津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■寝た子を起こした

2024-04-30 14:20:02 | 歴史

 日本歴史学会編集(吉川弘文館発行)の「日本歴史」2009年3月号に、聖学院大学の非常勤講師の山田康弘氏が研究余禄として
「細川幽齋の養父について」という論考を発表されて15年ほどになる。

たまたま、デスク周辺資料を整理している中で、これらのコピーが顔を出しすっかり寝た子が目をさましてしまった。
その後も2020年2月には横浜歴史研究会の真野信治氏が「細川藤孝・謎の出自に迫る」という論考を発表されている。
この論考は、先の山田康弘氏の論考から一歩踏み出す新しい事実は見受けられず、2020年の大河ドラマに時を得て発表されている。

 発表当時の山田氏の論考は大変説得力のあるもので大変驚いたことを記憶しているが、綿考輯録で編者の小野武次郎説、いわゆる
細川藤孝は細川元常養子説を完全否定するものであった。

細川光尚代の寛永十八年(1641)、「寛永諸家系図伝」編纂に着手した幕府の担当者から、「幽齋の出自・養父」を尋ねられて、
この回答は光尚の祖父・忠興が努めた。

   一、幽齋ハ、三淵家ヨリ出タル者ニテ御座候
   一、幽齋ハ、細川伊豆トヤラン細川刑部少トヤランニ、ヤシナハレ、御供衆ニ御座候
この様に回答したが、忠興も記憶が定かではなく妹の吉田兼治室・浄勝院に尋ね、浄勝院はさらに「しゆゑい」という90を過ぎた
老尼に尋ねたうえで忠興に報告している。

「いつさま(細川伊豆)と申ハ、刑部少さまの御親、ゆふさいさまのおほちにて御座候(以下略)」とある。
これは忠興の回答と全く合致している。
    細川伊豆ーーー刑部少輔===細川幽齋ーーー忠興ーーー忠利ーーー光尚
そしてこの二人の人物は特定されている。

 処が、綿考輯録の編者・小野武次郎が「いふかしく候」と切って捨て、この刑部少輔を細川元常(初・右馬助、刑部少輔、右馬頭、播磨守、
追々御改なされ候)
と比定した。
そして当時の藩主・重賢がこれを容認した。
以来、細川家の家系は清和源氏、なかんずく足利氏の一族で和泉守護職とされてきたが、これが覆されることになる。

その根底をなすものが、細川家の根本家記「永源師壇紀年録」の記述であろう。「巻ノ四」の冒頭に次のようにある。
〇天文三年大樹義晴公ハ三好カ逆乱ヲ避テ営ヲ北白川ニ移ス、大樹或ル時三淵宗薫大和入道(晴員)ヲ召ス、時ニ大樹ノ側ニ妾侍座ス、
 此ノ妾ハ船橋大外記清原宣賢真人環翠軒宗尤ノ媛ナリ、大樹其ノ妾ヲ指シテ入道殿ニ謂テ曰ク、此女我カ胤ヲ妊メリ、誕生シテ若男
 ナラハ鞠テ汝カ継嗣トセヨ、入道殿敬テ諾ス、(以下略)
〇同四乙未年四月廿二日巳下刻三淵入道殿ノ養子誕生ス、然モ男ナル故へ約ニ応ス、万吉殿ト小字ス。
             (中略・ニ項)
〇同八年六月京都ノ乱ヲ避テ大樹及ヒ諸将八瀬ノ里ニ赴ク、屋形及ヒ朽木等供奉ス、大和入道殿モ命ニ應シテ扈従ス、入道殿此ノ時万
 吉殿ヲシテ大樹ニ謁セシメテ曰ク、我躬小身ナリイカニモシテ宜キ家ノ養子ニ為シ申度キ由シヲ説ク、然ラハ迚テ屋形播磨守(元常)
 殿ノ此ノ軍中ニ在ルヲ召シテ、汝カ継嗣ニセヨト口入ナサル、(中略)万
吉殿時年五歳也、大樹直ニ諸将義藤公(義輝)ハ胤ヲ分テ
 ル兄弟ナレハトテ、其諱ノ一字(藤)ヲ授サセ九郎藤孝ト名ル、義藤公ハ
此時八歳也、

扨いずれが真実なのか、清和天皇にさかのぼる細川家系図に親しんでいる私としては、何とも複雑怪奇の思いの中にある。
山田康弘氏にその後の論考など御見受けしないが、新しい進展がないのであろう。
いつの日かその真偽のほどは明らかになるのだろうか?。

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