詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松下育男「国語 8」

2006-12-29 02:56:45 | 詩(雑誌・同人誌)
 松下育男「国語 8」(「現代詩手帖」12月号)。

私は、すべての詩を理解できるわけではありません。私は、私が理解できない詩を、人も理解できないだろうと思うほど、愚かではありません。

(略)

繰り返します。

私は本当に思っていることを、ここに書いています。しかし私は、ここに書いたことが、必ずしも正しいとは思っていません。わたしは、正しいことを言っているつもりはないのです。

 「繰り返します。」この1行に松下の「詩」(つまり、思想)が凝縮している。松下は次々に新しいことを書くわけではない。逆に、新しさを否定する。最初に言ったことを何度繰り返せる。繰り返すことで、言い漏らしたことをどれだけ救い出せるか。書くということは、何かを拾い上げると同時に、それを拾い上げるために何かを取りこぼさざるをえないことでもある。
 そのことを強く意識するから、松下は、その取りこぼしたもの、手から知らず知らずに漏れていったものをなんとか拾い直そうとする。掬おうとする。このとき「掬う」は「救う」と同じ意味になる。
 どこへも行かない。ただ「詩」を必要としているという自分自身のためにだけ、松下は繰り返すのである。

 高橋睦郎は旅に出て肉眼を洗い直した。松下は、どこへも行かない。どこへも行かず、肉眼も洗い直さない。むしろ、肉眼の中に、「にごり」のようなものを取り込み続ける。洗い直すかわりに、落としたものを拾い直す。落ちて、汚れていたものを、そっと拾い直し(もちろん、そのときはていねいに汚れを払って拾い直すわけだが)、それを取り込むことで、「にごり」の深さ、「にごり」の豊かさを身にまとおうとする。変なたとえだが、手垢がつくりだす艶のようなものを、その結果として手に入れる。
 新鮮さではなく、むしろ新鮮を否定する艶の光。そのための繰り返し。これは、繰り返したことのある人間にしかわからない光かもしれない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする