つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

女傑たちの夜宴。<追記>

2023年02月26日 21時33分33秒 | 賭けたり競ったり
                             
※以下本文:2月26日14時投稿 末尾に追記アリ

競艇女子レーサーの祭典GⅡ競争「第7回 レディースオールスター」。
今夜(2023/02/26)、愛知県・蒲郡市にある「蒲郡競艇場」に於いて優勝戦を迎える。


(※照明が灯った蒲郡競艇場水面/2015年秋:りくすけ撮影)

「ファン投票」による獲得票数の上位者と、
選考委員会による推薦による計52名が集結。
僕もご近所の場外舟券売場「ミニボートピア津幡」で投票した。

きのう5日目は予選道中を生き残った18名による、
3つの「準優勝戦」が行われた。
それぞれ1着と2着だけが次のステージに進めるサバイバルレースは、
やはり激しい争いになり、ドラマが生まれた。

1つ目9Rは、2号艇に乗る「守屋美穂」がレースを作った。

2年連続ファン投票1位でディフェンディングチャンプの彼女は、
本人曰く「それまで続いた不甲斐ない戦い」を払拭しようと、果敢に攻めた。
2コース直捲り。
それは「勝ちたい!」という気持ちの現れ。
しかし劣勢なパワーでの強行策は、大波乱を呼び込む。
外から捲る2号艇と内からブロックする1号艇。
「守屋」はその火花が散るような競り合いを制したが、そこで力尽きた。
ポッカリ開いた内側を他艇が突き抜けていった。
結果、3-6-4(※三連単配当 21,510円)

2つ目10Rは、1号艇に乗る「長嶋万記」が何とか逃げた。

「長嶋」のスタートはコンマ08。
トップで鼻を切ったが、ファーストターンで2号艇が。
セカンドターンで3号艇が彼女の懐に切り込む。
どちらも追撃は振り切ったが、どちらも肝を冷やした。
結果、1-3-2(※三連単配当 1,030円)

3つ目11Rは、3号艇に乗る「高田ひかる」の力業が炸裂した。

モーターに伸びる調整を施し、後ろに引いてダッシュ水域を選択した「高田」は、
トップタイミングでスタートを切る。
更に2号艇が出遅れ、彼女の捲り攻勢をサポート。
あっという間に内側を呑み込み一人旅。
結果、3-4-6(※三連単配当 11,550円)

--- 蛇足ながら、僕の舟券は全てハズれた。
残念無念だが致し方ない。
さあ、優勝戦である!
最後の6ピットへ舳先を進めたのは、以下のメンバー。



ポールポジション1号艇は、前述準優勝戦で唯一逃げ切った「長嶋万記」。
外に居並ぶメンバーも豪華な顔ぶれ。
2号艇:パワーファイター「高田ひかる」。
3号艇:昨年末の女王戦覇者「田口節子」。
4号艇:Gレース初戴冠に挑む「鎌倉涼」。
5号艇:大怪我からの復帰戦「大山千広」。
6号艇:地元愛知の唯一の砦「宇野弥生」。

皆それぞれ何かを背負って走る。
ファンファーレは(2023/02/26)午後8時30分頃。
ネットでも、TVでも生中継がある。
よろしかったら、是非、ご覧くださいませ。
最後に笑うのは、誰だ?!
        
※以下追記:2月26日21時投稿

<破顔一笑>

最後に笑ったのは「長嶋万記」だった。



トップスタート(コンマ05)を決め、捲りにきた2号艇をブロックし、
差しに構えた3号艇に付け入る隙を与えず、一気に突き放した。
他艇の攻めを完封しての逃走劇。
この笑顔が会心の勝利を物語っている。
おめでとう!
                     
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大人になっても、レイジの子どもさ。

2023年02月23日 21時21分21秒 | 手すさびにて候。
                         
2023年2月13日。
漫画家「松本零士(まつもと・れいじ)」(本名/晟(あきら))さんが、
急性心不全のため東京都内の病院で死去した。
85年と19日の生涯だった。

発表は死後一週間が経った20日。
小さくない喪失感を味わう。
この機会に拙ブログ過去記事を読み直してみたところ、
故人の作品ついて掲載数が多いことに感慨を抱く。

戦場まんがシリーズ/鉄の竜騎兵 2010/09/06
零士式美人 2016/12/02
銀河鉄道999(※平尾昌晃氏追悼) 2017/12/05
宇宙戦艦ヤマト(※著作権所有は別人) 2019/05/18
クイーン・エメラルダス 2021/01/30
--- 他の文中にも幾つか散見できた。

改めて「松本零士」さんのペンが、
自分の人格形成にとって小さくない影響を与えているのだと実感。
少年時代を振り返れば、いつも傍らに「零士漫画/アニメ」があった。
僕は「零士チルドレン」の1人である。

訃報を耳にして、あまり遅くならないうちに追悼投降したいと思い立つも、
前述のように、既に複数回実績もある。
何を題材にしようか逡巡し、一晩悩んだ挙句、
やはり故人の代表作にして代名詞を選択した。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百二十弾
「劇場版 銀河鉄道999(スリーナイン) ~ 別れのキス」。



『銀河鉄道999劇場版』の封切は、昭和54年(1979年)夏。
いきなり生臭いハナシで恐縮だが、配給収入(※)16億5千万円を叩き出した。

ちなみに歴代の数字(興行収入※)と比較してみると、
1位『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が371億8千万円。
2位『千と千尋の神隠し』は316億8千万円。
3位『君の名は。』250億3千万円。
『999』の記録は足元にも及ばない。
--- しかし、存在感は間違いなく最上位である。

公開年の邦画部門に於いて、アニメ映画として初めて第1位を獲得。
日本アカデミー賞特別賞(話題賞)を受賞。
主題歌もサウンドトラックも大ヒット。
全国各地で「999号」に肖った鉄道旅行が企画され申し込みが殺到。
有無を言わせぬ「結果」を残し、
それまで子供向けの穴埋め扱いだったアニメの地位を大きく向上。
現在の隆盛の魁となる。
「零士漫画」から生まれたこの映画はエポックメイキングなのだ。

(※入場料×有料来場者数=興行収入。
  興行収入-映画館の取り分=配給収入。
  映画界の記録として1999年以前は「配収」が、
  2000年以降は「興収」が用いられている)

そして、個人的にも、ある種のエポックメイキング。
『999』は、僕に「旅の目覚めを促した」と言えるかもしれない。

映画の冒頭---「城達也(じょう・たつや)」のバリトンが旅愁を誘う。

【人はみな 星の海を見ながら旅に出る
 想い描いた希望を追い求めて 果てしなく旅は長く
 人はやがて 夢を追い求める旅のうちに永遠の眠りにつく
 人は死に 人は生まれる
 終わることのない流れの中を列車は走る
 終わることのないレールの上を 夢と希望と野心と若さを乗せて列車は今日も走る
 そして今 汽笛が新しい若者の旅立ちを告げる】


物語の舞台は、遥か未来。
時の富裕層は魂を機械の身体へ移し替え「機械化人」となり不老不死を謳歌。
一方、貧しい人々は機械化人の慰み者として迫害の対象になっていた。
そんな“超格差社会”で後者に属する主人公「星野鉄郎(ほしの・てつろう)」は、
謎めいた麗人「メーテル」と出会い、共に旅に出る。
惑星間航行列車・超特急999号に乗り込み、
無料で機械の身体を与えてくれるという星を目指して。
旅の途上、少年は逞しく成長してゆき、
美しい女(ひと)との別れのキスを経て、男への階段を登った。

この世界観に魅了され、旅への憧れを掻き立てられた僕は、
やがて列車で津軽海峡を渡り北海道へ。
また、徒歩で能登半島を一周したり、
自転車で日本列島を2/3周したり、
バイクに跨り各地へ出向いたり、
ヨーロッパやインド・パキスタンに出かけたりした。
そして、今も旅が好きだ。
根底には「松本零士」さんのペンが描いた「絵」が浮かぶ。

結びに『劇場版 銀河鉄道999』から、
エンディングナレーションを掲載して手向けとしたい。

【今 万感の思いを込めて汽笛が鳴る
 今 万感の思いを込めて汽車がゆく
 一つの旅が終わり また新しい旅立ちが始まる
 さらば メーテル
 さらば 銀河鉄道999
 さらば 少年の日よ】


さようなら、松本零士先生。
どうか安らかに。
                              
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花はどこへ行った?

2023年02月19日 09時30分00秒 | 手すさびにて候。
          
♪夕空晴れて 秋風ふき
 月影落ちて 鈴虫なく
 おもえば遠し 故郷のそら
 ああ わが父母 いかにおわす

クラス担任「松尾佐知(まつお・さち)」が弾くオルガンに合わせ、
児童たちが「故郷の空」を歌う教室には、しんみりとした空気が満ちていた。
前任者「小賀武志(こが・たけし)」戦死の報が届いたのだ。
対照的に学校の外--- 金沢の街はお祭り騒ぎ。
“バルチック艦隊撃滅!”
対馬海峡での大勝利を受け「バンザイ!」「バンザイ!」の大合唱が木霊していた。

♪すみゆく水に 秋萩たれ
 玉なす露は すすきに満つ

遺影に捧げる唱歌が2番に差し掛かかったところで、俄に「佐知」の表情が曇る。
大きな瞳が潤み、眉根に深い皺が刻まれたとみるや
意を決したように身を翻し、背後の黒板の前に立つ。
手にした白いチョークに力を込めた。

美しい 日本
美しい ---

手が止まった。
呼吸が苦しい。
心臓が早鐘を打つ。
身体が激しく拒んでいた。

出征直前「小賀」は、同じ黒板に次の言葉を書いた。 

美しい國 日本
美しい國 ロシア

そして、こう言い遺し戦地へ赴いていった。

「先生がまたこの教壇に戻ってくるまで、この字を消さんといて欲しいんや。
 いいか、ロシア人がみんな日本人の敵やと思うような考え方はしちゃいかんぞ。
 ロシアにはな、トルストイという世界的に有名な先生がおるんだ。
 トルストイは何よりも人を愛する心を一番尊いとしとる。--- 先生もそう信じとる。
 お前たちもな、トルストイのような人を目指して、立派な大人になって欲しいんや。
 わかってくれるか!?」

「小賀」の願いは叶わず、黒板の文字は消されてしまっていた。
せめて彼の遺志を継ぎたい!
子供たちにあの人が伝えたかったことを覚えていて欲しい!
そう思った「佐知」だったが、最後まで書くことができない。
愛する男を殺した国「ロシア」の三文字は、どうしても書けなかった。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百十九弾「映画・二百三高地の夏目雅子」。



前述したシーンに遺影として登場する小学校の教師「小賀武志」役は「あおい輝彦」。
その恋人「松尾佐知」を演じたのが「夏目雅子」。
明治天皇「三船敏郎」、伊藤博文「森繁久彌」、児玉源太郎「丹波哲郎」、
乃木希典「仲代達矢」、その妻 静子「野際陽子」。
誠に豪華絢爛なキャスト陣である。

総製作費15億円(当時)。
製作に費やした期間は丸3年。
主題は明治日本の大事件、日露戦争。
昭和55年(1980年)夏に公開された映画『二百三高地』は、
文字通り、東映が総力を挙げて取り組んだ「大作」と言っていい。

タイトルの由来は、標高203メートルの小さな禿山。
数千もの血を吸ったこの名もなき丘陵地をめぐる攻防が戦局を左右した意味で、
日露戦争を象徴する激戦地である。

--- 今から数えて43年前、
中学生だった僕は父兄同伴で金沢・香林坊の映画館へ足を運んだ。
ロビーに日露戦争で着用した軍服・軍帽・サーベルなどが展示してあったのを覚えている。
何しろストーリーの柱になるのは、金沢を駐屯地にした「第9師団」。
「プラザ劇場」は“ご当地映画”として力を入れていたのだと思う。
事実、作中には、金沢ロケで撮影した見覚えのある風景、
聞き覚えのある石川弁も随所に散りばめられていた。

内容は、ご覧になった方ならご存じの通り。
米と絹しか産業のなかった東アジアの弱小国家が、
面積、人口、国家歳入、軍事力、全てにおいて敵わない大国になぜ挑み、
どう戦って、薄氷の勝利を得たのかを壮大なスケールで描いている。

戦闘シーンは、古今東西、戦争映画最高峰の1つ。
それだけに凄惨を極める。
CGはまだ影もカタチもない頃。
本物の火薬と生身の人で創る殺し合いの映像の連なりは、
戦争の怖ろしさを追体験でき、そこに正義などないことを思い知った。
更に、ロシア文学を学び、ロシア語に通じ、ロシアを敬愛する平和主義者だった「小賀」が、
「ロシア人は全て自分の敵だ!」と言い放つ変貌ぶりは、身震いを禁じ得ない。
「さだまさし」の歌う主題歌「防人の詩(さきもりのうた)」にも深く感じ入り、
僕は心に反戦平和の火を灯したのである。

ところが隣に座るサヨクの人---父親は「映画も歌も右寄り」と断定。
評価・意見が分かれるのは、エンターテイメントが負う宿命なのだ。


<津幡町・大西山の忠魂碑と、清水区戦没者芳名石板。>


今回、古い映画の話題を持ち出したのには2つの訳がある。

1つは、僕が故「夏目雅子」さんのファンである事。

『TVドラマ 西遊記』。
『トラック野郎・男一匹桃次郎』 。
『鬼龍院花子の生涯』。
『時代屋の女房』。
『魚影の群れ』。
『瀬戸内少年野球団』。
それぞれ役どころによって違った魅力を放っているが、
やはり個人的なナンバー1は『二百三高地』。
銀幕に映る「佐知」は、思わず息を呑むほどに美しい。

もう1つは、ウクライナとロシアの戦争が始まって、もうすぐ1年になる事。

映画『二百三高地』の舞台、19世紀末は「帝国主義」の時代。
欧米諸国も、ロシア帝国も、大日本帝国も、
各地で軍事力を盾に恫喝したり、実際に行使するケースは珍しくなかった。
いわゆる“力による一方的な現状変更”である。
当時と今を一緒くたにはできないが、2023年2月の東欧では現在進行形。
「Россия(ロシア)」あるいは「Путин(プーチン)」の文字に嫌悪を覚える
「第二第三の佐知」が大勢いるのではないだろうか。

--- さて、日露開戦の頃に生まれた女性作家がこんな短い詩(うた)を詠んでいる。

“花の命は短くて、苦しき事のみ多かりき”

その言葉をなぞるかのように「夏目雅子」という大輪の花が手折られたのはご存じのとおり。
昭和60年(1985年)9月11日、没。
享年27。
急性骨髄性白血病だった。

彼女の闘病をキッカケに誕生したのが、一般財団法人「夏目雅子ひまわり基金」。 
癌治療の副作用によって脱毛に悩む方々へのカツラの無償貸与。
骨髄移植ドナー登録の呼びかけ、啓発活動などを行っている。
ひまわりの名を冠しているのは、故人が好んでいた花であり、女優人生の原風景だから。

「夏目雅子」が演技者を志したのは17歳の時。
映画『ひまわり』を観て衝撃を受けたのがキッカケという。
第二次大戦で引き裂かれた男女の悲恋を描いた名作『ひまわり』のハイライトは、
画面いっぱいの地平線まで続くひまわり畑。
無数の兵士や市民たちの墓標として風に揺れる黄色い花々は、
実に美しく、異様な迫力に満ちている。

その撮影場所がウクライナで、ひまわりはウクライナの国花。
(ちなみにロシアの国花でもある )
当初、盛んに“抵抗の象徴”として取り上げられていたのを覚えているだろうか?
しかし昨今、めっきり耳にしなくなった。
花はどこへいった?

鳴りを潜めた背景には、様々な要因があると思う。
戦争が長期化(常態化)するにつれ浮き彫りになる構図、
「ロシア一家 vs アメリカ・NATO連合会」は、まるで“世界大戦”。
終わりが見通せず不安は弥増し、不安は疑心と疲弊と荒廃を招く。
戦地の被害も消耗も拡大し、残酷でおぞましい現実の数々を目の当たりにする。
人心からゆとりが削られ、胸襟から花壇が奪われてしまった。
僕はそんな風に考え、こう思うのである。

花よ、枯れるな。            


                  
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津幡町 梅もほころぶ 雨水(うすい)かな。

2023年02月18日 21時00分00秒 | 草花
                     
明日(2023/02/19)は、二十四節気の「雨水(うすい)」。
立春に続く2番目の節気で「降る雪が雨に変わり、雪解けが始まる時期」。
3日前、10センチほど積もった春の雪はあらかた融けた。
季節の移り変わりを実感する。
そろそろ近隣でも梅が観賞できるかなと思い「加賀神社」へ足を運んだ。





