ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




加藤ビル。中央区銀座1-10。1987(昭和62)年10月25日

写真中央の小さいビルが加藤ビル。戦後、まもなくの建築だろうか。写真右に「酒/銀一小路」の看板があり、建物がわずかに見えている。住宅地図に「第一ストアービル」とある建物で、2階は飲み屋街になっていた。塀は取壊し工事のものだろう。
第一ストアービルは戦後、三十軒堀を埋め立てて建てたものだ。堀の中央を道路に取って両側に細長いビルを建築したようだ。第一ストアービル向かいの、現在は中央大和ビルになっているところには「銀座館マート」という低層の建物があった。



第一ストアービル(パチンコ銀ブラ)。銀座1-10。1986(昭和61)年9月7日

ビルの側面をギザギザにしたのは採光のためだろう。裏側も同様になっていたようだ。
建物の前(写真左)は、三十軒堀があった時は紀伊国(きのくに)橋が架かっていた。
『下駄の向くまま―新東京百景(滝田ゆう著、昭和53年日講談社刊)』に銀一小路が取り上げられている。本文とは別の「一口ガイド」に「30軒以上の小料理屋やバーがあるが、もともとこれらの店は終戦後、このかいわいで商売していた屋台が区画整理で一つのビルに集まったもの」と書かれている。



第一ストアービル(銀座スチームバス)。1986(昭和61)年9月7日

スチームバスとは、今は使わないが昔の言葉でトルコ風呂だろう。掲示板にトルコ嬢の写真が貼られている。「ソープランド」の名称は1984年12月19日からだというから撮影時ではトルコの名称はすでに使えなくなっていた。

コメント ( 20 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
銀座にも・・・ (とおる。)
2006-12-01 21:41:27
銀座にもトルコ風呂なんてあったんですねぇ。
永井荷風の小説で、カフェーというものが出てきますが、あれはどういうサービスをするところだったんでしょうか・・・。
 
 
 
カフェーのイメージ (ryuw-1)
2006-12-03 19:55:34
今からすれば二階の銀一小路の廊下なりとも撮っておけばよかったと思いますが、見たこともありません。銀座スチームバスの掲示板も撮っておけば…ときりがなくなりますが。
さて、昭和10年頃のカフェーということで考えてみます。店によってサービスの内容はさまざまでしょうが、ぼくが行くとすると人形町の裏通りの、女給が一人しかいないような小さいカフェーです。女給さんは着物にエプロン、髪は洋風。特別なにかするわけではなくコーヒーを運ぶだけ。蓄音機には「私の青空」がかかっている、といったイメージなのですが。
 
 
 
このビルの写真もお持ちだったんですか! (えいじ)
2007-08-31 22:42:57
このビルは、イトマン事件で有名になった、伊藤寿永光氏が地上げしたことで有名になったビルです。特殊浴場などがあり、一部その筋などが権利関係を持っていたため、地上げが困難と言われた有名物件です。この写真もすごい!
 
 
 
Unknown (風俗散歩)
2007-10-13 08:17:14
すばらしい貴重な写真です。
スチームバスという呼び名もあったようねすね。
トルコ嬢の写真、見てみたかったです。
 
 
 
>風俗散歩さま (流一)
2007-10-13 20:23:20
コメントをありがとうございます。
銀座スチームバスの写真を撮ったときだったかどうかは忘れましたが、掲示板に寄って写真を撮ろうかと考えたことはあります。気が小さいので人目を気にして実行しなかったのが、今ではなんとも残念です。
 
 
 
Unknown (ほつたか)
2010-01-12 02:16:10
この建物よく覚えてます。
この右側に見えるお店の紹介的写真掲示板の如何わしさも脳裏に焼きついていますw
「スチームバス」に男性が首だけ出してその脇に女性が佇んでいて・・・ほとんどトラウマwww
近隣に今でもある大和ハイヤー、そして銀一ストア・・・懐かしい。
私が記憶している当時(昭和59~60)でもあの「掲示板」は相当古く感じましたww

こんな貴重な写真、アップしていただき本当にありがとうございます!

 
 
 
>ほつたか様 (流一)
2010-01-12 16:22:29
当ブログへの訪問とコメントをありがとうございます。
この建物は35年間くらい存在したと思うのですが、銀座にあったのですから目にしていた人も多いのでしょうね。いかがわしいものには誰しも惹かれますし。今思えばこのての建物をこまめに記録しておけばよかったです。
 
 
 
銀一小路 (ややや)
2012-03-08 09:47:38
会社の前にあって、酒が好きな人は夜一杯ひっかけて、また仕事をしてましたね。
暇な人は映画やパチンコに興じていたね。良い時代でした。NDC万歳!
 
 
 
>ややや様 (流一)
2012-03-09 16:38:16
私は現場の作業員をずっと続けていたので、就業中には喫茶店にすら入ったことがありません。たぶん、一杯やったほうが仕事の能率が上がるひともいるのでしょうね。仕事ができるから息抜きをしても許されるのでしょう。NDCとは会社名ですか?
 
