」の外側にはみだしている、貼りついて突起物となっている。それを捨てに行く。
外に貼りついている「耳」を捨てると、「肉体の内部」にこびりついている(貼りついている)音を消すことができる。「耳を捨てる」は「砂の音(記憶)/肉体の内部にあるもの」を捨てることことなのだ。
「砂の音」と「耳」、「貼りついて」と「捨てる」が、入れ替わりながら動く。この瞬間が、とてもおもしろい。
私が書いたように、くどくどと書き直してしまうと、めんどうくさくて、窮屈な感じにもなるが、読んでいるときは、「一瞬の錯覚」のようにして何かが動くだけであり、その「何か」というものが、楽しい。
あ、ここに「詩」がある、と思う。
こういう「誤読」の瞬間が、私は大好きだ。
でも、この詩は途中から、ことばの調子が変わる。
これが、まあ、「貼りついてとれない」音なのだろうが、あまり官能的ではない音だなあ。最後の方は、むりやり「よ」の音を繰り返して音楽を装っている。「ばらいろ」ということばが象徴的だが、ここに書かれているのは「聴覚」の世界ではなく「視覚」が中心の世界である。
うーん、
「耳を捨てに行く」必要なんかないんじゃないか、と思ってしまう。
それが残念だ。
浦歌無子をはじめて読んだのは「骨」の詩だった。人間の体にはいくつもの骨がある。そしてそれぞれの骨には名前がついている。なぜ、人間は、骨というだけでは納得できずに、それぞれに名前をつけたのか。無意識のなかの意識に入り込んでゆくような詩だった。その印象が強いせいなのか、その後の詩の展開(ことばの運動)は、どうも刺戟が少ない。いわゆる「詩(現代詩)」という世界におさまってしまっている感じがする。
ことばは、やっぱり、ことばのなかへ入っていかないとおもしろくない。
という不満を持ちながら読み進んで、「弟八夜」。
フジツボのようにびっしりと
砂の音が貼りついてとれないので
耳を捨てに行く
耳捨てに
行きます泣いて夜の川に泣いて
わたしたちは砂まみれだから
砂の入った大きなズタ袋だから
耳捨てに
ここで、私は立ち止まった。浦は「砂の音が貼りついてとれないので/耳を捨てに行く」と書いているのだが、「砂の音」と「耳」が、私の中では「交錯」する。
耳が貼りついてとれないので
と、どうしても読んでしまう。
なぜだろうか。
「砂の音が貼りつく」というときの、「貼りつく」という動詞のつかい方のせいなのだと思う。書いている「意味」はよくわかるが、でも、何か違う。
何が違うのか。
私は、砂の音が「貼りつく」というつかい方をしたことがない。たぶん聞いたこともない。ふつうに聞くのは「音がこびりつく」である。「こびりつく」というのは、たとえば濡れた体に砂がこびりつく。それは体が乾くと、剥がれる。払い落とす(拭い落とす)ことができる。
「貼りつく」は、たぶん、そう簡単には「剥がせない」ものである。貼りついてしまったら、剥がせない。
だからこそ、ある音が「耳にこびりついて、離れない」という具合にもつかう。
そして、こういうときの「耳にこびりついて」は、実は「耳」にこびりついているのではなく、「耳の内部」、たとえば「鼓膜」、いや「意識/頭/脳(こころ、というひともいる)」を指す。「肉体の内部」に「こびりつく」、「肉体の内部」に入り込んでしまう。本来、分離できるはずのものが分離できないような状態になったときとき、それを「耳にこびりつく」というのだと思う。
でも、浦の書いているのは「こびりつく」ではない。「貼りつく」である。
そして「貼りつく」は、どうしても「表面」を印象づける。何かの「表」に何かが「貼りつく」、あるいは何かの「表」に何かを「貼りつける」。この「表」というのは、「内部」とは違う。
「内部」ではなく「表」、あるいは「外」。
この感じが、「耳」が「肉体」の外に飛び出していることと結びついて、「耳」が「肉体(顔、頭)」に「貼りついている」という印象と重なる。「肉体」の外側にはみだしている、貼りついて突起物となっている。それを捨てに行く。
外に貼りついている「耳」を捨てると、「肉体の内部」にこびりついている(貼りついている)音を消すことができる。「耳を捨てる」は「砂の音(記憶)/肉体の内部にあるもの」を捨てることことなのだ。
「砂の音」と「耳」、「貼りついて」と「捨てる」が、入れ替わりながら動く。この瞬間が、とてもおもしろい。
私が書いたように、くどくどと書き直してしまうと、めんどうくさくて、窮屈な感じにもなるが、読んでいるときは、「一瞬の錯覚」のようにして何かが動くだけであり、その「何か」というものが、楽しい。
あ、ここに「詩」がある、と思う。
こういう「誤読」の瞬間が、私は大好きだ。
でも、この詩は途中から、ことばの調子が変わる。
夜ノ果ててのひらにのせ
よもつひらさかしんしん
とやみをこぼしながらち
かづいてくるあなたがこ
わいばらいろのかがやく
きずにかこまれてわたし
にげない夜のよるべない
よりいとのような果てよ
これが、まあ、「貼りついてとれない」音なのだろうが、あまり官能的ではない音だなあ。最後の方は、むりやり「よ」の音を繰り返して音楽を装っている。「ばらいろ」ということばが象徴的だが、ここに書かれているのは「聴覚」の世界ではなく「視覚」が中心の世界である。
うーん、
「耳を捨てに行く」必要なんかないんじゃないか、と思ってしまう。
それが残念だ。
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