ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 



旅館桜井
墨田区東向島1-24
2013(平成25)年3月17日

旅館桜井の建物そのものは「戦前に建てられて戦災を免れたもの」と言えるほど古いものには見えない。戦後すぐに、カフェーとして建てられたものかもしれない、とぼくは疑っている。当時は表通りでのカフェーの営業は禁止されていたそうなので、旅館桜井の並びの家は、商店街に向いた側は普通の商店にみえる。カフェーとして営業していても、商店街側の1階は一般の商店に貸していたのではないかと思う。
旅館桜井の鳩の街商店街に向いた方は、赤線廃止後に旅館を営業することになったときの造作なのだろうと、ぼくは思っている。楕円形の陶器の表札は築地などの料亭の勝手口でも見たような気がする。今ではかなり貴重なものなのかもしれない。玄関の引き戸は裏の玄関と同じようなデザインである。裏の玄関はカフェーの造りではないので、これも旅館の営業を始めるときに造り直していると思う。カフェーには出入り口は複数ある。ドアのところに女を立たせて客引きをさせていたようだから、ドアが2つあれば2人立たせられる、というためなのだろう。桜井のもう一つの出入り口は横にあって、洋風のドアだ。



旅館桜井。2009(平成21)年3月29日

鳩の街の赤線は、元々は玉の井の銘酒屋が3月10日の空襲で焼けてしまったため、この辺りの焼けていない家を借りて再開したのが始まりという。そういう状況ですぐ商売を再開するとはあきれたものだ、と思ってしまいがちだが、個々にどういう事情があったのかはうかがい知れないところである。肉親を亡くし食うや食わずの人が大勢いる中で、そこにかよってくる客の事情のほうがよほど不思議だ。
敗戦直後、政府は占領軍のための慰安施設に指定した中に鳩の街も入った。頼まれたわけでもないのにそんなことに一生懸命になる人がいたらしい。当時の世間の風潮もあるだろうが、あきれたものだ。鳩の街にも米軍兵士がやってきたかどうかは知らないが、占領軍は性病の感染もあって施設に対して不快感を示し、1946(昭和21)年に兵士の立ち入りを禁止する。この指定は占領終結まで解けなかった。日本政府の好意はあだとなった。その遺構が壁の「OFF LIMITS」の文字で、人には頼まれた以上の親切はしないほうがいいのかもしれない。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
どうしても (定マニア)
2013-07-10 05:50:52
赤線、カフェーと聞くと、橋下徹の発言が頭に浮かぶのは私だけでしょうか?
 
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