ぼくの近代建築コレクション
東京の都心と下町を中心に、戦前に建てられた古い建物の写真を投稿していきます。
 




山二証券。中央区日本橋兜町4。1992(平成4)年3月8日

東京証券取引所の裏手、とはいっても兜町の証券街の中心といっていいところにある洋館の建物。山二証券は野村証券などの大手から見ればごく小さな会社で、明治44年創業という老舗ではあるが、どういうノウハウを持っているのだか、今も兜町の社屋を維持し続けている。山二証券の創立者は片岡辰次郎という人で、建物の竣工時は「山二片岡商店」といったらしい。昭和7~11年の火保図を見ると、日本橋兜町5(1986年の地図では山一證券、現在は兜町第1平和ビル)に「片岡商店」があるので、そこが創立の地だろうか。その地図では現在の山二証券の場所は第一銀行の敷地だったようだ。
建物は『日本近代建築総覧』では「山二証券K.K.、日本橋兜町1-1、建築年=昭和11年(1936)、構造RC4階建、設計=西村好時、備考=スパニッシュ風,地下1」。『近代建築写真室東京@>日本橋兜町の山二証券』や『中央区のまちづくり>維新後の日本のビジネス街 兜町界隈』によると施工は清水組。
西村好時(よしとき、1886-1961年)の大雑把な経歴は「ウィキペディア」から引くと、東京帝国大学建築学科卒。1914(大正3)年、清水組設計部技師から第一銀行建築課長になり、本店と30数か所の支店を設計。1921(大正10)年、銀行建築研究のためアメリカへ。1926(大正15)年、欧米を視察。1931(昭和6)年、第一銀行を退職し西村建築事務所を開設。
山二証券は西村の作風(第一銀行の作風かもしれないが)である古典様式からは外れて、金融関係の建物ではまず採用されないスパニッシュ様式である。もしかして、西村は一度はやってみたかったとばかり、図面を引くのを楽しんだのかもしれない。
当ブログに採録した西村の作品は、横浜銀行本店別館(第一銀行横浜支店、1929年)、龍角散ビル(1923年)、後楽園GYM(講道館、1934)、金万証券(1927年)がある。



山二証券。1985(昭和60)年4月14日

「片岡辰次郎」をネット検索したら『Fujisan.co.jp>株式にっぽん』というサイトがあった。「株式にっぽん2009年6月15日号」に「片岡」を含む記事がある、としてその文章の一部を紹介している。「片岡辰次郎&永井荷風堅実相場師・片岡と顧客の堅実投資家・荷風の成果伝説をつくった二人の相場師列伝シリーズ」「の原稿料を貯めた金で片岡の山二証券の顧客になった株式投資家だった。荷風は「株式仲買人の片岡は磊落な相場師肌の男で、余の小説を愛読せり」と、日記(断腸亭日乗)に書き残している。荷風は片岡の指導で堅実投資を行って、」「兜町の仲買店片岡商店に依頼しおきたる株券王子製紙一〇〇株、猪苗代水電会社(東電に吸収)一〇〇株買う」と、荷風四〇歳の時が株式買いの初めだった。資金は新宿区牛込の自宅を売った代金だったが、」「二五年)正月一五日。片岡の仲買店を訪ずれ東京電燈(現在の東京電力)一〇〇株ほど買う。去年三菱銀行の貯金一万円を超えたれば利殖のために買うことにしたり」。「昭和九年(一九三四年)正月一九日。兜町の」といった断片だが、永井荷風が株の売買をしていた店が山二証券だったわけだ。
『荷風と東京』(川本三郎著、都市出版、平成8年、3107円)には「二十 ランティエの生活」という章に次の文章が『断腸亭日乗』から抜き出してあった。大正14年1月15日「午前兜町片岡といふ仲買の店を訪ひ、東京電燈会社の株百株ほどを買ふ。…」。昭和8年5月31日「正午兜町片岡商店を訪ひ鐘紡株券百株を買う」。昭和9年1月18日「午後兜町山二の店より電話あり。平価切下の噂ある為株相場追々高騰すべし。今の中に何か買置き給へと云ふ。日本麦酒会社新株百株を買ふ事とす」。
昭和11年に建った建物を荷風が訪れたことがある、と認められる記述をだれか見つけてくれないだろうか。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )



« 三菱倉庫/日... 成瀬証券/日... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。