つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

幽玄との遭遇

2023年10月23日 20時20分20秒 | 手すさびにて候。
                             
幽玄(ゆうげん)

僕は、初めてこの言葉に接した時から惹かれるものがあった。

あれは13~14歳頃に読んだ大人向けの怪談物で、
美しい「物の怪」が侍に憑りつき、生気を奪い、立ち去る場面。
出典元や粗筋は覚えていないが、ラストシーンの文面は心に残っている。

『枯れ木のようになった男は、闇に溶けてゆく後ろ姿から目が離せなかった。
 音もなく滑るように進むようすは、能舞台の役者さながら。
 霞む意識の中で、男は“幽玄”を見た---』

脳裏に情景を思い描き背筋がゾクリとした。
早速「幽玄」を辞書で繰ると、概ね以下の記載。

■ 奥深く計り知れない趣のこと。
■ 気品があり、優雅なこと。
■ 中世の文学・芸能の美的理念の一つで、ほのかな余情の美。

中学生には理解しずらかったが、難解故、却って言葉が纏う妖しさは増す。
前述「物の怪」の印象と相まって得体の知れぬ魅力を感じた。
そして、幽玄を体現しているらしい「能舞台」「能役者」にも俄然興味が湧く。

今ならネット検索すれば画像でも動画でも閲覧できるが、
1970年代末の世の中ではそうはいかない。
また、北陸の片田舎に於いて、能を鑑賞する機会など滅多に訪れない。
辞典をはじめ書籍で根気よく調べるしかなかった。
やがて、それが600年の歴史を持つ「古典芸能」だと知り、ある人物に辿り着く。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十弾「世阿弥(ぜあみ)」。



「世阿弥」の誕生は、室町時代初期。
生家「観世一座」は、現代のサーカスに近い芸能集団。
歌舞・軽業・モノマネ・寸劇などが混在する出し物を引っ提げ、
奈良、京都を中心に畿内一円の寺社へ出向き、糧を得ていた。
一座の長、父「観阿弥(かんあみ)」から英才教育受けて育った「世阿弥」は、
取り分け「舞い」の分野で早くから才能が開花。
踊りの所作や技術に優れていたのは勿論、圧倒的に美しかったという。
彼見たさに老若男女が足を運んだ。

時は、永和元年(1375年)仲秋。
所は、京都・今熊野社(いまくまのしゃ/現:新熊野神社)。
巷で評判を集める「観世一座」の興行が催された。
V.I.P桟敷席から熱心に見詰めるのは、室町幕府三代将軍「足利義満」。
その視線の先には、匂い立つ美少年がいた。
すっかり魅了された将軍は、彼を寵童(ちょうどう)--- 愛人にする。
「義満」18歳、「世阿弥」12歳だった。

権力者と稚児の只ならぬ間柄。

そう聞くと、昨今巷を騒がせる「旧 Johnny's」を連想するかもしれないが、
14世紀の武家社会で、男色・少年愛は異端に非ず。
初々しい男子に若さと美の象徴・理想を求め、愛情を注いだ。
「主従関係」「年長-年少間の義兄弟関係」「友情」などが理念の土台と考えられる。
事の是非、好き嫌いはさて置き、
時を数百年遡れば、近現代と異なる性への眼差しが存在したのだ。

また「ギブ&テイク」の意味合いも無視できない。

「世阿弥」側は「自分たちの未来」が係っていた。
生活基盤が不安定な旅暮らし。
差別の対象にもなる低い身分。
トップがパトロンになってくれることは、一座にとって大チャンス。
少年は皆の期待を背負い、ミッションを帯びて御所に赴いたと思う。
一方「義満」にすれば「未来の芸術」を遠望した。
天才ダンサーを育て、才能を伸ばし、大衆芸能とは次元の違う舞台を創りたい。
そんな憧憬を抱いたのではないだろうか。