以下「津幡町観光ガイド」より抜粋して引用。
<津幡町中条地区の潟端(かたばた)区にある加賀神社は、
 加賀藩5代藩主前田綱紀(まえだ・つなのり)を祀った神社で、
 かつては津幡町内における最高社格(県社)を有していました。
 綱紀公によって、1673(延宝元)年から河北潟縁の干拓が着手され、
 潟端新村が立村された時、干拓事業の成功を祈願して諏訪神社が建立されました。
 1909(明治42)年に加賀神社と名前を変え、1915(大正4)年に県社となりました。
 加賀神社の境内後部には、諏訪神社跡地が残っています。>



ガイド文のとおり、社の裏には「諏訪神社」の石碑。
諏訪明神は、古くは風・水の守護神で五穀豊穣を司るとされた。

「前田綱紀」指揮により開発された農地は、およそ「3ヘクタール」。
以降、小規模な埋立が何度も繰り返されてきた。
江戸後期には、北前船の海運業などで財を成した金沢の豪商が大規模開発に着手。
工事が難航する中、埋め立てに使った石灰により魚が窒息死したのを、
毒を流したとして投獄、獄死。
近代に入り、昭和39年(1964年)から20年の歳月を費やし完工した。

こうした石川県内最大の水辺・河北潟の干拓事業の紆余曲折を思うと、
「潟端」の地名や、諏訪神社の建立に感慨が湧くのである。





さて、加賀藩・前田家5代当主を祀るだけあり、
境内・社殿の所々に「剣梅鉢紋」の意匠を見止める。

東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ

梅の花よ、東風(こち/春風)が吹いたら香りを風に託して大宰府まで送り届けてくれ。
主である私が都にいないからといって、春を忘れないように 。

「藤原氏」との権力争いに敗れた「菅原道真(すがわらのみちざね)」が、
遠く九州・太宰府へ左遷される際、そう歌を詠み梅の木に別れを告げた。
すると想いを受け取った梅の木は、
一夜にして600キロ離れた主の元へ飛んでいったとか--- 。
梅は「菅原道真」の象徴。
その「道真公」を祖とする「前田家」は、剣梅鉢を家紋に定めた。





そして、神社向かいの民家の前で、本物の白梅を鑑賞。
開いた花の数は少ないが、辺りにはふくよかな“春の香り”が漂っていた。
                     
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津幡短信vol.112. ~ 令和五年 如月。

2023年02月12日 18時18分18秒 | 津幡短信。
                       
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回の投稿は、以下の2本。

【路上にて。】



立春を過ぎ、わが津幡町の気候は実に穏やか。
久しぶりに愛犬「りくすけ」を伴い、小一時間の散策に出発した。
上掲画像のように所々雪溜まりは残っているものの、それは然したる問題ではない。
路上は歩きやすいのだが、白内障を患って以来、相方は長時間・長距離行を好まなくなった。
少々老け込んだように思える。
最近は「安近短遅」が散歩の基本スタイルだ。





津幡中心部「四ツ角」のワンコディスプレイは「雛段飾り」。
来月の行事「桃の節句」まで1か月を切り、春本番接近に思いを致す。
最上段に坐(おわす)お内裏様とお雛様の横に垂れ下がる造花の桃の花を見て、
辺りで梅花を探し回るも出会いはなかった。
春遠からじ、されど花の季節まで今少し--- と言ったところか。

【 橋上にて。】



「四ツ角」の傍を流れる津幡川に架かる「おやど橋」。
その袂には、酒類・飲料の販売店「ゴサマストア」がある。
どうやら二階外壁のお色直しの真っ最中のようだ。
これからも末永い商売繁盛を願っている。

その店と橋を挟んだ向かい側に建つのは「弘願寺(ぐがんじ)」。
藩政期の宿場・津幡宿が置かれた旧北陸道沿いにあたり、
当時は大名行列の御家来衆が宿泊する「脇本陣」的な役割を担っていた。
明治6年(1873年)、僕の母校「津幡小学校」が産声を挙げたのは、同寺院境内。
明治11年(1878年)には、明治天皇北陸巡幸の際、同寺院が昼食休憩所となる。

そんな町の歴史を見詰めてきた「弘願寺」前、
掲示板に張り出される言葉は、散歩の楽しみの一つだ。



<昔はなにもなかったが なにかがあった
 今はなんでもあるが なにかが足りない>

言うなれば「The Ultimate Question」。
かつてあって今は足りない「なにか」は、人によって違う。
希望、夢、人情、お金、若さ、愛、時間、平和、闘争心--- 。
拙ブログをご覧の貴方にとっての「なにか」は何だろう?

<津幡短信 vol.112>
                    
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