花の公園・俳句 ing

日本は素晴しい花の国。美しい花々と公園、四季折々の風景を記録したいと思います。我流の俳句は06年3月12日からです。

斬首はイスラームの原点だった!

2017年07月22日 08時48分34秒 | 本、HP制作、写真のアップ       
「ムハンマドの生涯」 アンヌ=マリ・デルカンブル著、後藤昭監修、
小林修・高橋宏訳、創元社 2003年。

著者はフランス人のイスラム研究家で、アラビア語で博士号を取った
そうです。

預言者ムハンマドの生涯が詳しく描かれ、図版も多く読みやすくなって
います。死後の教団の抗争もあるていど書かれていますが、教義につい
ては専門的ではありません。

驚いたのは、ムハンマドのメディナ時代の行動です。
* 632年12月、メッカから逃れてきたムハンマドたちムハージル―ン(移住者)
はメッカの隊商を襲撃して荷物奪い、メッカ側に1人の死者を出してしまい
ました。それは血を流すことを禁じられている聖なる月のことで、メッカ
側は怒りました。しかしムハンマドに下った啓示は、「現在までにメッカの
者たちが犯した罪は、聖なる月の殺人以上のものである」ということだった
そうです。(80-81p)

* これに気を良くしたムハンマドはさらに大規模な襲撃を行ないます。
それがバドルの戦いで、といっても隊商を待ち伏せ襲撃するというもので、
メッカ側では死者74名を出すほどの大損害、ムハンマド側は死者14名に
過ぎず、大勝利となったそうです。これがいわゆる「ジハード」、アッラー
の敵に対する聖戦の始まりです。
そして聖戦に倒れたムスリムは、「シャヒード」 (殉教者にして神の証人)
の称号を受けることになったそうです。(82p)

今日、いろいろな解説書で、ジハードは 「心のジハード」 が本来だという
ようなことが書かれていますが、聞こえ良くするための言いつくろいという
面が強いと思います。草創期から、神の敵に対する物理的戦闘という意味
にも使われていたことが明らかです。

◆何よりもこの一文にたいへん驚きました。
627年3月、「ハンダクの戦い」でメッカ軍に勝利すると、メディナのユダヤ
教徒クライザ族がメッカ側にひそかに味方していた罪を責め、

「メディナの市に大きな穴が掘られた。縛り上げたユダヤ教徒をそこに引き
ずりだし、ひとりずつ首をはね、死体を穴の中に放り込んだ。処刑された者
は1000人あまりにものぼった。」(88p)

これはISが異教徒の首をはねる動画で世界中を驚かせましたが、その原型
といえるものです。それを最高・最後の預言者ムハンマド自身が指揮して
行なわせたのでした。ISはそれを再現して見せただけなのです。恐怖心を
与えるというよりも、自分たちは預言者の行動に従っているとPRしたのです。
こんなことはまったく報道されていません。

あれはイスラームではない、という弁明はまったくの欺瞞です。逆に、
「あれこそがイスラームなのだ」と言って差し支えない。そうではないと
いうムスリムは、クルアーンやハディース(言行録)を否定しなければなら
ないことになります。それが出来るのでしょうか。

* 翌年、628年5月、ムハンマドはハイバルという豊かな町を攻略し、支配
下に置いたのですが、そのさい、17歳の若妻サフィーヤの夫が財産を隠匿
しようとしたとして殺し、サフィーヤを自分の妻にしました。(92p)
こんなことは、春秋の筆法で言えば女を奪うために聖戦と称して戦を起こ
し、多くの人を殺すという、ありえない非道な所業です。人間として許さ
れるはずのない悪行です。

* しかし勝てば官軍。イスラーム教徒はかれを最高の預言者とし、クルア
ーンは絶対の真理となり、ハディースを判断の基準とするというのです。
私にはムハンマド氏についていくことはどうしてもあり得ない。どんなに
一つ一つの言葉がよいものだとしても、いろいろと言いつくろっても、上
に書かれたような所業を思うと、とても信頼できないのです。


イスラーム教徒はあまりクルアーンを読まないといわれています。だから
こんなことは知らないかもしれない。それでいながらイスラームのいろ
いろな規則に縛られている。かわいそうな人々です。
    (わが家で  2017年7月22日)

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