そして、夢は結実する。

手厚い庇護のお陰で、面・装束・楽器といった周辺アイテムが充実。
生活苦から逃れた役者は、心置きなく芸に精進。
謡(うたい)・舞・演奏・豪華な衣装など、
ステージを構成する美を結集し、磨き上げ、歌舞主体の総合芸術---「能楽」が大成した。

「観阿弥」「世阿弥」親子の目指した境地が「幽玄」。
その概念については前述したとおりである。
では「能楽に於ける幽玄」とは何か?
残念ながら僕は、それについて語る知識を持ち合わせていない。
ライブ観劇は、たった一度だけ。
しかし、その乏しい能体験で「幽玄を感じること」は出来たかもしれない。

大学3年の夏、ツーリングに出かけた。
愛車「SEROW225」に跨り、当時住んでいたアパートから名古屋市内を抜け、
ワインディングロードをひた走り数時間。
午後4時近く、岐阜県・岩村町(いわむらちょう/現:恵那市)に到着した。
東美濃の山城「岩村城」址の見学が目的だった。

山頂の石垣群に近い駐車場まで登ろうと思っていたが、
麓に予想外の人影を見止め一旦エンジン停止。
手近な方に何があるのかと聞いてみたところ、
ちょうどこれから「薪能(たきぎのう)」が催されるとのこと。
なるほど立派な舞台もある。
城址訪問は次の機会に譲り、僕は観客の一人となった。

       (※参考動画_奈良「薪御能」/こんな雰囲気でした)

蜩(ひぐらし)の蝉時雨が、草むらの虫の音に代わる頃。
日輪が山の稜線に隠れ、宵闇が忍び寄る。
鉄籠の薪から火の粉が舞い上がり始めた。
パチパチと木が爆ぜる音、仄かに漂う煙の匂い。
辺り一帯に流れる鼓(つづみ)や笛の囃子、歌(謡/うたい)に乗って、
舞台奥に渡した幕の後ろから役者登場。
淀みなく滑るように壇上を動き回る。
陰影が無表情な能面に雄弁な変化をもたらす。

--- 実に妖しく、とても美しい。

演目もストーリーも分からなかったが、
少年の日に“幽玄”を教えてくれた、美しい「物の怪」に出会った気がした。
                            
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津幡小学校 創立一五〇周年記念式典。

2023年10月21日 16時23分23秒 | 大西山の丘辺に立てば。
                         
本日(2023/10/21)わが母校「津幡小学校」の創立150周年記念式典が行われた。
場所は、同校体育館。
お招きに与り、僕も臨席させてもらった。







在校児童たち、PTA、関係各位が集い賑やかな記念式典。
一、開会の辞
一、国家斉唱
一、校歌斉唱
一、学校長式辞
一、児童発表
一、歴代校歌紹介
一、お祝いの言葉
一、お礼の言葉
一、閉会の辞
『起立!』『一同礼!』『着席!』の司会進行に従い動いたのも、
声を合わせて国家・校歌を歌ったのも、一体何年ぶりだろう。
オジサンの日常ではまず味わえない体験で妙に新鮮に感じた。
都合およそ1時間少々、式典はつつがなく終わり小休止。

第二部では、同校卒業生で現在・声楽家(メゾ・ソプラノ)として活躍している方、
小泉詠子(こいずみ・えいこ)」氏のコンサートを開催。
一、シューベルト「アヴェ・マリア」
ニ、ロジャース「エーデルワイス」
三、滝廉太郎「花」
四、ロジャース「ドレミの歌」(※児童と一緒に)
五、ピアノソロ(崖の上のポニョ)
六、アメイジング・グレイス
七、ロウ「踊りあかそう」
アンコール:「翼をください」
素晴らしい歌声に皆が聴き惚れ、児童たちは楽しそうに参加していた。



「小泉」氏と同様「津幡小学校」卒業生として名を馳せる1人が、
二所ノ関部屋所属の力士「大の里(おおのさと)」関。
今年9月の大相撲秋場所で新十両ながら優勝争いを演じたのは記憶に新しいところ。
校内には特設コーナーが設置されている。



