ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




京樽箱崎物品センター。中央区日本橋蛎殻町1-36。1986(昭和61)年2月16日

前の通りは人形町通りの水天宮前交差点から先の水天宮通りで、向かいにロイヤルパークホテルだが、撮影時にすでに建っていたかどうか。左にすぐ箱崎町の東京シティエアターミナル。道路は地下鉄半蔵門線の工事をしている。
写真のビルは「京樽」の看板があるように、地図では「京樽箱崎物品センター」だから、京樽の食材や商品の配送基地になっていたかと思うが、写真ではあまり活用していないような感じである。下の写真は1年半後のもので、「にんぎょう町京樽本社」になっている。石積み風にした1階もタイル張りの飾り柱のような壁も、かまわず白く塗り固めてしまっている。それが、『 都市徘徊blog 京樽本社』の1997年に撮られた写真を見ると、窓の上下や上部の軒が灰色に塗られていて、元に戻ったような感じに見える。
この建物は『日本近代建築総覧』の「大東紡ビル、中央区日本橋蛎殻町2-16、建築年=T2、構造=RC4、設計・施工=清水組」で掲載されているもの。住所は1982年より前の表示になっている。大正2年に建ったとはちょっと信じがたい。大正12年か昭和2年の誤植かもしれない。
「大東紡織株式会社」は1896(明治29)年2月に「東京モスリン紡織株式会社」として創立された。1936(昭和11)年に今の社名に変更する。1998年に日本橋箱崎町に本社ビルを新築して移転した。それ以前に、大東紡ビルは京樽に替わっていて、それがいつなのか判らない。



京樽本社。1987(昭和62)年6月7日

ビルの左は横丁があって、その一方の角は「アツギ(厚木)産婦人科医院」である。写真左端に写っているビルは医院の後ろの浜屋商事のビル(浜屋ビル)で現存している。医院の前を過ぎると昔は箱崎川で、土州橋が架かっていた。厚木医院の場所が、永井荷風の『断腸亭日乗』に頻繁に出てくる土州橋際の大石医院があったところだ。
岩波書店の『荷風全集第22巻』の月報(昭和47年11月)に松島栄一という人が『「断腸亭日乗」に見える中洲・土州橋について』という文がある。それによると、大石貞夫博士は昭和10年1月21日、脳卒中で倒れ、26日に亡くなる。荷風が見舞いに行った25日の『日乗』に、「大石君は中学生の頃余が亡弟貞次郎と同級なりき」とあり、大正5・6年から診察を受けていたようだ。大石博士の没後は門下の厚木博士によってつづけられ、荷風も土州橋がよいをつづけた。
大石先生が亡くなった後は、『日乗』に「土州橋の病院」や「土州橋医院」などとあるのは、正確には「厚木医院」だったのだろうか。なお、「中洲病院」と「土州橋」とは別のようである。大石医師は中洲病院に務めていた(院長だったのかもしれない)が、昭和7年にそこを去って土州橋際に医院を開業した、というようなことが月報の文にある。

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