satoboの写真日記

言いたい放題の酔っぱらい日記

人の住むところ

2011年12月30日 | Weblog
京都から山陰線で西舞鶴まで行ってきた。
あおはる18切符の旅だ。
もちろん日帰りだ。
京都市内を出ると、山の間を縫って電車は進む。
車外の景色を眺めていたら、時にはトンネルを掘り、渓谷に橋を架け、線路を敷いていった昔の人の情熱を熱く感じた。
そうやって町と町、あるいは村を繋いでいったのだ。
しかし、その駅前の風景を見ると、赤字でも仕方ないなぁと感じたのも事実だ。
昔は民営であったものを国鉄が吸収し、現在の状態に収れんしていったのもうなずける部分がある。
しかし、その駅々の周囲には確かに人々の生活があり、自動車が中心になった現在では、重要性は減ったかもしれないが、それでも「足」のひとつであることには変わりない。

何度か乗り換えて3時間半かかって到着した西舞鶴。
特に目的があって選んだのではない。
さっそく歩き出すと商店街がある。
しかし、ここの商店街、アーケードなのにクルマが通る。
時間的に歩行者専用となっているのに、完全に無視してクルマが通り、店頭に駐車する。
どういうワケがあるのかわからない。
いくつかの商店街を見てきたきたけど、クルマが通る商店街で発展しているところはないぞ。
買い物するのにクルマの通行は邪魔なんだ。
西舞鶴の腹の立つのは、信号の長い事。
幹線道路の信号など、クルマ優先で1分30秒以上青のままだったりする。
それでいて「事故多発注意」なんて立て看板がある。
事故が多いのは信号が長いからです。
観光地として売り出そうとしているが(ずっと前から観光地だけど)、公衆便所がほとんどとないのは困ったものだ。
ガイドブックにあるような名所旧跡にはあるのかもしれないが、街を散策するような場合には、ない。
せっかくイイ感じの街並みがそこかしこにあるのに、催し物のおかげでアタフタとトイレ探しをするのでは興醒めである。
どうもクルマ中心の観光を考えているフシがあるが、実際に街にお金を落としていくのは、歩いて街を楽しむ人達だと思うけどね。
そういう人達を呼び込む事が、これからの観光になるんじゃないのかな。
クルマの観光地巡りはもう頭打ちでしょ。
これからは「ディスカバージャパン」じゃないの?

晴れ間もあるが、雲が風に乗ってくるとミゾレまじりの小雪がちらつく天候で、ビデオを回しながら歩いたけれど、すぐにレンズに水滴が点く。
傘をさしても、風で吹き上げられるし、片手撮影のビデオはブレブレだ。
用心のため(期待して)スノーブーツで来たのに、道に雪はなく、ただ歩きにくいだけで、さらにブレが増した。
それでも曇り空の夕暮れまで撮影し続けたのは、西舞鶴が面白い街だからだ。


尼崎市 長栄市場
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お好み焼き、たこ焼き、肉まん

2011年12月29日 | Weblog
大阪に来てから、一度もお好み焼き、たこ焼きを食べていなかった。
様々な食べ物があふれる日本で大阪で、あえてこれらの食べ物を食べる必要がないからだ。
優先順位が低いという事だ。
肉まんは、老母が有名な蓬莱の肉まんを買ってきて、「これは美味しいから」というので食べたが、特に美味しいと思わない普通の肉まんであった。
今日も新大阪駅の蓬莱の売店には列が出来ていたが、個人の自由だからなぁと思っただけだ。
また、お好み焼き屋さんやたこ焼き屋さんは、市中いたるところにあり、今日も某商店街を歩いていたらダンシ連れが「お好み焼き食べたいなぁ」と店に入って行ったのも、個人の自由だからなぁと思っただけだ。
当然別のものを食べた。

ところが、ある疑問がわいて、たこ焼きを食べ比べする事の必要性を感じる事態になった。
たこ焼きといっても、値段は様々で、平均すると1個20円から50円ぐらいだ。
安いものではない。
疑問とは、安いたこ焼きに、タコは入っているのだろうか?というものだ。
タコはずいぶん値段の張る食べ物となっている。
そんな「高級品」を安価な食べ物に使っているのか?
老母によると、地元の安い店ではタコが入っていないらしい。
では、他の店ではどうなんだ?