そして、記念式典にサプライズゲストとして登場!
場内大歓声と拍手で迎えたのは言うまでもない。
児童全員とハイタッチ、質問コーナーでは気さくに受け答え。
自身の益々の努力と出世を誓い「ヨコヅナ」コールに送られて会場を後にした。
後輩たちにとっては、いい思い出になったと思う。



--- さて、母校の創立150周年にあたり卒業生有志による応援団が発足。
僕「りくすけ」も末席に座り、任務を果たした。
以前紹介したとおり、ラジオ番組風プログラムの制作である。
関係各位のご協力を賜り、無事完成。
津幡小学校HPにて聴取可能となっている。

リンク:https://cms1.ishikawa-c.ed.jp/tsubae/
「大西山の丘辺に立てば」(作、構成、編集/りくすけ)

学校の音楽室で録音した新旧校歌。
過去の校舎へ通学した方々、校長先生へのインタビューなどを織り交ぜ、
明治~大正~昭和~平成~令和、150年の歩みを紹介している。
ナレーションは本職のアナウンサー。
インタビュアーは不肖、僕が務めた。

また「記念誌」の閲覧もできる。
津幡町と津幡小学校に地縁血縁があれば楽しんでもらえると思う。
そうではない方にはピンとこない点が多々あるのは否めないが、
気が向いたら覗いて、聞いてやってくださいませ。
                            
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侍たちの挽歌 番外。

2023年10月17日 22時00分00秒 | 旅行
                          
近代日本最大の内戦・戊辰戦争(ぼしんせんそう)ゆかりの地を訪ねる旅。
過去3回に亘り堅苦しいハナシが続いたが、今回はライトな番外編。
喰ったり買ったり目に留まったりしたモノの記録である。
画像多めのため勢い長くなるが、文少なめで読みやすいと思う。
よろしかったらお付き合いくださいませ。



会津若松駅前の「赤べこ」。
ご存じ福島県の会津地方に伝わる、牛の形をした郷土玩具。
木型に何枚もの紙を貼り重ねて乾燥させ、型を抜いて作られる「張り子」。
頭がゆらゆら揺れるボビングヘッドが特徴。
起源は諸説アリ。
江戸時代初期(1611年)の大地震で倒壊した寺院を再建する際、
どこからともなく現れた赤毛の牛の群れが、木材運搬を助けてくれた。
以来、赤毛の牛を「赤べこ」と呼び、親しまれ、縁起物のおもちゃになったとか。



新潟・長岡から会津へ向かう道すがら「栃尾(とちお)」地区に差し掛かると、
あちらこちらで「あぶらげ」の幟旗。
ハンドルを握りながら喉が鳴った。
僕は「栃尾の油揚げ」の大ファン。
豆腐ではなく、厚くて固い専用生地を低温と高温の油で2度揚げ。
一般の油揚げよりもビッグサイズ。
アツアツ、肉厚のそれにかぶり付けば、口いっぱいに大豆の旨味と香りが広がる。
薬味に大根おろし、おろし生姜に加え、かんずり(※)が嬉しい。
(※すり潰した唐辛子、米糀、柚子、塩を混ぜ熟成・発酵した越後の調味料)



道の駅では、持ち帰り用屋台販売に行列。
大人気なのも頷ける。
何しろ旨いのである。



福島県・只見町「河井継之助記念館」を見学後に立ち寄ったのは、
お隣・金山町の『大塩天然炭酸水 炭酸場』。
地下から湧き出る天然炭酸水の歴史は明治まで遡る。
旧会津藩士が白磁のビンに詰め「太陽水」と命名し販売、評判を呼んだ。
「万歳炭酸水」の商標で東京へ出荷。
「芸者印炭酸ミネラルウォーター」としてドイツにも輸出されたとか。

鬱蒼と茂る森に抱かれたそこで、早速いただいてみた。
喉ごしのいい軟水で、程よい刺激の微炭酸。
当夜のハイボール用にと考え購入しに入った商店が、ちょいとユニークだった。



コンビニチェーンが普及する以前、
各所(主に田舎)で見かけたスタイル、萬屋(よろずや)。
食品、雑貨、書籍、化粧品などを一手に扱う個人商店だ。
店頭に掛る看板は、滝沢、ヒロセ、横田と三つが同居。
どれか1つに統一しても良さそうな気はするが、
そうなっていないのが面白い。
商売の手を広げるうち名称複合店になったと聞いた。






明治15年(1882年)創業、元・海産物問屋『渋川問屋』では、
会津の郷土料理を提供している。
いつも旅の食事はB級グルメ専門の僕にしては、珍しい選択。
(--- と言っても一番お安いコースなのが玉にキズだが)どれも大変美味しかった。





先付けの「松前漬け」に始まり、
天日干しの棒タラを一晩かけ水で戻し、とろ火で煮込んだ「棒鱈煮」。
脂ののった身欠きニシンを山椒の葉と一緒に漬けた「鰊山椒漬」。
干し貝柱で出汁を取り、里芋やきくらげ、豆麩などを入れた具沢山のお吸い物「こづゆ」。
「ニシン昆布巻」や「ニシン天ぷら」などが御膳に並ぶ。
遥々北海道から船に乗り、新潟から阿賀野川を上り山国へ運ばれた干物が素材。
そこから滲み出す滋養が凝縮された料理の数々。
久しぶりに味わう快楽を堪能した。





食後は、玄関左手にある「喫茶開化」で一休み。
名称から連想する大正ロマンを感じる空間で、
コーヒーとアツアツの会津名物「揚げまんじゅう」をいただきながら、
戊辰戦争をテーマにした小説を読み、時を過ごした。



先ほど取り上げた会津郷土料理の一品、
「こづゆ」が入った浅い器は「手塩皿(てしおざら)」と呼ばれる専用漆器。
口当たりの良さ、手馴染みの良さが気に入り、
旅の記念に一つ会津塗の汁椀を購入しようと思い立つ。
行き当たったのが上掲画像のお店。
予備知識はゼロだが、妙に気になり暖簾を潜った。

『三浦木工所』は140年以上続く漆器の木地工房。
接客をしてくれた人の好さそうなご主人は4代目。
頂戴した名刺には、会津塗 伝統工芸士(木地部門)とある。



樹齢百年を越える地元会津産の木を仕入れ、
数十年間自然乾燥させた後、手挽きのロクロで挽いて木地が出来る。
そこに漆で塗りを施し、ようやく完成。
「三浦さん」は、これらの工程を全て一人で熟すという。
分業制を敷く漆器造りの世界では大変珍しい。
そんな話を伺いながら物色すること暫し。
落ち着いた朱が美しい逸品を買い求めた。



そして「不思議な体験」をする。

実は、僕の苗字は結構珍しい。
2023年現在、北陸では2軒しかない。
過去に何度か投稿したとおりルーツは会津。
ここには同じ姓のお宅が数軒あって、うち1人が陶芸家をしている。

雑談の中で「三浦さん」にその事を伝えると---
『(その人)知っている』と言う。
『ここ(木工所)に何度か来たことがある』と言うではないか。
『えっ?!!』
ドキリとした。
ちょっと待てと言い残し店舗奥に引っ込んで、誰かに電話をしている様子。
再び目の前に現れた時、一枚のメモを差し出した。
『これ〇〇さんのケータイ』

意外な展開に心が波立つ。
元々、今回の旅で親戚筋に会うつもりはなく何の下調べもせず予定も組んでなかった。
しかし---。
全く偶然に選んだ店。
話題にしたのも偶々。
もし漆器を買う気にならなかったら。
もし店の前を通りかからなかったら。
もし違う場所で買い物をしていたら。
この11桁の数字は、僕の手の中になかっただろう。

『さあ、行け』

得体の知れない力が、そう命じている気がした。

会津若松から陶芸工房のある北塩原村(きたしおばらむら)まで、
車で行けば僅か1時間あまり。
しかし、僕にとっては四半世紀以上の時を遡るのに等しく、
とても長い道のりに思えた。
                         
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侍たちの挽歌 其の参。

2023年10月15日 21時04分44秒 | 旅行
                        
近代日本最大の内戦・戊辰戦争(ぼしんせんそう)ゆかりの地を訪ねる旅。
前々回投稿前回投稿の続篇。



画像は、福島県・南会津の「大内宿(おおうちじゅく)」。
江戸時代、会津若松市と日光今市を結ぶ街道の宿場町として栄えた。
茅葺屋根の民家が建ち並び、往時の面影を留めたそこは、
国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定。
よく整備された観光地だが、時計の針を巻き戻すと危うい場面があった。
戊辰戦争に於いて藩境を守る会津軍が後退する際、
自分たちが去った後、新政府軍西軍の本拠地にならないよう大内宿を焼き払おうとした。
しかし、名主が金品を叩いて嘆願。
寸でのところで戦火を免れる事が出来たのである。
これはレアケースと言えるかもしれない。

戦争という事態を構成する要素は「戦闘」に加え、
「兵站(へいたん):戦闘員の移動と宿泊や食事の手配」
「輜重(しちょう):軍隊食の手配や運送、武器・弾薬の移送」も欠かせない。
これを維持するためには、戦闘員とほぼ同数かそれ以上の軍夫(陣夫)が必要で、
戦場となった地域の村々から強制的に徴発された。
更に、焼き打ち、略奪、凌辱に遭った例は少なくないだろう。



帰路に立ち寄ったのが「長岡市 北越戊辰戦争伝承館」である。
到着時間は閉館15分前。
それにも拘わらず、快く迎え入れてくれた。
ありがとうございます。

--- さてこの建物周辺は「北越戊辰戦争」の激戦地。
長岡・会津・米沢らの奥羽越列藩同盟軍と、薩摩・長州らの新政府軍が何度も刃を交えた。
特に長岡藩兵による「八丁沖(はっちょうおき) 渡河作戦」は、
歴史ファン、ミリタリーファンの間でつとに有名である。

「八丁沖(別名:八町潟)」とは、当時この一帯にあった大湿原。
面積、南北5km-東西3km。
水深、浅い所は膝下くらい。深くてもせいぜい腰高。
アシやススキが鬱蒼と生い茂り小舟の通行はままならない。
そのおよそ人の行き来にそぐわない湿地を、夜陰に紛れて縦断し攻め入ろうというのだ。
作戦の指揮を執るのは、今シリーズ初回で取り上げた“越後の蒼龍”、
長岡藩家老「河井継之助(かわい・つぐのすけ)」である。


(※「伝承館」2階バルコニーから撮影)

--- 何ともはや稚拙な図解で恐縮だが---
赤い点線で囲った田園が、八丁沖跡。
青い矢印が長岡藩軍の動き。
目指す方向には『さすがにコッチから攻撃はないだろう』と油断した新政府軍。
完全な奇襲だった。

慶応4年(1868年)初秋 日没後、
長岡藩兵700人あまりが一列縦隊となり、息を潜めて八丁沖へ進出。
武器弾薬・食料を携行しながら膝上まで泥に沈み、泥の上を這い、
物音を立てないよう細心の注意を払いながら前進。
月が雲間から姿を表せば、全軍が沼地に伏せ月光の翳りを待った。
そして、虚を突いて新政府軍陣地を攻め落とし、
翌未明、敵の手に落ちていた長岡城の奪還に成功。

しかし払った犠牲も少なくなく、
「河井継之助」はこの時の戦いで負傷し程なく命を落とすことになる。



<新組地域では、今でも銃弾や砲弾が見つかることがあります。
 田んぼや畑の耕作により、地面の下にうまっていた物が掘り出されたためです。
 おもに鉛でできている銃弾を利用して、魚つりのおもりに使ったという逸話も
 この地域には伝えられています。
 いかにたくさんの銃弾や砲弾が使用されたのか、
 また、いかに大切な歴史資料がこの地域で守り伝えられてきたのかということを、
 これらの資料は語りかけているようです。>

(※<   >内、伝承館展示説明文より引用/原文ママ)
(※新組地域は、明治の町村制施行に伴い複数村落が合併した名称と推測)



上掲画像、ライフル左の「椎の実型砲弾(長弾)」は、
戊辰戦争に於ける幕府側の主力火砲「四斤山砲(しきんさんぽう)」のもの。
「四斤」は砲弾重量4kgに由来。
「山砲」は山地での使用に合わせ車輪などを分解・運搬しやすくした種。
黒船襲来以降、急速に普及した近代兵器の代表格だ。



ちなみに「四斤山砲」を開発したのはフランス。
当時、幕府側の軍事的後ろ盾だった。
一方、新政府側を支持していたのはイギリス。
同胞が血で血を洗う内戦は、
極東の新しい市場を巡る欧州強国のパワーゲームとも言えるのである。



遅い来訪を詫び、礼を述べて退出した僕は伝承館傍の石碑の前に立った。
御影石に刻まれた『戊辰戦跡記念碑』の文字の揮毫は、
「山本五十六(やまもと いそろく)」。
彼もまた戊辰戦争と浅からぬ因縁を持つ。

後の連合艦隊司令長官は、明治17年(1884年)に生を享けた。
元々の姓は「高野」。
生家は旧長岡藩士として辛酸を舐めている。
祖父は長岡城攻防戦で戦死。
父と2人の兄も従軍し負傷。
「五十六」幼少期の暮らし向きは決して豊かではなかったという。
32歳の時、養子に入った「山本家」は源氏の末裔で、代々長岡藩家老職を務める名門。
系図の中には、北越戊辰戦争時に「河井継之助」と共に矢弾の下を潜った人物、
「山本帯刀(たてわき)」がいた。

最後に「山本五十六」が遺した歌の1つを紹介したい。

『弓矢とる 国に生れし益良雄(ますらお)の
     名をあらはさむ ときはこのとき』


字面を追うと、対米戦争への勇ましい気構えに思える。
また、強大な敵を前に挫けそうな心を鼓舞する歌にも思える。
そして「弓矢取る国」を「長岡藩」に置き換えて読めば、
先人たち、侍たちへ捧げた挽歌にも思えてくるのだ。

〈もう1回だけ続く、次は“軽い内容”です〉
                                
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侍たちの挽歌 其の弐。

2023年10月12日 23時44分44秒 | 旅行
                        
近代日本最大の内戦・戊辰戦争(ぼしんせんそう)ゆかりの地を訪ねる旅。
前回投稿の続篇。

東は磐梯山・猪苗代湖を含む奥羽山脈、西は越後山脈。
南は会津高原。北は飯豊山地に囲まれた、
南北34キロメートル、東西13キロメートルの縦長な楕円形の「会津盆地」。
その中核となる町が「会津若松」。
そこを象徴するのが「鶴ヶ城(会津若松城)」である。





城郭の屋根瓦は赤褐色の赤瓦。
現在、赤瓦を用いた天守閣は、国内ではここ鶴ヶ城だけだ。
17世紀の建造当初は西日本で発達した黒瓦が葺かれていたが、
北国・雪国ならではの低温や積雪に耐えられ、強度が高まるように、
鉄分を多く含む釉薬を用いた瓦が会津で開発され、それに代わる。



天守台の石垣は「野面(のづら)積み」。
鎌倉後期に始まる自然石をそのまま積み上げるやり方。
石の形状は均一性に乏しく、角度も緩やかだが地震などの影響を受けにくいという。

築城600年を超える鶴ヶ城では場所によって時代の違う積み方が混在し、
日本の城郭に於ける石垣の変遷を窺うことができる。



上掲画像中央、立ち木の左右を見比べると分かりやすいかもしれない。
関が原合戦以降盛んに用いられた手法が「打込み接ぎ(はぎ)」。
表面側の石の角や面を平たく加工して、隙間にくさびとなる薄い石を打ちこんだ。
江戸時代初期から多用されたのは「切込み接ぎ(はぎ)」。
方形に整形した石が密着させて仕上げ、急角度で高い石垣ができるようになった。

堅固な石垣と強い瓦で鎧(よろう)会津の城は、
慶応4年(1868年)の戊辰戦争では激戦の舞台となる。
多い時は1日2500発もの砲撃を浴びたが、
1か月に及ぶ猛攻に耐え抜き、最期まで瓦解せず難攻不落の名城として知られた。



しかし、生身の人間はそうはいかない。
多くの血が流れ、数々の悲劇が生まれた。
最も有名なエピソードは「白虎隊(びゃっこたい)」である。



戦端が開く直前、会津藩は以下の組織編成を行った。

・白虎隊…16~17歳の武家男子で構成。予備隊。
・朱雀隊…18~35歳の武家男子で構成。主力となる実戦部隊。
・青龍隊…36~49歳の武家男子で構成。国境予備隊。
・玄武隊…50歳以上の武家男子で構成。予備隊。

それぞれの隊名の由来となっているのは、古代中国から伝わる守護神獣。
勇ましく、決死の心情が伝わるネーミングだが、戦力構成は苦しい。
精鋭は朱雀・青龍の2000名あまりのみ。
火器装備の性能は新政府軍に遠く及ばない。
戦況は会津劣勢に陥り、城下防衛に当たっていた予備隊も最前線に投入された。
そして敗走。
「白虎士中二番隊(びゃっこ しちゅうにばんたい)」は、
水路を這い、飯盛山(いいもりやま)へ落ち延びる。
そこは標高314メートルの小高い所で、市街が一望できた。



燃え盛る火炎に覆われた会津の町。
煙に遮られ御城の天守が見えない。
途切れない銃声、砲声が耳を打つ。
土砂降りが濡れた身体から体温を奪い、睡眠不足、疲労、空腹が重なる。
心が折れた。
『もはやこれまで---』
絶望した少年たちは自刃の道を選んだ。



飯盛山には、自刃した 16人とその前の戦闘で死んだ3人、
併せて19の墓石が並んでいる。



「白虎隊」に最前線出撃を命じた場所が「滝沢本陣」。
参勤交代や領内巡視で、殿様の休息所として使われたここに、
戊辰戦争の際は陣が敷かれた。
城下に侵入した新政府軍との交戦地にもなり、室内には多くの弾痕、刀傷が残る。
155年前の生々しい痕跡が戦いの激しさを物語っていた。





そして会津娘子隊(じょうしたい)である。

夫や父、兄弟の無念を晴らさんと武器を手にした女性たちは、志願兵。
中心人物が薙刀の名手「中野竹子(なかの たけこ)」。
会津と新潟を結ぶ越後街道の川に架かる橋の上で、
ついに仇敵と遭遇した「娘子隊」一行。
「竹子」も薙刀を血に染め奮闘するが、頭を撃たれ重傷を負った。
今わの際(きわ)妹に介錯を頼み、事切れたという。



彼女は薙刀の柄に次の一句を書いた短冊を括り付けていた。

『もののふの 猛き心にくらぶれば
   数にも入らぬ 我が身ながらも』


「会津娘子隊」と「白虎隊」。
正直、どちらもさほど戦功を挙げた訳ではない。
しかし、藩のために戦い、主君に忠義を尽くし命を散らした彼らは美化され、
一時期、軍国主義教育に利用されたのはよく知られるところである。
                
〈次回へ続く〉
          
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