つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

悪女か、スパイか、生け贄か。 ~ マタ・ハリ。

2020年09月27日 05時36分23秒 | 手すさびにて候。
ほんの手すさび手慰み。
不定期イラスト連載、第百五十三弾は「マタ・ハリ」。

「マタ・ハリ」は、マレー語で「太陽」や「暁(あかつき)の瞳」などを意味する。
彼女のステージネームだ。
本名は「マルガレータ・ツェレ」。
オランダ生まれのオランダ人である。

生家は裕福で、一人娘の「マルガレータ」はお姫様。
愛情を一身に受け、何不自由無く過ごしていたが、父が株投資に失敗し事態は一変。
損失を借金で補填→負債は雪だるま式に増え→破産&一家離散。
子供たちは、親戚の元へ引き取られた。

19歳になった「マルガレータ」は、「お相手募集」の新聞広告に応募し、
年上のオランダ軍将校と結婚。
ボルネオ、スマトラ、ジャワ、夫の駐留先である東南アジア各地を転居し、
2児を儲けるも7年後に離婚。
オランダに帰国後、職を求めパリへ渡る。

ある日、パーティーの余興で、見様見真似のジャワ舞踊を披露すると拍手喝采。
ダンサーとして舞台に上がらないかと、声がかかった。
徐々に人気を集め、公演がスケールアップしてゆく途上、
“ジャワ島から来た巫女”という演出を施(ほどこ)し、
エキゾチックな源氏名「マタ・ハリ」を名乗るようになる。
また、ステージに加えベッドの上でも活躍。
彼女は、高級士官や政治家らを上客に持つ、高級娼婦でもあった。

第一次世界大戦勃発後は、仕事減、収入減。
困窮の影におびえる「マタ・ハリ」に、ドイツの諜報機関から誘い水が。
“ピロートークでフランス側の情報を集めて欲しい”というのだ。
高額報酬に惹かれ、もう一つの異名 --- コードネーム「H21」を受け容れ、
「マタ・ハリ」は、深い闇へと踏み出した。
幾人もの男たちと逢瀬を重ね、二重、三重スパイになったともいわれるが、
果たしてどれほどの諜報成果を上げたのかは定かでない。

早くから彼女の行動は、フランス当局に筒抜け。
戦況不利の罪を「美貌の大物女スパイ」に着せるべく身柄を拘束し、
非公開の軍事裁判で死刑判決を下す。
反独ムードが高まる中で迎えた1917年の秋。
執行当日、目隠しを拒んで刑場に立ち、ほほ笑みを浮かべ鉛の弾を浴びたという。

死後、よくできたお芝居のような生涯はエンターテイメントの題材になった。
舞台、映画、小説、漫画、ゲームなどに彼女自身、
あるいは彼女がモデルと思われるキャラクターが登場するのは少なくない。
今や、その生き様には、盛大な尾ひれがついているだろう。
魔性の女、男たらし、妖婦(ようふ)、毒婦とまで形容される女の真実は、
歴史の奈落に埋もれている。
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秋桜 露に濡れたる 廃屋前。

2020年09月26日 13時31分31秒 | 日記
本日(2020/9/26)、
愛犬に胴輪を付けリードを握り出発したのは、午前6時を回った頃。
路面はまだ濡れ、雲が残っていたが切れ間からは陽が射し、空に虹がかかっていた。

体感気温20℃。
Tシャツ一枚の格好を後悔したのも束の間、意外と高い湿度に気付いて思い直す。
時折、汗を拭いながら歩く事20分。
とある民家の前で足が止まった。

波型のプラトタンの屋根は抜け落ち、
細部が歪み、壁も所々ヒビが入っている。
多分、人は住んでいないだろう。
しかし、道路ぎわの「コスモス」は鮮やかに咲く。
まるで、誰かの帰りを待っているようだ。

コスモスの名前は、ギリシャ語の「秩序」や「美しい」という意味の言葉に由来。
花言葉は「乙女のまごころ、愛情、たおやかさ」。
確かに、ピンクや白、赤の花びらが整然と並んで咲き誇る様子は、
ほっそりと美しい女性の立ち姿を思わせる。
一方、和名は「秋桜(アキザクラ)」。 
秋に桜のような形をした花が咲く事から命名された。

コスモスの故郷は、メキシコの高原。
日本への渡来は明治時代。
比較的新しい外来種だが、すっかり秋の風景の中に溶け込んでいる。
これは【景観植物】として栽培されてきた歴史が関係しているらしい。
土地を選ばず、特別な肥料や土地調整をしなくても、種を撒くだけで芽吹く。
一度育てば、落ちた種が自然に発芽してくれる。
手間がかからず、各地で重宝されてきた。
ここ津幡町も例外ではない。

秋風にゆらゆらと揺れる様子は短歌や俳句の題材になってきた。
僕もタイトルの一句を詠ってみた次第だ。

【秋桜(あきざくら) 露に濡れたる 廃屋(はいや)前】

おそまつでした。
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津幡短信vol.77~秋分。

2020年09月22日 14時43分44秒 | 津幡短信。
「暑さ寒さも彼岸まで」というが、
厳しかった残暑もようやく治まり、秋を肌で実感できるようになった。
津幡町に関するよしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
昼夜の時間が等しくなり、太陽が真東から昇り真西に沈む今日(2020/9/22)の投稿は、
以下の3本。

【秋の釣り人。】


<釣れない時は魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい>とは、
アメリカの文豪「アーネスト・ヘミングウェイ」が残した言葉だ。
津幡川に釣り糸を垂れる人の釣果はいかに?
ルアー釣りと見受けられるから、獲物はブラックバスか?
昔、小学生の僕も同じ場所で鮒を狙ったが空振り三振。
ボウズに終わる。
その悔しさを噛みしめた数時間のうちに考え、結論を出した。
<釣りの才なし>と。