で、確認のために食べる事にしたのだ、たこ焼きを。
某所を歩いていたら、小さなお店があった。
12個で300円だ。
単価25円だ。
醤油とソースとが選べ、マヨネーズがトッピング出来る。
ソースにして、青のりと鰹節をかけてもらう。
近くの公園で食べると、生地にダシで味付けされているので、ソースはうっすらとしかかかっていない。
しかし、ダシに化学調味料を使っているので、くどくて閉口する。
これなら昔ながらのどっぷりソースがかかっている方がマシだ。
ソースには化学調味料を使っていないものもあるし。
肝心のタコだが、入っていた。
小さなものだが、すべてにタコが入居していた。
これで調査終了。
もうたこ焼きは食べたくない。
十分だ。

帰宅後、メールが入っていたので読むと、美人元社員スズキさん(仮名)からで、たこ焼きの作り方を教えてくれというもの。
なんて偶然なんだろう。



神戸市中央区 中大安亭商店街・サンロードクニカ
撮影したのは日曜日なのでお店が閉まっています。
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予定再調整

2011年12月28日 | Weblog
明日は日本海を見に行くつもりだったが、天気予報では強風で雨か雪、たぶん雨。
そのため中止することにして、別の場所を選定中。
年内は暖房を自粛のため、室温は7度。
日本酒熱燗を電気ポットで暖めながら、京都大学の学園祭で買った陶芸サカズキでチビリチビリ。

昨夜は暖をとるため布団に潜り込んだら、そのまま朝まで寝てしまったので、布団にはニャンコだけ。
強風や雪なら出かけるのだけれど、雨となると撮影出来ないので中止。
そういう環境の中で生活している人もいるのにね。

傘を差して雨の中を歩いていると、屋根があるというのは本当に天国だと思う。
軒下や、東屋(あずまや)、駐車場の屋根の下にいるだけでも素晴らしい環境に思える。
ましてやクルマの中や、電車内、家屋内なら最高だ。
そんなことをボツボツ思いながら、雨の中を歩いていたことがあるので、最初から雨だとわかっていると二の足を踏んで、二の腕をつねってしまうのだ。

今日昼間に某商店街を歩いていたら、年末のにぎわいがすごかったので、そういう場所へ行こうかと考えている。
さて、どこがイイだろうねぇ。


京都市下京区 六条東洞院通上る
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頭が寒い

2011年12月26日 | Weblog
頭髪が淋しくなると冬はこたえる。
それで散髪に行かずにいたのだけれど、あまりにもざんばら髪になってしまったので、覚悟を決めて行ってきた。
ソフトモヒカンにしてくれというと、「イメチェンですか?」と訊かれたので、「元はソフトモヒカンだったんです」というと、苦笑された。
しかしなんで他人(ひと)は、自分の髪型を説明出来るんだろうね。
satoboなど興味がないから「適当に」と言いたいのだけれど、そうもいかないから、以前薦められた髪型をそのまま踏襲しているだけなのだ。
だからカットが終わって、鏡で「いかがですか?」などと言われても、「ハイ、結構です」と答えるだけだ。
そもそも眼鏡を外しているから何も見えない。
それでも最後に思い切りトサカを立ててもらって店を出た。
外に出ると寒い空気が襟元から頭頂部にかけて攻撃をし、おもわずワッチキャップをかぶってしまった。
風邪をひかなければイイのだが・・・


京都市下京区 柳馬場仏光寺通
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納得出来る人だけが理解出来る話

2011年12月25日 | Weblog
堀井憲一郎の「ねじれの国、日本」新潮新書 を読んだ話は以前した。
そのあと、この本の「信憑性」を考えていた。
読んでいる最中に、この内容は岸田秀の「ものぐさ精神分析」だなと感じたのだけど、案の定、あとがきに影響を受けた事が書いてあった。
しかし、現在では「ものぐさ・・・」を読んでいない人もたくさんいるようだ。
また、書評を読んでいるうちに、どのようにこの本の内容をとらえたかを知るようになり、表題の言葉が浮かんできた。