 
 
Unknown (ぽにょ)
2013-12-06 15:45:56
とてもとても貴重な写真、拝見させていただきました。
ありがとうございます。

現在執筆中の論文の参考文献として利用したいのですが、可能でしょうか。
 
 
 
>ぽにょ様 (流一)
2013-12-07 09:06:46
当ブログを運営している流一といいます。論文に当ブログの本文や写真を引用したというご要望は了承しました。引用元を表記しておいてください。
どういう内容の論文なのか興味をひかれます。さしつかえなければ教えてください。当ブログの「はじめに」(カテゴリー:私事)にメールアドレスを記してありますが、メールでもかまいません。
 
 
 
二階の様子 (二階の住人)
2014-12-09 16:34:05
表通りに面したパチンコ屋?の前に二階への階段があり二階入り口に八百屋がありました。その先は中央に廊下(中央に唐突にパイプの柱があり酔って歩いてよく頭をぶつけました)を真ん中に右には3坪ほどのバー、吞屋が軒を連ね、左には雀荘でした。夜中まで残業した後バーで飲み、朝まで雀荘でバーのママや銀行マン商社マンと打ち、仕事に行く、という独身時代を過ごしました。ここは私にとって道場のようなものでした。40年も前の話です。たまたまこのブログを見て懐かしくなって当時のことを思い出させていただきました。ありがとう。
 
 
 
>二階の住人様 (流一)
2014-12-10 18:54:19
パチンコ屋の左に階段が写っていますね。これが二階の飲み屋街への入口でしたか!『下駄の向くまま』の絵では踊り場で折り返していますね。また二階を描いた絵では「パイプの柱」は廊下の左に寄せて並んでいたように見えます。
飲めないこともあって、写真を撮った頃はそこを入って様子なりとも覗いてみよう、などとは思いもつきませんでした。二階の住人さんの体験がうらやましい!
 
 
 
設計者 (二階の住人)
2014-12-12 01:11:11
このビルは学生時代の丹下さんの作品だという噂が常連やママの間に伝わっていました。まさかという思いを抱いたままだったのですが、最近、丹下さんとその研究室の人々の姿を著したものの中に、1952年の作品に「銀座露天商組合ビル」というのがあり、さてはと思ったのですが、それは3階建てでPC折版の外壁とのことで、このビルとは違うことだと思いました。しかし、学生時代のバイトで設計したものなどと、けっこう楽しい想像を掻き立ててくれるほどの匂いを持っていたのだと思います。
 
 
 
銀一小路 (ヤマール(40歳 雄))
2018-08-26 16:45:30
丁度、滝田ゆうの「下駄の向くまま」を読み始めて、銀一小路の頁で、検索してみたら貴ブログが最初に出て来ました。やっぱり、滝田ゆうの存在感おそるべし。
 
 
 
>ヤマール様 (流一)
2018-08-28 09:48:15
「下駄の向くまま」は1978年の出版、ヤマールさんが生まれたころでしょうか? この本の銀一小路の3枚の挿絵は貴重な記録になっていますね。
滝田ゆうは背景を綿密に描くのが特徴ですね。同じような描き方をする漫画家に水木しげるやつげ義春がいます。いずれもぼくが気にしている作家です。
 
 
 
銀座館マート。 (あびげーる)
2021-01-30 12:43:02
 朝鮮戦争に関与した米兵さんがupした1950年代中頃のポジカラー写真がFlickrにあるんです。が、いやはや何とも。土産物店の体裁ではありますが(略)。当時から現在に至るまで、日本の紙メディアではお目にかかった事がありませぬ。
 恋文横丁とかア●横商店街みたいなものなのでしょうか?
 
 
 
銀座館マートの最終形態 (あびげーる@連投お許しを。)
2021-01-30 18:06:31
あら、このブログ中「銀座オリンピックビル」が載っている処に、上は4階まで伸び下はベニヤ板で覆われてしまった当ビルが居たとは。建立から増築on増築and増築で大体30年間、資料がupされているのを読むと最期まで(略)でしたね、誉めてます。気づかなくて失礼致しました。
 
 
 
>あびげーる様 (流一)
2021-02-01 10:10:11
戦後、三十間堀を埋め立てて、その中央に道路を通し、その道路の両側にビルを建てたわけですが、長さは長いが厚みのない同じようなビルが4棟建ったようです。そのうちの「第一ストアビル」と「銀座館ビル」が昭和末まで残っていたわけですね。
昭和30年頃の火保図では、第一ストアビルの向かい側(銀座1-13)と銀座館ビルの向かい側(銀座2-10)のビルが「銀座館マート」となっています。1丁目のほうは「銀座館マート 東洋土地工業KK」、2丁目のほうは「銀座商業協同組合 銀座館マート 日本中央競馬会銀座場外売場」という記載。
というわけで、当ブログの「銀座館ビル」とは別に「銀座館マート」があったように思います。「マート」はマーケットからきていて、小さな商店が多数入っていたような印象ですね。
 
 
 
ご回答ありがとうございます。 (あびげーる)
2021-02-27 14:05:55
実は、東急プラザやGINZA SIXが完成して以来、更に新しくなってしまった銀座へは久しく足を運んでいません。
でも、まだまだ少しは東京にも「素 敵 過 ぎ る」昭和が残っている・残っていなくても匂うのではないかと思い、&このブログに背中を押されて、緊急事態が解除されたら万全の準備をして行ってみます。先ずは銀座1丁目と2丁目の境で【第一ストアビル/銀座館マート/銀座館ビル】の幻を出来る限り追体験!。
銀座館マート(もう虜です)も、実際其処で生活していた人たちと飲食・物品購入で共存関係にあったことでしょう。
 
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