【秋色。】


青柿の中にちらほらと色づく実が現れてきた。
こうなると、夏から秋へと季節のバトンが渡ったのだと実感する。

町内の銀杏並木も、歯を落とす準備を始めている。

【黄金の煌めき(きらめき)。】


とある農家の前を通りかかると、もみ殻の山に遭遇。
もみ磨りされ、風で飛ばされた稲の包皮が陽の光を浴びて、
黄金(こがね)色に輝いていた。

キラキラと舞い踊る煌めきは、
秋到来と収穫を祝福しているかのようだ。

<津幡短信vol.77>
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川面ゆく 秋雲ながめ ものおもい。

2020年09月21日 20時11分11秒 | 自然
わが津幡町は北陸の片田舎。
視界を遮る高い建物などなく、空が広い。
そのためか子供の頃は、よく「雲」を眺めていた記憶がある。
ゆっくりと、確実に形を変えながら、空を流れてゆく様子を見て思ったものだ。

雲みたいに漂いながら、ここではないどこかへいきたい

--- 大げさに言えば、当時、雲は「自由の象徴」だったのかもしれない。

今朝、津幡川沿いを歩きながら撮影した「積雲(せきうん)」。
典型的な秋の下層雲で、現れる高さは地上からおよそ2,000メートル。
川面が空を映してくれたお陰で、天地二段の豪華な景色が味わえた。

積雲は「小さな水の粒」でできている。
海や川、地面の水が太陽の熱で暖められると蒸発して水蒸気になり、
空気中の塵(ちり)と混ざり、上昇気流に乗って空へ。
上空で冷え、塵に水蒸気が付着した粒が集まったものが、雲だ。

--- という理屈は分かっているのだが、とても微粒子の集合体とは思えない。
受ける印象は、姿形によって実に様々。
別名「綿雲」のとおり、青空に浮かぶ綿花そのもの。
近付いたら手で掴めたりするのではないか?と、勘違いする程だ。

さて、50を過ぎてオッサンになった僕は、
久しぶりにじっくり雲を眺め、一句つぶやく。

秋雲は 老の心に さも似たり

「高浜虚子(たかはま・きょし)」の歌だ。
天高い秋の空に浮び、変幻自在に姿を変えながら消えてゆく白い雲は、
俗界を離れ、何ものにも邪魔されない孤高の存在。
齢(よわい)80を超えた俳人は、
老いた自分の心境と雲を重ね合わせて、詠んだという。

自由よりも孤高。

今はこの方がしっくりくる。
雲は「自分勝手な生き方」の象徴。
僕の羨望であり、願望になっているのかもしれない。
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しずかなる2020の秋祭り。

2020年09月20日 19時35分34秒 | 日記

<毎年9月中旬に、かつての津幡宿として栄えた津幡四町
(中央の清水、能登口の庄、越中口の津幡、加賀口の加賀爪)による
 獅子舞競演が披露されます。
 獅子がぶつかり合う祭りは、津幡の晩夏の風物詩となっています。>

(※津幡町観光ガイド「津幡四町獅子舞頭合わせ」より抜粋)

ここ最近、何度か投稿しているが、本来は今日(9月20日)が獅子舞当日だった。
2020年は、新型コロナウイルス感染拡大防止の観点から開催中止。
何もなければ、町中ではこんな光景が繰り広げられていたはずだった。
画像は一年前の様子である。
詳細興味あれば、昨年投稿「令和最初の獅子が舞う秋(LINK有)」をどうぞ。

秋に獅子舞が観覧できないのは、寂しいが致し方ない。
しかし、そんな中でも「清水八幡神社」で「神輿巡行」が行われると聞き、
今朝、愛犬のリードを握り見学に出掛けた。

鳥居前には神輿運搬リヤカーがスタンバイ。
きっと特注品ではないだろうか?

鳥居から奥をのぞくと、社殿正面の石段で氏子の皆さんが記念撮影中。
無事終了後、神輿が運ばれてきた。
道中、鳳凰飾りが鳥居の注連縄(しめなわ)に引っかからないよう、
バランスが崩れないよう気を使いながら専用車に載せる。

スローにリズムを刻みながら触れ太鼓を鳴らしつつ、
神主さん、巫女さんも同行して静々(しずしず)と家々を回る。
全員がマスクあるいはフェイスガードを着用していた。

一行を先導する方と立ち話ができた。
思いつくまま交わした会話を要約して掲載する。
Q:りくすけ、A:氏子さん。

Q「この巡行はいつ頃から行っているんですか?」
A「正確な年代はわからないが、以前、神輿を修理した際、
  中から“大正五年 修繕”の木札が出てきた。
  そのサイクルから想像すると、明治初期~江戸末期と推測される。
  ワッショイ!ワッショイ!と持ち上げず、静かに回るのがここのスタイル」

Q「150年以上か、長年行われているんですね」
A「今年はどうしようかと悩んだが、
  皆で話し合い、感染対策を講じたうえで実施することにした。
  各お宅には“コロナ退散”のお札を配る」

Q「獅子が出ないのは寂しいですね。
  ところで昭和の半ばころは獅子舞の際、
  蚊帳(獅子の胴体)の中に鳴り物や芸者が入っていたと聞きました」
A「そう、今とはずいぶん趣(おもむき)が違っていた。
  昔は囃子(はやし)の曲目の数も多く、
  もっと音楽と舞がシンクロしていて、優雅だった」

--- タイムマシンがあれば、昔の獅子舞・秋祭りを見に行ってみたいものだ。
そうすれば、話をしてくれた方の若かりし頃に出逢えるかもしれない。
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