どういう話の内容かというと、読んでもらうのが一番なのだが、日本論である。
日本は、内向きに安楽に生きていける環境があり、その中で固まって生きている限りは安泰であるのだが、7世紀頃から外部との交流によって「近代化」の波に飲まれる恐れが出てきた。
その「近代化」の波は現代にまで続いていて、度重なる来襲によって「内なる安泰」が脅かされてきた。
近代化をしなくても安泰であるのに、嫌でもそれに取り込まれる恐れ、影響を受ける恐れがあり、それをやり過ごすために、内なる守るものと、外なる取り繕うものの二面性を持つ事を考えだした。
外は近代化に従うふりをして、あくまでも内面の思い(近代化なんてしたくない)を守ろうとする状態を堀井は「ねじれ」と呼び、岸田は「分裂病」と呼んだ。
その状態は平時では上手くやれるのだが、更なる抗し難い近代化が押し迫ってくると内部の「正当性」が噴出する。
外面(そとづら)のいい人が、キレて地を出すわけだ。
それが危険だから、このまま「ねじれのまま」にしておく方が良いというのが堀井の考えである。

ところで、書評では論拠の元が示されていないなどと批評するが、岸田秀も堀井憲一郎も外から借りてきた理論を論じているのではなく、自分の考えで論じているので、証明のために他人からの引用も必要ないのだ。
批評は、それよりも肝心な部分に触れていないものばかりだと気になる。
我々がねじれて生きているかどうかなのだ。

その論が正しいかは、その論によってモノゴトが説明出来るかにある。
3月の震災によって、satoboは東北の人々のこれまでの「社会」(生活様式)が破壊され、「新たな」生き方を選ばなければならなくなるだろうと考えた。
ところが人々はそうしなかった。
元のままの社会(生活様式)を強力な復元力で「復興」しようとしているではないか。
あれほどいわれた新しい街づくりの声は消え、元の街を元のあり方で復元しようとしている。
日本全国で「絆」という言葉で内向きに生きる価値観(悪いと言ってるのでない)を再認識しようとしているではないか。
家クリスマスを過ごす人々ばかりではないか。
今年は「みんなで」という言葉が繰り返された。
何か外的な力が加わると、日本はこうして内向きに力が働いて「これまで」を守ろうとするである。
その一方で、対外的には「前進」する日本をアピール姿だけは示すのだ。
政府の原発対応もそうだし、財政問題もそうだし、経済政策、対外国政策、みんなカタチだけであるのが対外姿勢なのだ。
元々対外姿勢はカタチだけ示せば良いというのが、ねじれのカタチであるというのだから。
このような事例が堀井の日本論を根拠づけはしないのか。
今年の日本の動きは、そうやって説明出来るとsatoboは思うのだが。
現在の世の中の動きに堀井の論を当てはめて納得出来る人だけが、この本の言いたい事が理解出来ると思う。

そういう「ねじれ」によってやり過ごす事が出来なくなった場合に、「正当性」が噴出するとはどういう事か。
そのわかりやすい例が「プリンセス・トヨトミ」である。
大阪国だけで上手くやっていたのに、日本国という外敵が攻撃をしてきて、避けられない時にとった行動が「正当性」の噴出である。
あれは大阪論だけではなく、日本論だと思う。
堀井のこの著作と話がリンクしていて面白い。

問題は、これから若者が、どのようにしてこのねじれた状態のままで(ねじれたままで良いと言っているのだから)、世界の荒波をやり過ごしていくかだ。
所詮、今の日本は昭和のオヤジが作りだしたやり過ごし方だ。
どうやら平成のこれからは、このやり方では通用しないようだ。
どのようなやり過ごし方を見つけるかに、今後の内なる安定がかかっているのだ。
やり過ごせなくなると「正当性」の噴出が待っている。
もちろん正当性を噴出させたからと言って問題が解決するわけでもないのである。
しかし、そういう事の解答を、この本は答えてくれない。
それが不満だという書評もあるが、それは若い人が考えなければならないのだ。



神戸市中央区大安亭市場
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