さいかち亭雑記

短歌を中心に文芸、その他

嵯峨直樹『みずからの火』

2018年06月16日 | 現代短歌
嵯峨さんの新歌集が出た。これまでの歌集で作者の関心は、エロス的な身体のありように主として向けられていた。そこが魅力でもあった。それが、今度の歌集では<存在>そのものを把握することに意を注いでいる。むろん性を媒介としてうたう時に独特の屈折したニュアンスを漂わせる作者の資質は健在である。ただそういう歌の場合でも、たとえて言うなら「肉体」と言わずに「熱源」と言ったりするような、より抽象度の増した根源的な比喩に傾いている。そのため日常的な情景にさかのぼって、作者の卑近な<私性>に近づくきっかけが消してある。

欲動に洗われながら匿名のにくたいになる一夜をかけて

赤土に激しくまろぶひぐらしを粘度を増した光が縛る

この歌集の多くの歌において、ここに掲出した一首めのように実景は言葉の網目のあちら側にうっすらと霞んでいるか、または二首めのように独創的な彫琢をこらした一筋縄ではいかないものとして提示されている。
作者は、近年の情報化とデジタル技術の深化によって、より細分化され、断片化してしまった<現在>の全体性を回復しようとしているのだ。だから、日常的な理解の延長線上に描写の言葉を置くことを極力排除しながら、現象する花や木々や建物などのモノと、自身や妻などの人間の肉体とを、影と光のあわいにあるものとして、暗闇に置かれた物体のような不分明なモノとして描いてみせるのである。

くらぐらと水落ちてゆく 側溝に赦されてあるような黒い水

ひとという火の体系をくぐらせて言の葉は刺すみずからの火を

初夏の銀のひかりに輪郭を蝕まれつつさわぐ葉桜

血だまりの日暮れのぬくみ部屋内に両足の裏みせて寝るひと

 ※「部屋内」に「へやぬち」と振り仮名。

 神田川か何かを見ながら「側溝に赦されてあるような黒い水」と言う時、そこはかとなく虐げられ、あたかも罪ある存在として生活世界に突き出されている作者の心が伝わる。
どうして「言の葉は刺す」のか。そのように痛みを伴うものなのか。「葉桜」は、「初夏の銀のひかりに輪郭を蝕まれ」ているのだ。ここには供犠として差し出された者であるかのような、現実の作者の心身の受苦が形象化されている。「両足の裏みせて寝るひと」は、おそらく作者の妻なのであろう。でもその姿は、血のように赤く照りつける夕陽の光のなかにある。これは見る者が安んじて接することができるような絵ではない。もう少し引く。

水映すテレビの光あおあおとシーツの上でまたたいている

暗闇の結び目として球体の林檎数個がほどけずにある

 この二首は堅実な歌で、作者は書評を書くために玉城徹の全歌集を通読したと先日語っていたが、これは玉城ファンのめがねにもかなう歌であろうと思う。多くのイメージの絵を描く歌の間にこうした歌が差し挟まれているところには、「未来」に所属する作者らしい自恃が感じられる。

薄氷に鈍く映ったひとかげへ身を入れてゆく喘ぎ喘いで

 ※「薄氷」に「うすらい」、「喘」に「あえ」と振り仮名。

 薄氷の歌がある一連は、多摩川や「自裁死」という言葉が出てくるので西部萬の自死のことを歌ったものだろう。しかしこれは、切迫した生理的なものの反転した表現のようにも読めるのであり、そこにこの作者独特のエロス的なものの示現する瞬間がある。すでに述べたように、微かな受苦へと傾斜しながら詩的に昇華しようとする志向性があらわである。ここまで書いてしまってから一度寝てしまって、起きてからまた見直すと、先にわからなかった歌が良く分かる気がしたものがある。一部の歌の難解さは、むしろ積極的に擁護すべき性格のものだ。
 
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