詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

二宮清隆『消失点』

2017-08-12 13:02:07 | 詩集
二宮清隆『消失点』(私家版、2017年07月05日発行)

 二宮清隆『消失点』は「地図がない」で始まり「消失点」で閉じられる。「予定調和」である。これは個々の作品にもあてはまるかもしれない。
 「地図がない」は「大きな鏡の前で/地図を持って立って」いる自画像を書いている。「その地図には/何も画かれていない」。

それにしても
引き返すには遠すぎるほど
ぼくはぼくの出発点を見失っていた
だから地図を描いておけばよかったのにと
鏡の向こうのぼくが非難めいて言う

 こういう「感慨/感想」は年をとってからのものである、と言いたいけれど、実際はそうではないだろう。若い世代のものである。青春時代に、まだ敗北もしていないのに敗北を夢見て書く抒情詩。青春には「未来を予測する」特権がある。ふつうは「輝かしい未来」を予測するのかもしれないけれど、ひねくれた抒情詩人は敗北を予測する。これは1970年代に流行した。
 読んでいて、いま書かれている詩というよりも、過去にこういう詩を読んだことがあるという「記憶」の方が刺戟されてしまう。
 ここで終われば、まだ抒情詩という感じがするが、

見果てぬ夢は
見果てぬまま
行く着く地図など
地の果てに行っても
ありはしない

 ここまで書くと「説明」になってしまう。「説明」してしまうので、二宮が「青春」の詩人ではないということがわかる。同時に、あ、古い詩(過去に書いた詩)にとらわれているなあ、とも感じる。
 修辞に破綻がない、ということがその印象を強くする。
 「消失点」は真っ直ぐな線路で、やってくる列車がやがて消えていくまでを見つめる詩。一点透視図の「消失点(焦点)」を描いている。それは「絵画(図)」なのだが、図があらわすのは「時間」である。
 「地図がない」の「地図」も「平面(地理)」を表示したものというよりも、そこには「時間」が書かれていた。「空間」と「時間」を「絵(図)」のなかで交錯させるというか、「時間」を「図」として把握するのが二宮の肉体(思想)なのだと思う。この図式化された「時間感覚」というのはあまりおもしろくないが、「消失点」には一か所、とても美しい部分がある。

手をかざして見ると 点から丸になり
小さなちいさな蒸気機関車の形になり
あっというまにずんずん大きくなり
線路わきの草むらに飛びのいて
通過する蒸気機関車のバッタのような腹を
からだ全体ゆさぶられながら見上げた

 「バッタのような腹」という比喩に「事実」がある。頭で考えた比喩ではなく、実際にその場にいて二宮がつかみ取った比喩。そのとき二宮は「蒸気機関車」だったのか、「バッ」タだったのか。おそらく、その両方であり、同時に二宮でもあった。
 もしかすると、二宮が飛びのいた草むらからバッタが飛び出して列車に「トランスフォーマー」したのかもしれない。
 ここには、少年の二宮が、少年の肉体(思想)をもって動いている。「敗北」という抒情を知らない、いきいきとした肉体だ。

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