老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

正当で本格的な政権交代とするためには

2009-08-11 15:55:48 | 憲法
日本国憲法に帰らなければならないのではないか。戦後日本の出発点、最初のマニフェストともいうべき日本国憲法から、戦後60有余年の進捗を見て、再度、国民のための確かなプランを思い描かなければならない、と思う。

今月末の総選挙で、政権交代が確実視され、或いは2大政党制云々と喧伝されている。われわれにとってどう良いのかどうか、確認する必要が出てきた。

なぜこんな問題意識を持ったかというと、つい先日「原爆症認定訴訟での全員救済。但し、申請中の7600人は対象外…」などという麻生政権の決断に遭遇したから。
 
何故こんなことになるのか?当時いろいろ事情はあったのであろうが、いわゆる被爆者援護法の規定の仕方に問題があったのではないかとも。ここでは、原子爆弾のことは触れているが、原子爆弾を投下した米国のことも、またこれにより、米国が主張する「先の戦争を早期に終結させた」とする政府による戦争の惨禍も触れられてはいない。意識的に、政・官が(利害が一致)共同して避けたのであろうか。
 
戦争末期の、東京大空襲(確かに全国的に米軍による空襲を招いているが、規模は格別で原子爆弾並みの大惨事)については、訴訟が猶継続している。戦後の政・官は、東京大空襲等、一般人の戦争被害には、手当てする法律をつくろうともしなかった。

しかし、こんなことは、日本国憲法前文第一段落にある「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(政府による戦争責任)を直視、継承するなら、一切の責任を引き受けられる筈である。
 
被爆者援護法の中においても、原爆投下を招いた政府の戦争責任を当然のこととしておけば、こんな訴訟沙汰、或いは面妖な線引きに、政府は七転八倒、難渋する必要もなかった。そうであれば、原爆被害者乃至(東京大)空襲被害者らをして、訴訟沙汰に及ぶ・難渋を回避することができたのだ。国民も満足するし、政府の訴訟費用(人的資源・税金の無駄遣い)も発生しなかった筈だ。
 
その(国民の傷み、戦争責任への)鈍さには呆れる。また、逆に言えば、政府らが国民の人権保障に強い意欲を持ち、傷みを共有しようとしていたら、戦争責任を回避したとしても、同じ目的は達していたであろう。人権保障の進捗の方面でも落第だった。いったい、何故にわれらの代表者(国会議員、政府、裁判所)は、『政府による戦争の惨禍』を、戦後ずっと真正面から認めようとしてこなかったのか、と思う。

更に、政・官によって戦後無視乃至軽視されてきた「日本国憲法第8章 地方自治」の問題もある。裁判員制度導入で“民主主義の学校”などという触れ込みがあったが、地方自治もそういう位置づけだった?筈。しかし、実際には、伝統的官僚制度による中央集権が過度に進み、道州制などという代物が話題に上っているが、中央集権化の一段階・態様というような気がする。知事や市長が、その座を蹴って(踏み台にして)、国政に出ようとする風潮を見ると尚更に、その感が強い。

日本国憲法に帰り、改めて、民主主義の主役は、彼らではなく、われわれ国民、有権者であることを、肝に命じたいもの。われわれにこそ、われわれ及び子・孫たちのための幸福、将来の青写真が必要なのではあるまいか。その審美眼を持って、衆院選の代表者も選び、今後をも注視したいものです。

「護憲+コラム」より
蔵龍隠士

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