蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

和泉式部  (bon)

2015-03-21 | 日々雑感、散策、旅行

 突然ですが、今日3月21日は、京都誠心院において、和泉式部の命日として法要が行われています。
 和泉式部といえば、和泉式部日記や百人一首の歌で有名で、高校時代などにも古文か何かで出て来ていました。
その式部の生没年は不詳なのですが、ゆかりの京都の誠心院(京都市中京区六角下ル)では 毎年、この日、
三月二十一日を和泉式部の命日として、本堂に於いて、式部所縁の謡曲「東北」「誓願寺」の奉納が行われている
のです。 「開山和泉式部忌」「春のお彼岸法要」を併せてお勤めされているといいます。

 それで、この和泉式部をちょっと垣間見てみますと、平安時代中期の歌人で、三十六歌仙の一人にも数えられる
才女で、勅撰集に二百四十六首の和歌が選ばれているなど膨大な和歌を詠んだ女流歌人なんです。
1000年も昔に、多くの男性との恋を重ね、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多いのは 数々の恋愛遍歴によるものである
とされています。

           和泉式部
               (ウイキペディアより)
 

 昨年届いた会報(技術分野の雑誌)に、“平安時代の才女たち” と副題のついた面白い記事があったのを
思い出しました。 平安の同時代に活躍した、紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門の4人を挙げて詳しく
解説されており、近時、日本女性の社会進出の遅れや 性差別の問題がマスコミなどにも取り沙汰されていることに
反発して、1000年も昔に、日本女性が男性と共に幅広く活躍した事例を紹介して、認識を改めようという試みと
した寄稿であります。

 紫式部の “源氏物語” は、世界に冠たる小説として書きあげており、他の女性たちの和歌などにも、その内容に
示されている彼(彼女)らの立場から、日本における女性は、ともすれば男性を凌ぐ位置づけであったとも思わせ、
欧米のつい100年足らず前までの男性優位社会の継続とは比較にならない・・ と論じられています。
清少納言他も詳しく述べられていますが、ここでは、和泉式部の部分に着目して、ネット記事なども交えながら、
サワリを記してみたいと思います。
 

 和泉式部は、“大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、父の官名と夫の任国とを合わせて「和泉式部」と
呼ばれた。この道貞との間に娘 小式部内侍を儲ける。夫とは後に離れるが、娘は母譲りの歌才を示している。
 まだ道貞の妻だった頃、冷泉天皇の第三皇子である 為尊親王 との熱愛が世に喧伝されるほどになるが、
為尊親王の死を悲しむ翌年には、今度はその同母弟である 「帥宮(そちのみや)」 と呼ばれた敦道親王が
年上の式部にほれ込み求愛する。 この求愛は熱烈を極め、親王は式部を邸に迎えようとし、結果として
大納言藤原済時の中の宮という親王の正妻が家出するに至った。”

 帥の宮(敦道親王)とのなれ初めから、宮の邸の南院に入り込むようになるまでのいきさつを記したのが
和泉式部日記 なんですね。 この日記を書いた頃には、別れた夫(道貞)との間に小式部内侍の他にもう一人、
計二人の子がいましたが、内大殿(藤原公末)、春宮(三条天皇)、源少将(源雅道)、治部卿(源俊賢)など、
付き合っていたらしい男たちの名前が出て来たりするのですが、それでも、帥の宮は、世間体を気にしながらも
しばしば会いに来ていたという。
この日記のくだりが先の会報に、次のように書かれています。(抜粋)

“日記には、帥の宮との逢瀬、「契る」場面が何回か出てくるが この二人の道ならぬ恋の様子をよく物語っている。
一度目は、式部の家に宮が訪ねてきた場面、そしてその後、式部はあんなに愛していた兄の弾正の宮と死別した
ばかりなのにと自分を責める。 二度目は、帥の宮がやってきて 「いざたまえ、今宵ばかり。人も見ぬところあり。
心のどかにものなども聞こえん」 とて車をさし寄せて、ただ、乗せに乗せ給へば、我にもあらで乗りぬ。
いたう夜更けにければ、知る人もなし。やおら人も無き廊にさし寄りて、下りさせ給ひぬ、とむりやり人のいない廊
(ラブホテル)に連れて行った様子を記している。 車に乗るところの様子、「ただ、乗せに乗せ給へば、我にもあらで
乗りぬ」は、女がためらいながら男の言うままに車に乗る様子が表現されている。 三度目は、「御車ながら
人も見ぬ車宿りに引き立てて入らせ給ひぬれば、恐ろしく思ふ。人しずまりてぞおはしまして、御車の奉りて、
よろづのことをのたまはせ契る」 と、今でいうカーセックスだ。 四度目は、「みぞれだちたる雨の、のどやかに
降るほどなり。 いささかまどろまで、この世ならずあはれなることをのたまはせ契る」。 年上の彼女が、
悲しむ宮を慰めながら抱いている。”

 この他にも、彼女をめぐる噂の男は数多くいたようです。この頃真面目な、友人の赤染衛門が式部を戒めている。 
宮との恋は、5年余り続いたが、1007年、宮27歳で世を去り、ここに終止符を打つことになりました。その後は、
娘の小式部と共に、一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕するが、この頃、同じく彰子の周辺にいた
紫式部・伊勢大輔・赤染衛門らとともに宮廷サロンを築くことになる。その後、娘小式部に先立たれてしまうのです。
和泉式部の晩年の消息は定かでないという事のようです。

 和泉式部百人一首の歌

   「あらざらむこの世のほかの想い出に今ひとたびのあふこともがな」

別れた男性を思う歌ですね。

 娘の小式部の歌

   「大江山いくのの道のとをければまだふみもみず天のはしだて」

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 


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