Nonsection Radical

撮影と本の空間

日本人は賢いのか?

2011年04月24日 | Weblog
かなりの高い率で高等教育を受けている日本人。
それでいて、何のために数学をするのかわからないとか、これは何の役に立つのか?という問いが長く発せられ、なんで人を殺したらいけないのか、という問いと共に、ハッキリした答えを言えない「教育者」がいるために、目的を持たないままテストのためだけに勉強する人があとをたたない。
では、なぜいろいろな教科を勉強するのか?
satoboが聞いた答えは、それぞれの思考の仕方を学ぶため。
数学は数学的思考の仕方、国語は国語的思考の仕方、社会は社会的思考の仕方。
それぞれ異なった思考の仕方があるらしい。
実感するのは、某経済学学者がいるのだけれど、経済学的思考の仕方が身についている人で、何にでも経済学的思考で理解しようとし、それを発表する。
何にでもそうするから、時には倫理観や正義と言った文学的比喩にも及ぶのだが、当然トンチンカンな話となる。
しかし、当人は経済学的思考しか出来ないので、トンチンカンなのがわからない。
英語に関して美術的思考で語るって、意味わかる?
ホントの正しい理論というのはすべての事が説明出来る(らしい)が、トンチンカンになるというのはそれがホントに正しい理論ではないからだろう。
つまり経済的理論は万能ではないという事だ。

まあそういう目的で多くの人が受けたはずの高等教育だが、最近見直された「ゆとり教育」と同様本来の目的が遂行されていないようなのだ。
というより、高等教育もゆとり教育も同じ目的であったが、そんな目的は結局目も向けられなかったという事だ。
その目的とは、自分で興味を持って考えるという事。

様々な手法を得て、自らの興味で新たな事を考えだすこと。
それを求める事を教育の目的としたのですね。
なんか新しい事を考えろよ!
ということ。
技術立国ニッポン(チャチャチャ)は、新興国(それもこれまで蔑視差別してきた国)に世界の工場の立場を奪われ、技術さえも将来危うくなってきたのは明白だと政府も認め、それらの国には真似出来ない新たな技術開発を出来る人材を育成するためには、仕方なくこれまでの教育制度を改めて、管理から発想への教育へと変えたわけだ。
その結果、遊ぶコドモが増えて、管理不行き届きとなって、管理教育と戻った。
つまりテストの点が悪いとダメなわけだ。
テストの点が悪いヤツに新たな発想など出来るわけがない。
スゴい発想だが、現実にはそう思われたわけだ。
そうして再び「完成した」教育制度で新たな発想をするスゴいコドモを作る事になったのだ。
安心なのはこの制度だと、これまでもそうだったのだから、たとえ失敗(人材育成)しても誰も責任を取る必要がないのだ。
これまで通りしてきた。
これほど強い免罪符は日本にはない。
これまで通りしてきて糾弾される事はないのだ。
結果よりも過程が大切なのだ。

というわけで、これまで通り、管理出来ない天才よりも従順な愚者を作る方が楽だということで教育方針を再び変えた日本国だが、その結果、将来あるコドモたちは、放射能の含まれた大地で遊ばせて「ただちに健康に被害はない」と思っている親や教育行政によって危険のリスクにさらされる事になっているのだ。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする