つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

大西山で垣間見た、津幡町の昔。(れきしる企画展)

2020年01月27日 09時39分06秒 | 日記

今回は、きのうの続編。
大西山へ散歩に出かけた折、
兼ねてより企画展開始の案内を頂戴していた「津幡ふるさと歴史館」にお邪魔した。

間もなく開館4周年を迎える「津幡ふるさと歴史館:愛称れきしる」。
度々、拙ブログにも登場しているが、
ご覧の皆さん・・・取り分け津幡町民の方は訪れた事があるだろうか?

「れきしる」は、加賀~能登~越中の三叉路を望む大西山にあり、
縄文時代から現代までの津幡町の歴史を見聞できる。
館内では、常設展示の他に、企画展示やイベントなども随時開催。
今回は「石川中央都市圏考古資料展 中世編~祈りと信仰」を拝見した。

タイトルにある「石川中央都市圏」とは、
県中央部に位置する6市町の連携を指す。
人口減少・少子高齢化対策として様々な取り組みを行っているが、
この企画展も、その一環である。

白山市、野々市市、金沢市、かほく市、内灘町、津幡町で発掘された、
出土品の数々を展示。
津幡町からは「庄ナカナシマ遺跡」と「田屋森山遺跡」の出土品が並ぶ。

「庄ナカナシマ遺跡」は、現在の住吉公園付近。
「つばた幼稚園」建築工事の際に発見された。
12世紀末~13世紀初頭にかけての「土師器皿(はじきざら)」が出土。
(※土師器:古墳時代から奈良・平安時代に生産された素焼きの土器)
祭祀行為のために大量投棄したと推測される。
同遺跡の年代は、豪族「津幡氏」や「井家氏」が歴史の表舞台から消える頃と合致。
出土品は、わが町にとって貴重な史料だ。

遺跡名称「ナカナシマ」は辺りの地名。
漢字なら中島 中名島、あるいは那加島か?
いずれにしても「津幡川」の流れと関係があるだろう。
川の畔の土地をそう名付けたのか。
蛇行する「川に囲まれた土地」で、離れた地点から島のように見えたのか。
はたまた川の水を引き込んだ船着き場だったのか。
・・・展示品を見つめながら、800年ほど昔の風景と、
土師器皿を使っていた先達たちの姿を想像し、楽しい時間を過ごす。

もう一つ「田屋森山(たやもりやま)遺跡」は、
町中心部から車で30分余りの山間地にある。
大正9年(1920年)、開墾中に発見され、
土の中から1万枚あまりの輸入古銭が出土した。

展示品の時代は「北宋」の文字が目立つ。
当時の中国は地域経済・流通が発展。
また、海を越えて交易が行われ、商人たちがアジア全域へ進出し、
多くの通貨が鋳造され、貨幣経済が発達した。

これらの古銭たちも遥か彼方から来日し、人の手から手へ渡り、
津幡町の山中に埋められ、20世紀に掘り出されて今ここに在る。
漂流の果てに辿り着いた物言わぬ古銭を見つめ、
壮大な旅を思い描いて、感慨を抱く。

「石川中央都市圏考古資料展 中世編~祈りと信仰」は、
3月1日(日)まで開催している。
ご都合が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
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大西山で垣間見た津幡町の今。

2020年01月26日 21時27分25秒 | これは昭和と言えるだろう。
北陸は、暖かな冬が続いている。
春を思わせる陽気に誘われ、大西山へ足が向く。

よく晴れ渡った青空を見上げつつ坂道を上ると、
石垣の向こうから、子供たちの掛け声が聞こえてきた。

20~30人くらいが声を合わせ、元気に小学校のグラウンドをランニング中。
やがてシートノックやバッティング練習へと移っていくのだろう。
手前に陣取るのは父兄の皆さんか?
日曜日らしい光景を微笑ましく見守りながら思う。

「・・・参加人数が少なくなったなぁ。」

僕が子供だった昭和の頃、野球はスポーツの花形だった。
ブラウン管に映るナイターゲームは家族団らんの定番であり、
グローブやバットは遊びの必需品。
もっと沢山の野球少年たちがいた。

地上波TVから野球中継が消えた今、競技人口も減ったと聞く。
野球は誰もが親しむスポーツではなく、やりたい人が打ち込む競技に。
お茶の間のセンターではなく、好きな人が観るスポーツになった。
そして、少子高齢化が追い打ちをかける。
これも時代である。

グラウンド横では、放課後児童クラブ建築工事の真っ最中。
大西山の麓にも学童保育施設はあるが、
そこが手狭になり、もう一つ必要になったらしい。
共働き、核家族、母子・父子家庭の増加。
就労時間の多様化。
地域連帯の希薄化。
理由は様々あれど、これもまた時代である。

この児童クラブについての記載は、
「津幡ふるさと歴史館」の館長さんと交わした会話が元になっている。
大西山への散歩は、同所訪問も目的の1つだった。

・・・明日に続く。
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賭けたり、競ったり、出張したり。~江戸川競艇観戦記。

2020年01月19日 12時03分47秒 | 賭けたり競ったり

年に一度の東京出張へ出かけた一昨日、用事は日帰りだが延泊。
折よく開催日程が重なったお陰で、江戸川競艇場へ初訪問できた。
全国に24ある競艇場の中で「個性的」と言われるそこは、
噂に違わず面白いトコロだった。

まずは正面入り口に白と黒の大魔神がお出迎え。

著作権を所有する角川映画の許可を得て、2008年5月、設定と同じサイズを再現。
台座を含めると5・7メートルにも達する。
これはいかなる意図か? 
場内に足を踏み入れて分かった気がした。
・・・どうやら、昭和レトロ演出らしい。

「唸る轟音!飛び散る水飛沫!痛快無比の水上活劇!」という看板のコピーも勇ましい。
立ち上げ当時のポスターでも再現したのかと思ったが、
投票所に並ぶ映画看板を見て、同一人物の手描きだと察す。

作者は「久保板観(くぼ・ばんかん)」氏。
東京都・青梅市出身。 
「最後の映画看板師」と呼ばれ、最近まで筆を握っていたが、
一昨年2月4日他界、享年77。

ある方は、過ぎ去った記憶が蘇り、
ある方は、古き良き時代にタイムスリップ。
場所が場所だけに「江戸川競艇」が産声を上げた、
昭和30年(1955年)当時を想起させるかもしれない。

さて「江戸川競艇場」は、全国で唯一、河川(中川)を利用した競走水面。
河口近くに位置し、水質は海水。
年中風の影響を受けやすく、レース中止も珍しくない。
また、川の流れの他、河口に近いことから上げ潮や下げ潮による水位の変化も加わり、
「屈指の難水面」として知られている。

対岸には大型映像装置がない。
川面に沿って走る高速道路により、設置が叶わないためだ。

堤防自体が階段状のスタンドになっていて、
水面際の観戦と舟券投票のためには、堤防を越えなければならない。
なかなかいい運動になる。

観戦スタンドには「妖怪道五十三次」。
こちらは「歌川広重」の浮世絵「東海道五十三次」と「水木しげる」氏のコラボ作だ。
やはり昭和レトロの趣が漂う。
じっくりと観賞したかったのだが、当日はあいにくのお天気。
霙混じりの雨が降り止まず、凍えるほど寒く断念した。

そんな中で元気いっぱいだったのは、参戦している女子レーサー達と、
(当節は「オールレディース江戸川女王決定戦競走」)
カモメ達だ。
上記画像中央の空間を飛ぶ様子が、お分かりになるだろうか?
海の傍という事もあり、終始何羽も姿を見かけた。

妙に堂々としている。
近付いてカメラを向けても逃げる気配がない。
きっと人から食べ物をもらうのも珍しくないんだろうなと思っていたら案の定。

売店には「エサやり禁止」のお知らせが掲示。
それに従い、場内で江戸川名物「アジフライ(170円)」を頂いた。

アツアツ、サクサクで旨し。
イベントの一環なのか、入場の際に配布した「500円分場内利用券」で購入。
つまり、タダで食べられた。
ご馳走様でした。
他にも、雨の日は「レストラン笑和」の全メニューを500円均一販売。
来場者を慮ったありがたいサービスに感激した。

さて、レースである。
昨日は北寄りのホーム向かい風がやや強く、順目の下げ潮が流入。
1Rから4Rまでは安定板が装着された。
序盤は1号艇が4連敗。
5R以降はインが8連勝。
まさに潮目が変わったかのような展開。
2号艇が苦戦を強いられ、着外に消えるケースが目立った。

僕の舟券は当たりハズレを繰り返して一進一退。
とりあえずプラス収支だったが、終盤の高配当をモノに出来なかったのが残念至極。
しかし場内同様、レースも大変楽しめた。

ピットと観戦場所の近さも、江戸川競艇場の個性の一つ。
わずか10メートルに満たない距離で、選手たちのピットアウト・インが見学できた。

展示航走を終えて戻ってきた舟は、ピットイン直前でクルリと反転。
バックで所定の位置へ。

レーサーにすれば基本の操船だろうが、目の当たりにして感心する。
辺りにファンも集まり、ご贔屓へ励ましの声援を送っていた。

また、レースを終えて戻ってきた舟は、クレーンで吊り上げられて格納。
こんな仕組みは、江戸川にしかないかもしれない。

そして、コレも江戸川ならでは。
レースの合間に、競争水面の中を一般の舟が通行するのだ。
他にはまずない。
通過舟が抜けるまで、その舟が起こす波が消えるまで、
レース開始時間を遅らせるのである。

「江戸川競艇場」は、難水面で個性的。
ファンファーストの素晴らしい所だった。

さあ本日(2020年1月19日)は準優勝戦の開催日。
そろそろ「ミニボートピア津幡」で、昨日の続きを楽しむとしよう。
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しにくる人のおちざるはなし。~地獄太夫。

2020年01月18日 00時57分21秒 | 手すさびにて候。

ほんの手すさび手慰み。
不定期イラスト連載、第百二十八弾は「地獄太夫」。

死に来る人の堕ちざるはなし」。
(死なない人がいないように、私を抱いて惚れない者はいない)

自信過剰。
傲岸不遜。
そう受け取られても不思議じゃない詩歌の作者は、源氏名を「地獄」と名乗った。
生没不明。
室町時代の遊女とされる。

幼い頃、山賊に捕らえられた美女が流れ着いたのは、花街の闇。
前世の因果を呪い、春を売って生きる自らの境遇を嘲(あざわら)うかのように、
地獄絵図を描いた打掛を纏い、念仏を唱えながら、仏像の前に客を迎えた。
一方で、心で仏名を唱え、風流な歌を詠み、人気を博したという。

その特異な遊女に興味を抱いた人物が「一休禅師」・・・「一休さん」だ。
時の仏教界に反旗を翻す風狂な破戒僧でもあった「一休さん」。
堂々と遊郭へ足を運び、太夫を前に歌を贈る。

「聞きしより 見て恐ろしき 地獄かな」
(地獄の評判は耳にしていたが、会ってみると噂以上に美しい)

これに対する返歌が冒頭の一節。
つまり、完成形は両方を合わせて味わわねばならない。

聞きしより 見て恐ろしき地獄かな 死に来る人の堕ちざるはなし」。

やがて時が流れて江戸末期。
「地獄太夫」は、読本や歌舞伎に取り上げられ、浮世絵の題材になる。
明治・大正時代にかけても、多くの絵師や小説家がモチーフにした。
つまり、皆、彼女の魅力に抗えず、恋に堕ちてしまったと言えるかもしれない。
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左義長と禁止の園。

2020年01月13日 18時14分06秒 | 日記

本日午前「初詣」に続き、「太白山(おおしろやま)神社」を再訪した。
目的は「左義長」である。

皆さんの近隣でも行われているのではないだろうか。
小正月の頃、神社やお寺、田んぼなどに、
青竹、藁、杉、檜の枝を集めた櫓(やぐら)状の組み立てを作り、
門松、注連飾りや書き初めの書などを火にくべる。
古くからある伝統行事だ。

2年続けて喪中の為、正月飾りはないが、
お守り、お札などを焚き上げてもらう。
終了ギリギリに持ち込んだため、熾火になっていたが、
快く引き受けてもらえた。

愛犬共々、息を切らして駆けつけた甲斐があった。
ありがとうございました。

その帰り道、妙に「禁止の多い公園」の前を通りかかる。

犬の散歩禁止。

ボール遊び禁止。

周辺の駐車禁止。

そして、ゴミの持ち込み禁止。

公園の名前を示す看板は見当たらなかった。
小さなスペースにはルールがいっぱい。
頷けるものばかりだが、
コンプライアンスに厳しい「時代の流れ」も見え隠れする。

野焼きの類と言える「左義長」が、
将来、禁止・自粛・縮小にならない事を祈る。

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